緊張しちゃうってことは、やりたくないってことなんだよなぁ。

無理するのは嫌だから自然体で。

自然体ができないなら、いっそ諦める覚悟を持とう。

そうでないと神経がすり減る。

はいはい、どうも。

私で御座います。

久し振りに文章を書きます。

いやぁ~、上手く書けるかなぁ~。

書いていけるかなぁ~。

それでは、この一週間ほどの間に考えていたことをつらつらと書き連ねていきましょうかいの。

ええとね。

まず前提として、私の人生哲学には『中庸』なるものが在るのですが、中庸というのは極端な選択を避け、真ん中を取ることを言うのですが、最近この言葉の矛盾に突き当たりましてね。

常に中庸の選択をしていくのは逆に考えて極端なのではないかと。

常に中庸。

それはつまり、他の選択が入り込む余地がなく、常に間を取り続けるということ。

これは、極端なのではないかと。

中庸だけの生活を続けておりますと、中庸は全てにおいて適応されると信じて止まない私ですら、中庸を疑ってしまう始末。

これは良くない。

中庸がおかしいのではなく、中庸の使い方がおかしいのです。

中庸の使い方が極端なのです。

中庸を中庸的に使いこなす為には、偶に中庸になるぐらいが丁度いいのです。

そうなると極端な選択も時としては必要だし、その極端の真反対にある極端にも需要は生まれてくる訳で。

詰まるところ、臨機応変に何でもござれ、と言ったところでしょうか。

今までの経験上、自分で決めたルールに縛られて今ここにある自分の感情を蔑ろにしてしまうと精神は荒れ果て自分が誰なのか分からなくなるということが多々ありましたので、ここは一つ気をつけて極端と中庸の入り混じった面白みのある選択、人生を掴み取っていきたいと思います。

極端と中庸を使いこなす。

これでしょう。

これが新しい人生哲学。

『極端と中庸を使いこなす』。

いいね。

いいぞーこれ。

はいはい。

一つの問題は解決致しました。

もう一つはというと・・・。

最近、生活が安定してきて精神をやられるということも無くなってきたのですが、また生活が変わる予感がしてきたのです。

私の平凡で一カ所に固定されたルーティーンに新たな挑戦者が訪れたのです。

しかし、それは私にとって嫌な事ではなく、むしろ願いが叶ったというような幸福な事でもあるのです。

簡単に言うならば女性のことですね。

ええ。

彼女から言い寄ってきた訳ですが、私はこんな機会を首を長くして待っていたのにも関わらず、自ら彼女との縁を切ろうと考えてしまっているのです。

それは何故なら、ようやく作り出した私の平凡な生活、ルーティーン、パーソナルスペースを壊されたくないという思いから。

これはしかし、私の中では矛盾していて、彼女とイチャコラしたいという思いもありながら、それでは自分らしさが守れないから彼女とは会いたくないという思いもあるのです。

イチャコラしたいから会いたいという思いと、personalスペースを守りたいから会いたくないという思いが綯い交ぜになってしまっているのです。

彼女といると気を使ってしまうだとか、良からぬ期待だけが頭の中に浮上して疲れるだとか、緊張して自分らしさが出せないだとか、悩める要因は数多く存在するのですが。

これがどうも私にとっては苦痛でね。

ええ。

疲れてしまう訳ですよ。

男女の関係であるというのが私にとっての重荷になってしまっているのでしょう。

いっそのこと男友達のように自分らしさを出しつつ、お互いに言いたいことを言い合える良い関係を築けばいいんでしょうが、私はやはり男女の関係ということもあり男友達のような関係ではなく男女の関係ということに期待してしまう訳です。

それが原因でこの関係が自分にとって苦痛になってしまっているというのは皮肉な話ですが。

男友達だと思って接すれば万事解決なのですが、それは何かを諦めるということと同義なのです。

それでもいいのでしょうか。

それを諦めるとなると、私の目標を裏切るということにもなってしまいます。

しかし目標はそこまで大切なものでしょうか?

目標は偉いのか?

目標は本当に大事なものなのか?

目標は今の自分をしっかりと反映できているのか?

