小説専門のブログとしてしばらくの間は約2ヶ月間(5月下旬~現在)で読んだ本の整理を兼ねて皆様に1冊ずつ紹介していきたいと思います。
まずは、2ヶ月間で僕が読んだ本の一覧です。
【東野圭吾】
①「パラレルワールド・ラブストーリー」(449ページ)
②「黒笑小説」(332ページ)
③「放課後」(353ページ)
④「さまよう刃」(499ページ)
【石田衣良】
①「池袋ウェストゲートパーク」(367ページ)
②「反自殺クラブ」(296ページ)
③「少年計数機」(352ページ)
④「4 teen」(329ページ)
【重松清】
「ナイフ」(403ページ)
【伊坂幸太郎】
「重力ピエロ」(485ページ)
【村上春樹】
①「海辺のカフカ上」(486ページ)
②「海辺のカフカ下」(528ページ)
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なぜ僕がこんな文学青年じみたことをしているかというと、そもそもの発端は読むことの大切さを現役・浪人という2年越しの受験生時代に学んだことにある。国立を考えていた僕は現役時代センターの必須科目5教科7科目に加え国立で出題される小論文も履修していた。こいつが厄介だった。何回銃で打っても起き上がってくるゾンビのように。
当時、僕が全ての知力を振り絞って書いた小論は返却される度に「言いたいことはわかるが論理の飛躍が多い」などと赤字で埋め尽くされていたので正直当時の僕がそれで何回凹んだかは覚えておりません。11時過ぎに塾から帰宅して、その赤字をもう一度読み返してみる。見れば凹むとわかってはいるが見てしまう。そしてやっぱり凹む。ときには、添削者の目は節穴かと血気盛んだった僕は一人逆切れしたりすることもある。それでも、次の瞬間には無知な自分が情けなくなり大人しくなる。
添削者の御意見を参考にもう一度書き直しては次の授業後に先生の所に行く。そしてまたダメだしをうける。また凹んで、書き直して見せに行く。こんな体力と知力の要る作業をアホみたいに繰り返していた。正直、他の教科との兼ね合いもあるからそこまで時間を割いてはいられな現実があるにも関わらずなぜかこの作業は楽しくて他の教科より優先してしまうほどだった。 なぜかと表現をぼかすのは、書き直す度にアウトプットの質が上がっているという実感があったこと以外に+αの何かが僕のモチベーションを上げてくれていたからだ。今でもその何かが分からない。
そんなある時、いつものように返却された小論文にはこんなことが書かれていた。「だいぶ筋道立てて書けるようになってきましたね。労力と時間を割いただけ書くスキルは上がります。引き続き頑張ってください。」 今まで作品の出来で高い評価を受けてこなかった分泣きそうになるくらいうれしい一言だった。まるで、親分から「お前も一人前になったな!がんばれ。」といわれて新調の作業服と足袋をプレゼントされた駆け出しの鳶職人の気分だ。浮かれると同時にこの言葉から僕は文字の重みを知ることになる。
続けざまに他のコメントに目をやると「小論文で書く側の視点を学べば、現代文で読む側に回ったときに作者の狙っている文章構造がすぐ見抜けるようになります。つまり、あなたは書くことを通して同時に読むことをも学んでいるのです。学術書から小説まで色んな本を読んで、さまざまな文構造に触れることはあなた自身の今の読解力を測るためにも、また文を書くためにも役立つと思います。遠回りのようで近道、ぜひたくさん本を読んでください。」 びっしりの赤字でこんな前向きなこと書かれてもらった日には、誰だって今まで億劫だった書くことや読むことが好きになるはずだとさえ思えた。
結局、2度にわたる受験で僕が小論文を書く機会に出会えたのは某有名国立と某有名私立あわせて5回しかなかった。
月日は流れ、今通っている大学でも小論文は使わなかった。2教科受験だったので得意の英語と日本史で9割近い高得点を出して合格した。「小論文使わなければ今までの時間が無駄じゃん。」 そんな声が今にも聞こえてきそうだ。確かに、【大学受験】という視点だけで見れば僕の時間の使い方は本当に下手糞だったかもしれない。でも、大学に入ってみて書くという機会はレポートという形で与えられた。正直、僕は浪人時代に感謝している。あのときのおかげで、レポートが100点満点中115点なんていう規格外の点数になって返ってくることがあった。また、半期で11個もレポート書かなければならなかった時も全然書くことが苦にならず締め切り前々日~前日くらいには涼しげな顔で課題を出し終えていた。結果は良くて秀、どんなに悪くても良でおさまる範囲の成績だった。これを小論文のおかげと言わずしてなんと言おう。
現在僕が属しているゼミの外人教授はよくこんなことを言う。「どうして日本の学生は本を読まないのか!どうして文を書かないのか!それはLazyなことだ!」と。ポカーンと聞いた振りをしている同期を横目に僕の脳はこのセリフを受けてフル稼働していた。普段グロテスクな下ネタばかり話す彼にはあまり好感がもてないがこの言葉にはすごく共感を覚え尊敬の念すら抱いたのを僕は覚えている。それはやっぱりあの受験生時代の小論文の経験があったからだろう。彼の言っていることの価値は経験してからでないとその真価が発揮されないようだと確信に至ったのはこのときだ。管理職くらいになったゼミのOBOGは、定期的に教授を都内に呼び出して彼にマネージメントに関する講義をしてもらっている。学生時代には分からなかったことが、実際に管理する立場になって初めて価値を帯びてきたということだ。彼らは学生時代何気なく聞いていた話を今真剣に聞こうとしている、脳みそをフル回転させて。僕の場合もそれとなんら変わらない。
僕のゼミで学ぶことはリーダーシップとクリエイティビティーの2本立て。大抵の人はリーダーシップに興味を持っている一般的なビジネスタイプだ。「モチベーション」・「論理」・「効率」といった類の言葉が好きな集団だと僕は解釈している。そんな中でマイナーな僕はクリエイティビティー派。クリエイティビティーは「モチベーション」と「論理」がビジネス以上に求められる領域であり「効率」とは程遠いところにある領域でもある。
僕は過去のゼミで「Becoming a writter」と題した個人プレゼンをしたことがある。まだ、自分がクリエイティブ派とかリーダーシップ派とかはっきり区別できないでいた時期の話だ。ビジネスタイプの集団にはイマイチの受けだったのは今でも覚えているがプレゼンをしている当の本人は楽しんでいた。その時に読んだ英語の本には「アウトプット(執筆)のためにはインプット(読書)が必要だしインプット(読書)のためにはアウトプット(執筆)が必要だ。知識がなければ表現の幅が狭まってしまうし、書かないことには情報や技術は整理・蓄積されない」と書かれていた。受験生時代、もう名前は忘れてしまったがあの先生が僕に向けて送った赤字の言葉と同じことを言っているではないかと僕の脳内体温が急上昇していく。脳内でアドレナリンが噴き出るのを抑える術を僕は知らなかった。こうなった僕を誰も止められるわけがない。
それ以来、僕は自分がクリエイティブ派であることを確信し今のアドレナリン的文学青年に至るのである。