パロディーについて 第8回 (最終回) 神山 於菟彦
先回取り上げた古文辞学派については、私はこの学派の熱烈な古典賛美を非難するものではないが、この学派の一字一句に到るまで古典に依拠すべしとの主張を真正面から本気で掟のように受け入れてしまうと、やはり文芸活動としては窮屈であると思う。
今回は古文辞とは異なる擬古典文の存在意義を考えてみたい。擬古典文にも、やはり原典としての古典の忠実な模写に近いもの、古典の文体を借りて自分独自のものをも主張するもの、古典に文体だけを似せて、その原典の作家が言いそうにない真逆の内容をつづることによって読者の笑いを取ろうとするものがある事は、「パロディーについて」の第3回第7回において、パロディー全体やパスティッシュについて述べたのと同様である。ただし、擬古典文の場合には、原典が古典として敬意を払うべきものとして多くの人々から認められているのであるから、原典そのものを揶揄嘲笑しようとするものは、多くはないと思われる。
本職の小説家が、その小説作品の中で自身の文体以外の文体を使いこなす技芸を見せ、その小説の世界が広がり、文章の魅力が益々豊かなものとなる、芸術としてのパスティッシュにおいては、しばしば自身の文体以外の文体には古文が用いられ、擬古典文が、地の現代文との対比においてその効果を表す。たとえば、「パロディーについて」の第6回において引用した、谷崎潤一郎の「春琴抄」中の「鵙屋春琴傳」なる冊子の漢文体など。
擬古典文は、能楽、文楽、歌舞伎などの伝統芸能において、その古典芸能が成立した時代からはるか後の時代に新たに作られるいわゆる「新作もの」、創作能などにも用いられる。
形式の完成された古典芸能においても、新しい内容を求めて新作が要求されるのは、芸能が興行を通じて成り立つものであり、観客は新奇を好むものである以上、当然である。しかし、新しい内容を求めるあまりに古典芸能の完成された形式を破壊してしまっては、もはや、その古典芸能の新作とは言いえず、単なる破壊に終わってしまう事となる。
「新作もの」の脚本が古典芸能が成立した時代の文体を模した擬古文で書かれるのは当然であり、擬古文は古典芸能の新作の脚本に要求される最小限度の要求であると言いうる。
問題は、そのような古文で書かれてさえおれば、古典芸能の完成された形式を護っていると言いうるのか、である。
その観点からして、能楽の新作能には、少し不徹底なものが見受けられる。節つけや形つけは、専門の能楽師によって、作曲・振り付け・演出が為されるのだから、良いとして、その脚本に問題があるのではないか、と思う。近代演劇で上演することも可能な新しい内容を謡曲の古文の文体で書き上げると言うだけでも、なかなかの難事かもしれないが、そこで終わってしまうと物足りない。新作能の脚本に要求されるのは、典型的な能楽の構造に当てはめ、それぞれの部分の詞章をその部分に相応しい雰囲気の文に書き上げる技量であると思われる。
つまり、ワキの次第又は名宣りから開始し、道行、着セリフ、それから呼びかけ又は一セイ、サシ、下歌、上歌で登場した前シテとの問答、クリ、サシ、クセ、ロンギの後中入り、後シテの一セイ又はサシで登場、舞、ワカ、キリという、他の順番ももちろん含めて、能楽のどれかの典型的な構造に当てはめ、かつそれぞれの部分の詞章を、例えばクリなら能に先行する古典を引用して華麗に、サシはサラサラと流麗に、クセはグルグルと主題を巡って盛り上げてゆくように、それぞれの部分に相応しい雰囲気の文に書き上げる事が必要だと思われる。
そこまで出来てはじめて古典芸能の完成された形式を履んでいると言うことができ、新作能の脚本と呼べるのではないだろうか。逆に、その形式を履みさえすれば、いかに新奇な内容を盛ろうとも、現代に成立した古典芸能としての生命を持つ、と考える。
以上、パロディーの諸相について、思いつくままに駆け足で、見てきた。パロディーやパスティッシュとは外見は似てはいるが、真逆であり、これらには入らない、古文辞学派にまで触れてきた。
今回の冒頭にも、第3回第7回においても、原典とパロディーとの距離関係によって、パロディーにもいくつかの種類を生じ、スウィフト流の原典を揶揄嘲笑しようとするものばかりでもない、と述べた。その意味では、スウィフト流の語感が残るパロディーという言葉よりも、題を
「もじり」考、とか「物真似」論、とでもしたほうが、よかったのかもしれない。
ともあれ、ご愛読を感謝する。