挫折したという訳では無いのだが少々絶望する事があってね。

だから話していくよ。

まず僕は『過去は取り戻せるもの』『過去は戻ってくるもの』だと思っていた。

過去の定義についてこのような解釈を持っていたんだが、どうやらこれは大きな間違い-略式大間違いだったらしい。

お門違いも甚だしい妄言-虚言-戯れ言だったらしい。要するに僕は『過去は二度と戻ってこない』ことに気付いた。

過去は二度と戻ってこない。

過去の自分にそっくりそのまま成れる訳ではない。

それは身体的な面で過去の自分に戻れないのは諸兄らも重々承知-当たり前の事だと思うが精神的な面でも過去の思想-考え方-方向性-方針-人生哲学-正義感-審美眼-性格(personality)がそっくりそのまま戻ってくる事は無い。

その時その時の精神は、その瞬間の友人関係だったり自分の周りの状況によって逐一変化していく為、同じ精神で何年間も生きていくことは出来ない。

話はやや変わって一人の人間は、死んでもその人間であり続けるのは当たり前、つまり生きている間にある日、自分が別の人間に変わる事なんてないように思えるが本当にそうだろうか。

人は変わらず同じ人であり続けるのは存外難しいもので、と言うか、ほぼほぼ不可能な事だと僕は思っている。

人は変わっていく。

名前は変わらなくとも、魂の入った身体は変わらなくとも、中身の個人をその個人たらしめる諸々は変わっていく。

人との出会いで考え方が変わったり、経験した事象によって人生哲学が変わったり、固定観念を植え付けられたりと生き方が刻一刻と変化していく。

今いる『自分』は奇跡的に成り立ってる存在で一時間後にはこの『自分』は別の『自分』に成り代わって消滅しているかもしれない。

瞬間における『自分』はあらゆる状況、あらゆる環境によって成り立っている奇跡的な存在なのである。

要するに何が言いたいかというと過去が二度と戻ってこない以上、『今の自分』が『自分自身』だとしっかり認め、今できる事をしていくしかないということだ。

過去の自分は二度と戻ってこないのだから今には今の自分しか存在しない。

今の『自分』が未来にどんな『自分』に成れるのかは、ある程度今の『自分』の努力によって操作できる。

だから今の自分を認めるべきだ。

《こんな自分は本当の自分じゃない》とか《俺はもっとできる!》だとか《こんなはずじゃない》《そんなはずじゃない》と言っても意味がない。

過去の自分は戻ってこない。

今ある弱体化された情けない自分を認め、こんな自分が今何ができるかを最優先に考えるのが正しいと僕は思うんだ。

今の自分に最適な行動、思想を駆使して幸福を追究していこう。

今ある情けなくて、みっともなくて下らなくて醜い自分が真実の自分なのだ。

過去の自分はもういない。

消滅したのだ。

過去の栄光は二度と戻ってこない。

栄光は今と未来にしかない。

今の自分は何ができるか、何をすべきか。

未来に存在する栄光を掴み取る為に今の自分が何をすべきか考える事が有意義で価値のあることだと思うんだよ。

これは決してnegativeな話じゃない。

現在の弱くて恥ずかしい自分を認める事は決してnegativeな話じゃない。

柔弱謙下。

柔らかく何事にも柔軟に対応して、自らの弱さを認め、謙虚に、人と自分を比較して起こる醜い争いに身をおかず自ら下に潜って生きる。

老子の思想であるように人生、『道』は川の流れの如し。

川のように人々の足元を流れつつ、常に柔軟に思考を変化させ、水のように人を潤し、水のように人を傷付ける事なきよう躰の形状を変化させ、穏便に生きる。

それこそが現在の目まぐるしい競争社会で幸せに生きていく為の秘訣なのではないかと僕は思うのだ。

話はやや変わって、僕はこの所、少し傲り高ぶっていたようだ。

感謝の念が足りなかった。

恨み辛み、嫉妬に身を焦がれて清い眼を失っていた。

僕だって本当は清く正しく、誠実に、優しく、情に厚く、正義感がある聖人君子のように生きていたいよ。

ただ自分以外の人間達と生きる以上、お互いの主義主張はあるし、人のせいで思い通りにいかなかったり、彼らの発言、行動が自分の怒りに触れたり、どうしても人間達と生きているとstressが溜まってしまうのは避けられないことだ。

どうしても。

しかし僕が生きているこの地球という惑星は、人間という生物が牛耳っている以上、僕も彼らと共に生活していくのはしょうがないことで、人間達との関わりを絶って生きていく事はできない。

不可能だ。

そもそも人間は群で生きる生物だし、本能にそれが刻み込まれている。

一人で長時間過ごしていると人間は死ぬように設計されている。

人間は他の人間達と関わり合い、自分の居場所を与えられ、認知されることによって幸福を感じ生きていく。

これは本能だ。

本能だから変えられない。

産まれてきてすぐの赤子も保持している性質だ。

変えられない。

これは何より強固なルールだ。

人間は本能レベルでの社会的動物なのだ。

だから人間と関わり合うのを辞める為にどうすればいいか考えるよりも、いかに上手いこと他者と共存していくかを考えるべきだ。

僕が満たさなければいけない条件は丁度いい濃度のコミュニケーションを丁度いい期間で定期的に得ることだ。

無理して多くの人間達と触れ合うつもりは毛頭ない。

そんなことをしたらstressで血は沸き立ち、脳は沸騰し、骨は軋み、手足は震え、眼球は後ろを向くことになるだろう。

無理はいけない。

無理なんかしたくない。

丁度いいコミュニケーションを丁度いい期間で実施するというのは非常に曖昧模糊で明確な基準を設けるのが困難なことのように思えるが、これらの『丁度いい』という基準をクリアする手段として『自分の感情に正直になる』というのが効果的だと思う。

