最近、また銀の匙(アニメ)を見直してます。やはり良いアニメ。前回見た時は一気見してしまったのですが、今回は味わうようにチョビチョビ見てます。最近ブログを書くことが無かったから語彙力が落ちているなぁ。なかなか文字を書く機会もないもので。明日はゼミのエッセイをやってしまわないと。それはそうとして銀の匙の話をしよう。北海道が舞台の作品で大蝦夷農業高校に入学した八軒勇吾くんの物語。彼は札幌の進学校で中学時代を過ごしたのだが、とある理由から大蝦夷農業高校へ。その理由というのは、親が関係しています。勉強をしろ、と強く言ってテストの点数で全てを評価する態度に嫌気が差して、寮があり、実家に帰らなくて住む農業高校に入学したのでした。その大蝦夷農業高校では学びの連続。命の尊さや、農業を生業とする人達の苦悩と喜び、人生について深く考えられるような含蓄のある経験をして八軒は成長していくのです。やはり、これを見て思ったのですが、人生を豊かにするのは人と人との出会いだなと感じました。勿論、人と人ですから時には喧嘩します。新しいコミュニティーに入っていくのは勇気がいることでしょう。仲間外れにされてしまう可能性もある訳ですからね。人間関係の面倒臭さも、きっとあるでしょう。相性が悪いということもきっとある。でもね、それを上回るぐらいの幸せもきっとあると思うのです。友人との何気ない会話。楽しい思い出。仲間の為に頑張って、仲間に喜ばれる嬉しさ。仲間の温かさ。これはきっと人の輪に入らないと得られないものです。そして、人間は誰しもが社会的動物。一人では生きられません。一人でいると周りの人間が敵に見えてきたり、馬鹿にされているのではないかと思ってしまったりもします。自分は社会不適合者ではないのかと、自分は社会のどこにも属していないと、孤独になってしまいます。そして孤独になると人は自己を失う。自己(identity)というものは他者との関係性の上で成り立つものですから、他者の存在が無ければ自己も存在できないのです。そうすると自分自身を信じられなくなってくる。自分の行動が制御できない感覚に陥ってくる。これはあまり良くない状態です。だから、私たちはなるべく積極的に人の輪に飛び込んでいくべきなのです。『僕も混ぜてよ!』『私にも手伝わせて!』『一緒にやろう!』『私も入っていいですか!』。人の輪に単身、飛び込むということは、個対集団という関係になりますから、勇気もいると思います。しかし、誠意を持って飛び込めばきっと受け入れてくれる。私はそう思います。そして他者と付き合う上で細かい事を気にしてはいけません。お互い人間ですから失言もするでしょうし、人間なんですから互いに好きな所もあれば嫌いな所もあるでしょう。しかし人間関係とはそういうものです。私は中学、高校と集団の中で生活してきました。誰とでも話していました。学校の中にいるときは常に誰かと話していました。しかし、高校の学校祭のとき、いつも除け者にされているクラスメートの一人が一人行動をしていたので、『お前も混ざれよ』と言って彼を呼び込んだのですが、私がいた集団の友人達は大反対。私を置き去りにし、私と除け者の彼だけになってしまいました。そういった経験があってからというもの、私はどこか心に傷を負ってしまったようです。それまでは人間のことが大好きで誰彼ともなく話しかけるような気さくな人間だったのですが、高校の時のその一件から少し調子が狂ってしまった。大学に入ってからも、部活とサークルが長続きしなかった。どこか人を疑ってしまう癖がついた。高校時代、私が苛められた訳ではないのですが、その一件で、どこか性善説を信じられなくなった。そういう考え方だとドンドンネガティブ思考になっていって、『きっと彼は僕を馬鹿にしている』なんて思って、その人間のことが嫌いになってしまう。そうしてサークルや部活が長続きしなかった。それに加えて、私が大学生になってから暗い人間になってしまったのはもう一つ理由があります。それはファッションなどのお洒落にてんで疎い私は、そのファッション格差をまざまざと見せつけられる結果となった。