「ねえ、もう、帰らない?」
ふと目をさますと、クルミがあたしの顔を覗き込んでいた。頭がぼーっとしている。どうやら本当に眠ってしまったようだった。外は薄暗くなっている。
「やば。寝ちゃった。早く行かないと。バスなくなっちゃう。」
「え?そなの?」
「うん。駅への終バス、7時だったから。」
「うそ!?もう6時だよ。バス停まで結構歩いたから、もう行かないと。」
「うん。ごめんね、あたしがつい・・・。」
「ううん、いいの。私も、寝ちゃったし。気持ちよかったもんね。」
クルミはにっこり笑って、立ち上がった。あたしもそれに続く。廊下を進んで、職員室へ。するとそこにはもう誰もいなかった。電気もついておらず、鍵もかかっている。先生、帰っちゃった・・・?
「あれ?おかしいな。先生、どこ行ったんだろ。」
「帰っちゃったんじゃない?私たちが、遅かったから。」
「ま、まさかあ。あたしたちをおいて、そんな・・・。」
「でもあの人、忘れっぽい性格してそうだけど?」
確かに、あたしが習っていた時の坂田先生は、物忘れが多かったように思われる。でも、あたしたちのことまで、忘れるものか?うーん、年取って、物忘れがひどくなったのか。
「・・・そうかも、しれないね。じゃあ、あたしたちも、帰る?」
「そうしよっか。電話番号とか、知らないよね?先生の。」
「まさかあ。」
「そういえば、マスターキーは?」
「え!えーと、あれ?ないよ?あたしのポケットに・・・。」
「うそ・・・。なくしたの?」
「ま、まさか・・・。」
「ちょ、ちょっと探してみよ。さっきのとことか・・・。」
「う、うん。」
あたしはだんだん、怖くなってくるのを感じた。それが、だんだん暗くなってくるせいか、思わぬことが次々に起こるせいか、あたしにもわからなかった。ただ、靴下だけの足元が、ひどく冷たく感じた。
それからあたしたちは、二人で手分けして学校の中を探して回った。しかし、先生も、マスターキーも、一向に見つからない。タイムリミットも迫っていたため、あたしたちはとうとう、それらを諦めることにした。バスを逃したら、帰り用がない。山路を延々と歩かない限り。
あたしは学校の何処かで先生探しをしているだろう、クルミに電話をかけようとした。彼女は未だに、ガラケーを所持している。先ほどまでいたあの広間に戻る。置いていたバッグの中にスマホが・・・。あれ?ない・・・。スマホどころか、財布も、タオルも、その他のもの、なにもかもがなくなっている。入っていたのは、水の入ったペットボトルが、2本だけ。バッグの口は閉じていて、でも重さは変わらなかったから、持っただけでは、気づかなかった。
これは・・・?あたしはふと思い立って、玄関へと走った。靴下だけの足元が滑る。何回か、転びそうになった。足の裏は、真っ黒になっている。真っ暗な校舎。玄関の鍵は、あいていた。クルミと一緒だった時は、閉まっていたのに。しかも、クルミの靴がない。じゃあ、クルミは・・・。
その時だった。突如、校舎内を、不気味に音楽が流れ出した。ジャニーズの人気グループの新曲。確か昨日、着メロとして配信され始めたばかりだ。あたしはその音楽の源を探し出した。それは、玄関に飾られている、小さな像の手のひらの上にあった。バイブによって、落ちかけている。見たことのない古い携帯。少なくとも、クルミのものではない。あたしは恐る恐る、それを開いてみた。画面には、”クルミ”の文字が。相手は、彼女か。あたしは少し躊躇って、でもどうしようもなくて、その電話に応えた。
「・・・もしもし?」
『・・・・・・。』
「く、クルミでしょ?い、いま、どこにいるの?」
『・・・バス停。』
「ふーん、そっか・・・。・・・!!?は!?バス停!?なんで!?」
『だってもう、時間じゃない。』
「ちょ、ちょっとまってよ。だってまだ6時・・・あれ?これ、止まってる!?」
あたしは自分の目を疑った。さっきから何度も時計を確認していたのに、それは5時48分の時点で、止まっていたのだ。それをあたしは、なぜ・・・。
『もう、ドジだなあ。とにかく、早くおいでよ。・・・と言っても、もうあと10分でバス、来るけどね。』
「・・・ちょっとクルミ、どういうことよ?なんでそんなことするのよ。この携帯はなによ?なんであたしのものが何もかもないのよ!?」
『自分で、考えてみたら?』
「なにを・・・。・・・待ってなさいよ。いまそっちに・・・、って、靴!あたしの靴がない!あんたっ!!」