答えは、否。

目標は過去の自分が持っていた欲望の残滓。

目標というのは日々変わっていくのが当たり前だと私は思っています。

生涯、目標が変わらないのは本来有り得ないことだと私は思うんです。

人間の心は移ろいやすい。

人間の心はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりする。

人間の心は常に流動的で変わり行くものだ。
 
人間の心は変わりやすく、だからこそ意見も変わるし、人生哲学も変わる。

性格も変わるのだ。

そう考えてみると、目標という物にどれだけの価値があるでしょうか。

目標は言わば、過去の欲望そのもの。

目標は過去に立てた物ですから、消費期限が切れていたとしてもおかしくない。

これは分かりにくい例えでしたが、言いたいのは目標は過去の遺物なのだから今の自分に当てはまるとは限らないということです。

つまりね、過去にやりたいと思っていたことでも今は大してやりたくなかったり、逆に過去はやりたくなかったことでも今はやりたいと思っていたり。

人間の心は変わり行くものなんですから、それに伴って目標も変わっていくものなのです。

目標は日々変わり続けるのです。

変わり続けるものを貴方は信じられますか。

そんな不確定であやふやで曖昧な事象を。

女性とイチャコラしたいという目標も、それは過去の遺物であり、今は別にそういう気分でなくても何らおかしいことでもないのです。

気分と心と目標は移ろいやすいものですから。

だから過去に縛られてはいけません。

目標に縛られてはいけません。

目標にはそれほどの価値はない。

だから例え、女性とイチャコラしたいという目標があろうが、今の自分がそれを否定しているのなら今の自分の方が正しいんです。

今の感情が一番信頼に足る正しさなんです。

だから直感は大切で、今が大切なんです。

そう考えると私は、その彼女との付き合いを拒否してもいいということでしょうか。

そういうことですよね。

過去の自分が今の自分にプレッシャーをかけてくるのは多々あることですが、過去の自分なんて自分であるようで自分ではないのですから話し合いに応じる必要もなければ、意識してやる必要もないのです。

自分とは、今の自分自身のこと。
 
人は変わっていきますから。

本当の自分は今にこそ、いるのです。

過去に付き合っている暇はない。

だから、私は過去に打ち立てた目標全てを今ここで放棄致します。

目標を放棄します。

目標は今の自分を惑わす。

本当はやりたくないことを、したいと錯覚させる。

そうなると、私は自由になりました。

私は彼女と無理してイチャコラする必要はないのです。

その瞬間にイチャコラしたいと思えばすればいいわけで、やりたくない内はやらなくていいのです。

嗚呼、楽になった。

嗚呼楽。

男友達のような関係でも、友人のような関係でもいいわけです。

そこはアドリブに任せますけど、変な気を使わなくてもいいわけです。

あくまで自然体に。

自分の直感に従って。

その時の自分の感情に従えばいいのです。

やらなければいけないことなんて何一つ無い。

その時の自分の感情。

自分の感情に気付くのが、実は中々難しいことではあるのですけれど。

ままま、なんとかやっていけるでしょう。

素直にいきましょう。

いっそ、ここでは極端な目標を打ち立ててもいいのかもしれません。

そもそも目標は不確定で信用に足らないものですし。

目標は『ホグワーツに行くこと』ですかな。

そう考えると気持ちもスッと楽になるでしょう。

無理しなくていいんですから。

これでいいんです。

目標は『ホグワーツに行くこと』。

周りと比べてもしょうがないですし、焦るのも嫌ですし。

てか、人と比べる、比べられるってのが一番嫌なんですよねー。

頑張らなきゃいくなくなるし、そいつより上に行く為。

頑張ったら越えれちゃうってのが逆に足枷になってて、本当に自分に能力が無ければ諦められるんでしょうけど。

何せ僕は能力が軒並み高いのでね、変に凡人に先越されてもイラッとしちゃうんですよね。

でも人と闘うと精神が荒んでいくんですよ。

それが嫌で平和主義を気取ってる訳なんですが。

どうも時たま鼻につく輩ってのがいてね。

困りますよ。

いっそのこと凡人なら良かったのに。

能力が高いのに、闘いは嫌いって一番辛いじゃないですか。

闘いが嫌いだから弱者に前を譲らなくちゃいけないんですよ?

私にだってプライドはありますから、それが辛いんですよ。

もう慣れましたけどね。

勘違いした凡人が一番うぜぇ。

勘違いした雑魚がよぉ。

おっと、話が脱線してしまった。

最後に自分の人生哲学を纏めておきましょうか。

『やりたいことやる、夢を一つ叶える、ふざける、友人は増やすがホグワーツに行く』。

これで。

4ですね。

4。

隠し要素として『極端と中庸の綯い交ぜ』も必須ですよ~。

じゃあ、4.1ですね。

おっけ~。

大分解決解消されたんじゃないでしょうか!!

それじゃ、まったのー!