自分の感情は常に真実。

感情は嫌いなものは嫌いだと思い、好きなことは好きだと思い、やりたくないことはやりたくないと思い、やりたいことはやりたいと思う。

感情は常に正直で、常に何より主人である自分自身の事を思いやり、常に純粋で、常に真実である。

だから感情を信じて、それを人生のあらゆる選択肢の判断基準とするのが正しいと思うのだ。

しかし、ここで重要なのが感情に頼ろうと思っても感情の所在が不明だと判断がそもそも出来なくなる。

感情の所在が不明とはどういうことか。

要するに自分の気持ちが分からないだとか、今自分はどんな感情なのかが分からない、自分のやりたいことが分からない、自分のやりたくないことが分からない、自分の望みが分からないというような己の感情を見失っている状態を指す。

己の感情を見失うことは本当に危険なことで、自らいらない苦労を背負い込んだり、自分が不利になる場所に身を置くことになりかねない。

幸福とは程遠い不幸の渦に巻き込まれてしまう。

しかし、そもそもどうして己の感情を失ってしまうのか。

何故、己の感情を失うのか。

この理由を説明していこう。

自分のやりたいことを蔑ろにして、本当はやりたくないことをし続けていると、自分の感情を失っていく。

自分はやりたくないが『世の中的に』やっておいた方が良いであろう事は沢山存在するのだが(世の学生の多くはこれらに縛られる)、これは悪質な強迫観念である。

自分のやりたくないことをし続けても成功はない。

人は好きでもないことには本気の努力ができない。

人は本気で熱中できない。

本気の努力ができないものだから、成功もなく、その分野で人より劣り、劣等感に苛まされ、本当の己の感情を失い、自己尊重心も薄まり、自信を無くし、笑い方を忘れる。

やりたくないことを続けることのリスクよ。

何と危険な行いだろうか。

一度失った自己尊重心は中々帰ってこない。

帰ってこないと言うと、どこかに自己尊重心が置き去りにされているイメージを持つだろうが、実は置き去りにされているどころか、消滅しているかもしれない。

先ほどの僕の話で言うならば、過去の自分が消えるなら、過去の自分の自己尊重心も消えるだろう。

もう無い。

どこにも無い。

一度失ったものは二度と帰ってきやしない。

だから今ある有り難いと思える事物を簡単に手放したり、後で取りに来るつもりで置いてきてはいけないのだ。

取り戻せない。

これがルール。

世の中の普遍で不変のルール。

話を戻すと、つまり僕が言いたいのは貴重な自己尊重心を、やりたくないことを続けることによって失ってはいけない、ということだ。

やりたいことをやるのが正しい。

そして今を大切に。

今の自分を大切に。

今の自分はその内消滅する。

それは3日後かもしれないし、一時間後かもしれないし、二分後かもしれない。

思想が変われば人も変わる。

変わってしまえば長所も変わり、短所も変わる。

長所が増えるのかもしれないし、減るのかもしれない。

短所が増えるのかもしれないし、減るのかもしれない。

変化したことによって何が起こるかは分からない。

変化する事、状況を変える事は前進だと言うのは誤りだ。

変化した結果、後退することもある。

状況を変えた結果、致命傷の不幸を受け取る事もある。

新しい事を始めるにしたって、そうだ。

同じ事が言える。

灯台下暗し。

灯台下暗し。

灯台下暗し。

置かれた所で咲きなさい。

置かれた所で咲きなさい。

置かれた所で咲きなさい。

僕の母親が、僕に言ってくれた言葉だ。

常に変わり続け、前に走っていく事が正しい事だと僕は思っていた。

前にしか『最高』は存在しないと思っていた。

だけど、実はスタート地点に『最高』があったのかもしれない。

身近な所にあったのかもしれない。

いや、僕の場合は確かに身近な所に『最高』があった。

最近気付き始めた。

何が正しいかって。

猪突猛進、前へ進み続ける事が正しいのかな?

理想ばっかり追い求めるのが正しい事なのかな?

誰よりも偉いのが正しい事なのかな?

誰よりもお金持ちなのが正しいことなのかな?

後ろを省みず、前へ進み続ける事は悲しい。

悲しい事だと僕は思う。

暖かくて素敵で何よりも美しい感情を生贄にしない限り、後ろを省みず前進できない。

それなら僕は野心家にもなりたくないし、成功者にもなりたくない。

少しの愛と誠実さに囲まれた世隠れ人になりたい。

それが一番幸せだと、僕は思う。

心の底から、そう思う。

真摯に、そう思う。

今、僕はそう思う。

大切にしていきたい思想を得ることができた。