先程はクルミの靴がないことに驚いていたのだが、よく考えると、あたしは彼女のすぐ隣に靴をおいていたはずだ。なのに、いま玄関には、何もない。あたしの靴も、そこにはなかったのだ。
『どうしたの?靴がないの?どうして?』
「あんたでしょ!?あんたよねえ!!?なによ!なにがしたいの!?返しなさいよ、靴!っていうか、何もかも!!あたし、いまなにも履いてないんだから!ケータイもないし!」
そう、いま、あたしが履いているものといえば、薄いレース付きの白ソックスだけ・・・。それも、足の裏は埃で真っ黒な・・・。これでは外に、出られない。
『じゃあ、ずっとそこにいたら?また明日になれば、きっと誰か来るよ。』
「あんた、あたしをここに閉じ込めるつもり!?なにが目的よ!」
『あなた、覚えてない?あなたのいまいる学校で、昔あなたがやったこと。』
「知らないわよ!!どこにやったのよ、あたしの靴!!」
あたしは足をもぞもぞさせて、電話で叫んでいた。実際、あたしは叫びながらも、トイレに行きたくなっていた。ここに来た時から、思えば一度も行っていない。あたしはすぐさま、近くのトイレに入ろうとした。
「な、なによ、これ。」
しかしトイレの中は、入れたものではなかった。床一面、いや、トイレという空間全体が、水浸しだったのだ。しかも今現在も、トイレの個室のドアの上に放置されたホースからは、勢いよく水が出続けている。とても靴下のままでは入れない。あたしは再び叫んだ。
「これもあんたなの!!?」
『なにがあ。あ、バス来ちゃった。乗るね。じゃあね~^_^』
「ちょ、おまえ!!!」
それから電話はぷつりと切れた。掛け直そうとしても、パスワードを入力しないと、操作はできなくなっている。これでは、彼女にどころか、誰にも助けを求められない。外に出ない限りは。学校の電話を借りようにも、誰もいないし、公衆電話っていうのもあるけど、お金ないし・・・。
あたしは生まれて最大のピンチに追い込まれていた。トイレに行けない。靴がない。おまけに、財布もない。全部あいつ。あの、砂川クルミのやったことだ。あたしは学校に閉じ込められた。こんなに身動きできるのに、学校の外に出られない。靴がない。・・・そうだ。何処かに、靴の代わりはなにかないだろうか。たとえ小さなスリッパでもいい。とにかく、足に履けるもの・・・。
なかった。教室という教室に全て鍵がかけられ、廊下にも、あの広場にも、そういった類はなかった。ただ一箇所、中から開けられるのは、玄関の鍵だけ。でもそこを開けても、すぐに外になる。砂のグラウンドが待っている。いままであたしは、一度も外を裸足で歩いたことなんてない。第一、今日みたいに、校舎内を靴下だけで歩くのも初めてだった・・・。
うう・・・。トイレ、行きたい。でも、さっき全てのトイレを見て回ったけれど、どれも同じ、ホースから出続ける水で全体が水浸しという悲惨な状況。明日になれば乾いているかもしれないけれど、今使えないと・・・。あたしは足元に視線を向けた。フリフリのソックスの飾りが見える。もう、行くしかないのか。あたしは一番水の被害の少ない、2階の端のトイレの前に立った。ホースが蛇口から抜けてしまい、いま水は蛇口から排水溝へと勢いよく流れ続けている、ここなら、いくらかマシだ。
ごくりと息を飲む。左足をそっと持ち上げて、恐る恐る、水浸しのトイレの床に。そして、そっと、つま先をつけた。途端にヒヤッとした冷たさが身体中を走り抜ける。尿意が強まる
ううう・・・。あと、ちょっと・・・。右足も水の犠牲となり、そのまま爪先立ちで、なんとか濡れる範囲をつま先だけという最小範囲に抑えて、一番手前の個室に入った。
しかし、そこは、和式。くそう、なんでまだこんなの残ってるのよ。いまは洋式の時代じゃないの。くそったれ。和式だったら、その、嫌でもつい、足の裏全体が、床に着いちゃうじゃないのよ。あたしは洋式がいいの。う・・・。はやく、したい。また歩を進めて、一つ奥のトイレ。ここも和式。次。ここも。ちょっと、どういうこと・・・。ここ、全部和式じゃない。なんで?あ、そうだ。洋式トイレって、後から導入されたんだっけ。だから、一部のトイレにしか、ついてないんだ。そしてここが、その運悪い、それ以外のトイレ・・・。まさか、あいつ、これを知ってて、ここだけホースを・・・。くそったれ!!