中学、高校は全員ブレザーでしたから、ファッションの差は無い訳です。だから格好いい可愛いのヒエラルキーは『顔』『運動神経』、凄いと評価される基準は『学力』『実績』だった訳です。私は『顔』も平均以上ですし(自分で言うことではない)、『学力』もそこそこ良かった。そして運動神経も高い訳です(小学~高校までずっとリレーの選手。1クラス30人で4クラスあった中で常に。これは誇るべきことだろう。今となっては過去のことだが)。中学まではそれなりに美味しい思いもできた。しかし、高校で部活動を入れないクラスに所属してしまってからはどこか調子が狂った。進学校だったので勉強ができないただの劣等生になってしまった。じゃあ大学から運動を始めればいいのではないかと思う方も多いだろうが、大学生になった頃には高校時代勉強ばっかりで冴えない経験しかしてこなかったせいで自分に対しての自信が失われてしまっていた。牙を抜かれた動物に成り下がっていた。それでいて大学のバスケ部となると流石にレベルが高すぎる。高校の時の部活動のようにはいかない。というか私の大学はバスケ部が強かったから、所属している人間は全員スポーツ推薦で高校時代に全国大会に行ったチームのスタメンみたいな人達しかいない。流石にここに混ざるのは迷惑というものだろう。ならばサークルはというと、バスケサークルという言葉のイメージ通り、結構チャラチャラしていた。遊び人が多い感じで、皆ファッションで武装をしまくっているイケイケの男とイケイケの女ばかりだった。高校時代、好きだった部活動を一切やらずに勉強ばかりしてきたガリ勉くんにとって、そのハードルは非常に高く感じた。そしてバスケサークルに入ることを諦め、山岳部へ。特に理由は無かった。そこで意地の悪い先輩に出会い、喧嘩して部活を辞める。その先輩は本当に意地が悪く、チーム内で私の評価が下がるようなことを策略したりしていた。そして陸上サークルへ。しかし何故だろう、行くのが面倒臭くなって辞めてしまったのだ。うーむ。小さい頃は誰彼構わず仲良くなっていったものだが、経験を重ねると友人作りが難しくなるのは何故だろう。私もそうだっただろうが、人間は大人になると他人には壁を張るようになる。警戒心を持つようになる。それは多かれ少なかれ他者に裏切られた経験を持つからだろうか。しかし、そんな過去の思い出をいつまでも思い返していても仕方ない。私は現在大学3年生。既に3年間を無駄にした。あまり認めたくない事実ではあるが、これは事実である。そして、その孤独故に病み、睡眠障害にもなった(かかりつけ医は不安障害とは決して言わなかったが私はあれは不安障害であったと感じる)。そして現在も偶に、不安になることがある。大きな不安だ。それはきっと自分が所属している場所が少ないからだろう。ゼミの友人達とはとても仲が良いし、一緒に飲んだりもするが、何せゼミの集まりが週に一回なので、週に一回の集まりでは中々私の孤独は晴れない。他の6日間が不安になってしまう。家族との仲も良好だが、一人暮らしなので家族と普段は会えないし、なかなか家族との関係性だけでは所属願望は満たされない。いや、私は今ある幸せに目を向けていないだけだろうか。週に一回のゼミで何が悪い。仲のよい家族がいるのだから、それで所属願望は満たされるはずでは?私は多くを求め過ぎているのかもしれない。家族と仲良くすればいいではないか。しかし、家族とは友人のようには語りあえない。ゲームやアニメの話はできないし、下ネタも言えない。会話の内容は限られてくる。そうなのだ。両親と話す内容は意外と少ないものだ。しかし兄貴とは色んな話ができる。兄貴と仲良く色々会話すれば良いではないか。何故家族というコミュニティーをノーカンにする?結局私は自分と他者を比べているのか。分からない。ありのままの自分を受け入れるべきだ。そしてクヨクヨと考えるな。卑屈になるな。嫉妬するな。他人を敬え、自分を敬え。面白く楽しく生きろ。さんまさんを見習え。あんなに明るく生きているぞ。難しいことをネチネチ考えるな。楽しいことをしていたらいいんだよ。自分が楽しくなるために試行錯誤して日々を生きろ。