うーん。
あーー!
誰にも届かないと知りながらも今日も今日とて私は書きまくりますよーだ!
執筆しまくりますよーだ!
ネットは不確定でデータを消せば今までの努力も水の泡になってしまうような脆い媒体だけれども、私は、いや!
我が輩は、書かずにはいられない!
何故って?
執筆をしていないと頭がおかしくなる。
世の中に蔓延る不平等、格差。
人はいつか必ず死ぬという呪われた事実。
私は常識の中にある不条理を認められない!
見過ごせない!
どうして人は死ななくてはならないのか!
何故、不老不死は許されないのだ!
おお、神よ。
いや私は神をそれ程信じていないけどね。
いてもいいと思うけど。
兎に角、今日は私が思い悩む不条理について話していきましょう。
まずはこの世の『格差、差別、不平等、不条理』について。
格差と言えば賃金格差、差別と言えば人種、社会における男女の不平等さ、などなど。
何故、人は平等ではないのか。
何故、平等になれないのか。
分かりやすく例を出して言うと、何故自分はジュード・ロウのようなイケメンになれないのか、という話である。
常識に支配されている貴方は『いや、君がジュード・ロウになれないのは当たり前じゃないか』と言うだろう。
しかし、それが何故『当たり前』になるのか。
私もジュード・ロウのように有名ハリウッド俳優になってシャーロック・ホームズとかに出演したって良いじゃないか。
私だけじゃない、貴方だってエマ・ワトソンのようにハリーポッターに出演したって良かったじゃないか。
『そんな美貌持ち合わせていないし、有名になれるのは選ばれた人達だけよ』と皆言う。
それなら選ばれた人、選ばれなかった人はどうやったら分かるのだ?
そしてもし、選ばれなかった人がいるとするならば、その人は失敗作ということか?
え?
失敗作だと言いたいのかい?
人間に当たりも外れもあるかぃ!
どうしてそんな酷い事が言えるんだ。
どうしてそう簡単に納得できるんだい。
君はそれでいいのかい。
え?
才能が無かったから・・・とか。
もう、うんざりなんだよ。
この世の不平等さには。
呪いだよ、呪い。
人間はどうしたって『悩み』に付きまとわれる。
『絶対に解決しない悩み』を人間は産まれた時から持っている。
それは『いつか必ず死ぬ』ことであったり『自分と他人は別人』、『自分には出来ない事がある』『感情を持つ限り、憎しみ、嫉妬、悲しみからはのがれられない』ということだ。
しかし『自分には出来ない事がある』という文言は、どうも不確定な要素が多い。
だから私は悩んでいる。
出来ない事が出来るようになるケースも多々あるではないか。
自分には出来ないと思っていた事が出来るようになったり、目指して出来るようになったり。
何でもやろうと思えば出来るんじゃないか?
でも、そうでもないんだよなぁ。
この曖昧さが嫌いだ。
諦めた方が楽なのは分かる。
分かるよ。
だけど、そう簡単に諦めて良いのだろうか。
謙虚になって、みっともない自分を受け入れるのは辛い事だ。
自ら認めるということは厳しい現実を受け入れるということだ。
しかし、その現実は本当に確定された現実なのか。
努力によって変えられるぐらいの現実なら、その時の本人の能力だって確定されたものではないだろう。
人間がどこまで変われるのかによって、推測が変わってしまう。
まぁ、でも『諦める』しかないんだろうなぁ。
自分を卑下する必要はないけど、自分が今思うありのままの自分を自分で規定する必要がある。
『俺はみっともない、俺は臆病だ、俺はコミュ障だ、俺は身体が小さくて弱そうだ、恥ずかしい経験も沢山してきた、ジュード・ロウのように格好良く堂々と歩くことはできない』というように、自分の至らなさを自分自身で認めてあげる必要がある。
『俺はヒーローにはなれない』と諦めて初めて、人間としての生活が始まるのだ。
誰しも幼少期は将来に期待し、希望を持って生きる。
しかし少しずつ現実を目の当たりにしていく。
自分には出来なくて相手には出来ること、優れた者と劣った者、頭の良し悪し、運動神経の良し悪し、家庭環境の良し悪し、とかね。
僕の場合はピーターパン症候群だったなぁ。
いつまでも有名人になりたかった。
餓鬼みたいな夢だが、僕は本気で成れると、成りたいと思っていた。
そんな地に足を着けずに生活していると、プカプカ浮かんで、地上の事が全く分からなくなってしまう。
私はいつも太陽に向かって、月に向かって、星々に向かって吠えていた。
『僕もそこに行きたい!』ってね。
地上にある大事なものを無視して、いつも届かぬ空ばかり眺めていた。
諦める時が来たんじゃないか。
諦めて初めて見える物がある。
有名人になれない自分を許せない罪悪感だとか、理想の人物になれない自分の罪悪感とか、理想と現実のギャップから生まれる疲労だとか。
そんなものに支配されてしまっていた。
諦めて初めて分かる。
大切な人や大切な事はいつも側にあった。
決して数は多くないが気の合う友人が数人、大学費や一人暮らしの為の生活費、仕送りをしてくれる両親、優しい兄貴、バイト先で優しくしてくれるパートのおばちゃん。
僕は今、初めて気付く。
僕の人生において出会って来た人は皆、優しくて誠実で真っ直ぐだ。
これは財産であり、こういう人と巡り会えるのは僕の才能だと。
沢山の愛を貰いながら何不自由なく生活してきた。
金にも困っていない、買いたい物も大体は買える。
僕には不平等を許せない正義感もある。
優しさもある。
これ以上、何がいるというのか。
僕は恵まれている方だ。
本当に。
本当に運が良かった。
いや、運じゃない。
僕は一生懸命生きているからだ。
世の中には心がない人もいるけど、少なくとも僕は自分の弱い心と共に全力で生きているからだ。
祖先が受け継いだ伝統、倫理観、道徳観、真っ直ぐ生きるということ。
高尚な志を僕も確かに受け継いでいる。
自分の手の届かない月に向かって吠えるのは止めて、自分の側にいる人を大切にしよう。
自分の出来ない事は『出来ない!』と諦めて、自分の出来ることをしよう。
諦めも肝心。
理想の自分を高く見積もるのは止めよう。
目標は一歩先で十分だ。
目標は無くたっていい。
ただ、理想が高くなりすぎて自分を見失うのだけは、もう止めてくれ。
等身大の自分を認めてくれ。
夢や欲望があるのは分かるが、出来ないものは出来ないと諦めてくれ。
出来ないものは出来ない。
諦めるべきことは諦めろ。
ただ極端も良くないのかもしれない。
夢や欲望を無くすのは希望を失うということだ。
夢や希望はあってもいいが、丁度いいものにしてくれ。
中庸が大切だ。
何事も中庸だ。
間を取って生きろ。
極端はダメだ。