あたしはもう、考える暇もないほどに限界だった。ああ、もう、どうにでもなれ!
結局一番初めの個室に入り、意味もなく鍵をかけて、腰をプルプルしながら落とした。同時に床につく足の裏の範囲が・・・、きゃ!!
バランスを崩した!!かろうじてトイレの床にバシャーンはまぬがれたけど、足の裏は水の餌食に・・・。うう、冷たいよお。なんであたしが・・・。
それから泣きながら用を足す頃には、靴下の足の裏全体がびしょ濡れ。気持ち悪いこと甚だしい。脱いじゃいたいけど、裸足はいやだし・・・。
やっとの思いでトイレから出る頃には、疲れがぐっとこみ上げてきた。
校舎内を、靴下だけで?あれ、この光景、昔、何処かで・・・。
そしてあたしは、とうとう思い出した。あたしがこうなった、原因を。
私はドキドキ、ワクワクしながら、通学路を歩いていた。中学一年生。小学校はずっと遠くのに通っていたのだが、お父さんの仕事の都合で引っ越しをし、この中学校に通うことになった。
クラスには当然ながら知らない人ばかり。しかもこの地域は小学校からそのまま持ち上がる生徒がほとんどで、2クラスしかなかったから、すでにみんなが友達同士で、グループができていた。この輪の中に入れるのかな。私は最初、不安でいっぱいだった。
クラスには当然ながら知らない人ばかり。しかもこの地域は小学校からそのまま持ち上がる生徒がほとんどで、2クラスしかなかったから、すでにみんなが友達同士で、グループができていた。この輪の中に入れるのかな。私は最初、不安でいっぱいだった。
でも入学式初日の放課後。帰り支度をしていると、何人かの女の子たちが、私に話しかけてきてくれた。
「はじめまして、だよね?あたし、千田ユリア。これから、よろしくね?」
「あ、あの、私、吉岡トモヨ。よろしく。」
ユリアはにっこり笑って、
「かわいいね。」
と言ってくれた。
それから私は、ユリアのグループに入って、楽しく学校生活をしていた。ユリアは成績が良くて、スポーツも私のクラスの女子の中では一番のできだった。次第に彼女は、私の憧れの存在になっていった。
しかし、入学式から3ヶ月。私は唐突に、ユリアからこんなことを言いつけられた。
「なんかさあ、あんた、ムカつくんだよね。ウザいっていうか。なに?あたしに気に入られようとしてんの?」
私はショックで、頭が真っ白になった。憧れの存在、信頼できる存在だったユリアが、そんなことを言うなんて。信じたくなかった。私は耳を塞いだ。するとユリアは、その手をパチンと打った。
「よーく聞きなさい。いまからあなたは、あたしの言いなりになりなさい。」
「え?」
「だって、あたしに気に入られたいんでしょう?だったら、なんでもしてくれるよね?」
私はその時のことをいまでもはっきり覚えている。そして思い出すたびに、自己嫌悪に陥る。
私はあの時の行動を、酷く後悔している。
頷いたのだ。そして
「ふふ、なかなか聞き分けいいわね。じゃあ、『わかりました、ユリア様』って、言ってみなさいよ。」
その時の私は、どこか狂っていたのかもしれない。いや、確実に、そうだった。
「わかりました。ユリア様。」
私の口から出た言葉に、自分自身、驚き、怒りを感じていた。確かに私はユリアのことが怖くて、そう言うしか、彼女の要求を呑むしか、手はなかったのかもしれない。でも、やっぱり、嫌だった・・・。
その時から私は、ユリアの奴隷になった。ジュースが欲しいと言われれば、彼女が納得のいくものが見つかるまで何本も買わされ、校内では上履きを履くことを禁じられ、靴下のまま、毎日を過ごし、放課後はみんなの宿題をやらされ、荷物を持たされ、彼女とその仲間のやった罪をなすりつけられ、謝ることになり・・・。挙げ始めればきりがない。
そして夏休みにはいると、私は因縁のその学校を去った。口実は、お父さんの仕事の都合。でも実際は、違う。
転校して、新しい中学校から、高校に無事進学し、大学にも、現役で合格。それからの私は、充実していた。
