人が地面に国境線を引くということ
図書館で出会った青い表紙の本。作者はドイツ文学者の池内紀さん。「消えた国 追われた人々」という好奇心をくすぐる題名の副題は「東プロシアの旅」。専門のドイツ文学に加え、江戸文化などにも詳しく、いろいろな抽斗を持っていて、エッセイも素敵な池内紀さんの、これはその紀行文なのか。ついつい借りてしまいました。ドイツ観念論の代表的な哲学者、カントって、ドイツ観念論の「代表的な」っていうくらいですから、ドイツの国の真ん中ら辺に住んでいたのかと思っていました。カントが生まれ、育ち、その生涯のほとんどを過ごした街が今はロシアなんだって言われると全然ピンとこないんですよね。ケーニヒスベルク、現在はカリーニングラードという街です。このピンとこない感じ、大事ですよね。東プロシア。かつてドイツ騎士団領で、バルト海沿岸にあったんですね。高校時代の世界史の教科書を引っ張り出してきて、よく読んでみると…1400年頃、ドイツ騎士団がバルト海沿岸のプロイセンに入植した。リトアニア人はそれに対抗してポーランドと手を結び、リトアニア=ポーランド王国(ヤゲロー朝)を作り、15世紀にかけて強勢を誇った。とあります。よく読まなきゃ分かりませんね。で、第二次世界大戦後、そのポーランド、リトアニアとソビエト連邦の3カ国で分けた、ということになります。そもそも第二次世界大戦は、ヒトラーがこの東プロシアと本国を結ぶポーランド回廊に道路と鉄道を設置する要求をポーランドに突きつけたことが発端となっているんですね。この本では、東プロシアにあったナチスの対ソ連戦大本営である秘密基地「狼の巣」が紹介されています。地元の歴史家にその基地の跡地を案内されるんです。沼地にあったもんだから湿気と蚊に悩まされたみたいですね。地下室はコンクリート製だけど、地上部分は木造だったようです。トム・クルーズ主演で映画化もされましたね。ヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ」作戦の舞台もこの「狼の巣」なんだそうですね。ヒトラー暗殺計画は未遂事件で終わってしまいましたが。地元の歴史家曰く、「7月じゃなくて9月だったら目標は達せられたでしょう。」狭い地下室で作戦会議が行われていたら、おそらく間違いなく爆弾の威力は総統の命を奪うに十分だったのでしょう。また、爆弾が仕掛けられていた書類鞄の口がヒトラーの方を向いていたら、作戦は成功していたかもしれません。地元の古老が若い頃この秘密基地に迷い込んだときの体験談も紹介されています。秘密基地は化学工場にカモフラージュされていたそうで、その「化学工場」の食堂の窓を覗き込んだら、ヒトラーと顔を合わせた、というんですね。警備も秘密基地のそれではなく、化学工場並みだったようです。また、バルト海は琥珀の産地で、東プロシアにはたくさんの琥珀加工の職人さんが住んでいて、かつて王宮を彩った琥珀が戦火を逃れてどこかへ持ち去られた、というお話も紹介されています。この紀行文が書かれたきっかけになったヴィルヘルム・グストロフ号沈没事件とそれを扱ったギュンター・グラスの作品「蟹の横歩き」についても触れられています。戦争に負けてソ連軍が侵攻する中、東プロシアの人々がこのグストロフ号に乗り込み、ドイツ本国に逃げ出そうとしました。その時の乗客は1万人を超えたそうです。沖合に出てまもなく魚雷攻撃を受けて沈没。史上最大の海難事故と言われるタイタニック号の被害をはるかに上回るのに、あまり取り上げられないのは、当時ドイツが敗戦国だったからなのでしょう。歴史とはいつの世にも勝者の目線で語られるものです。読み進めていると、衝撃的なお話が紹介されています。件の小説家、ギュンター・グラスさんはナチス親衛隊の隊員だったというのです。それが明らかにされたときは、マスコミにも取り沙汰され、ノーベル文学賞を返上せよ、と言われたこともあったそうです。しかし、終戦直前の親衛隊は幼年兵が戦況悪化する最前線に送り込まれるためのものだったらしいのです。日本の学徒出陣に似てます。そんなお話が紹介されつつも、実際旅行している地の文章ではヨーロッパの一地方の平穏な日々が描かれています。相変わらず、ロシア領内ではむやみにカメラを向けると、当局に怪しまれるくらいのことはありますが、人々の生活は普段通りなんですね。私の住んでいるこの場所は、おそらく随分昔から日本だろうし、長い将来にわたっても日本であり続けるだろうことを、私は疑いもなく信じています。そんな感覚で暮らしている私には、コペルニクスやカントが住んでいた場所が今はドイツではないなんて、どうもピンとこないです。人と人とが争い、移り住み、あるいは土地を奪い、地面に国境線を引く。そんな歴史の中には私の知らない世界がもっともっとたくさんあるということに気づきました。勝者の、支配者の、そして英雄や著名人中心の歴史が取り残している部分に触れてみたいという好奇心がくすぐられました。機会を見つけて「蟹の横歩き」、読んでみたいと思っています。