しかし大学の入学式。私は神様を恨んだ。隣に座ったのは、あのユリアだったのだ。すっかり大人になって、髪も染めて、化粧もバッチリで・・・。でもそれは確かに彼女だった。毎日見上げていた彼女のあの顔を、私は忘れもしない。私の心に、復讐の炎が灯った。私は昔の私じゃない。
彼女は私と同じ学部、学科、コースに入学しており、授業ではよく顔を合わせ、1週間もすると普通に会話できるようにまでなった。名前は、思い出されてはいけないから、偽名を伝えた。高校時代、同じクラスだった女の子の名前を組み合わせて、"砂川クルミ"。
私は当時のことを、決して忘れることのないように、日記をつけていた。そのときの名残で、大学生になったいまでも、それは続いている。
私は大学の入学式の夜から毎日、当時の日記を読み返し始めた。ほとんどの記述は、暗唱できるほど読み込んでいた。絶対忘れるものかと、あの当時は書いた日記を毎日読み直していた。
しかし今読み返すと、改めて自分が嫌になる。私をこけにしたユリアも悪い。だがそれになにも言い返さなかった私も悪い。
そして夏を迎えた。ユリアは夏休みの予定を、私に聞いてきた。私は応えた。「私が通ってた小学校とか、中学校とかに行って、あいさつしようかなと思ってる。」
すると彼女はちょっと考えて、
「あ、じゃあさ、空いた日に、あたしの中学校、行かない?いい学校だったんだよ。」
私の方からさそおうかなと考えていたのだが、まさか彼女の方から誘ってくれるなんて。私が、自分の奴隷だった吉岡トモヨだとも知らないで。
私ははまず、行こうと約束していた日の前日、私たちと一緒に行くことになっていた子たち全員に、断りのメールを送った。
"ユリアからのメールで、明日は、都合が悪くなって、中学校訪問は中止と言うことです。ごめんなさいとのこと。"
そしてユリア本人には、みんな急用ができたと、当日伝えた。少し驚いている様子だったが、特に気にする様子はなかった。
学校は当日の面影を残していた。真っ白だった建物は汚らしく灰色に汚れていた。その時唯一いた先生は、全く知らない先生だったが、(あらかじめ調べて、私が知っている先生はいないことを確認していた。)ユリアは知っていたようだ。
学校に行くと言うことで、もちろんスリッパはいるだろうと考え、持ってきていた。ユリアも予想通り、きちんと持ってきた。彼女は足元が汚れることが嫌いだということを知っていた。裸足になる時は、最後まで嫌がって、なかなか靴を脱がなかったのを覚えている。
だから私は、ユリアがバス停でバスの時刻を確認している時、彼女のバッグからスリッパ入っている袋を取り出し、その後トイレに行くふりをして、ゴミ箱に捨てた。
学校に着くと、彼女は少々慌てていたようだが、彼女だけが靴下のまま、校内を歩くこととなった。学校のスリッパが全てないという事態には感謝した。そうでなかったら、私が直々にいらないと言うことを伝えるつもりだった。
私は機会を伺っていた。因縁の学校。この場で彼女に復讐をする。彼女は当時から、あの円形の広間が好きだった。ああなる前はよく私も一緒に連れて、そこで談笑していた。
だから彼女はきっとこの日もあそこに行くと踏んだ。私はあの広間につくと、彼女に睡眠剤入りのヨーグルトキャラメルをあげた。睡眠剤は粒のままにして、それをラムネだと言って。彼女は何の疑いもなく、口に入れてくれた。そしてすぐに、眠りについた・・・。
こうなれば、あとはもう私のものだ。彼女のバッグの中のものを根こそぎ取り去り、不審に思われぬよう代わりにペットボトルを入れ、学校中の教室の鍵を閉め、そして、彼女の靴を私のバッグに入れ、その他の全ての、校内の靴の代わりとなるものは隠し、最後にマスターキーを先生に返し、お礼を言って、二人で帰るように見せかけた。その後午後5時、先生はきちんと玄関に鍵をかけ、車で学校を去っていった。閉ざされた校内には、ユリアだけが取り残された。彼女との連絡手段は、10ケタのパスワードを入れないと使えないが、着信はできる携帯電話のみ。それを玄関の銅像の手の上にこっそりと置いていた。案の定彼女は気づいて、私に怒りをあらわにした。その時私は、すでにバス停にいた。バイバイ、ユリア。せいぜい、あがきなさい。
中・終わり 下に続く