東野圭吾著のミステリー小説。


 親友の恋人は、かつて自分が一目惚れした女性だった。嫉妬に苦しむ敦賀崇史。ところがある日の朝、目を覚ますと、彼女は自分の恋人として隣にいた。混乱する崇史。どちらが現実なのか?存在する2つの「世界」と消えない2つの「記憶」。交わる事の無い世界の中で、恋と友情は翻弄されていく。


 親友から彼女を奪い親友との友情を裏切った彼と彼女を奪われても崇史との友情だけは最後の最後まで保とうとした親友。最後の崇史と智彦が「記憶」の真相をめぐって対峙するシーンで、主人公である崇史の人間的な弱さが浮き彫りになる。


 実際に親友が去って後、崇史は「俺は弱い人間だ」と心の底から認め自戒するかのように彼女に告白する。「あたしもよ」といって彼の誤った過去の選択を咎めることなく肯定する彼女。一度壊れてしまったものを元に戻すことは不可能だとわきまえた上での短い一言。この会話を最後に、精神的に吹っ切れた崇史は自身の「記憶」をデリートする。親友との友情を取り戻すために。


 僕は読んでいて、この作品はミステリーの王道だなと感じた。 バイテック社で起きる「記憶」に関する恐ろしい研究の真相が顕わになるにつれ読者は東野ワールドにのめりこむこと間違いない。そんな1冊だ。

 僕は、過去に崇史に似たような経験があるが、崇史のようにはできなかった。僕は友情のほうを大切にして恋愛の方は諦めた。あの時の選択が正しかったとは言い切れないが、間違ってはいなかったのではないかと思わせてくれる作品であった。 


 結局崇史は(一時的とはいえ)友情も愛も失ってしまうわけだから。


 この小説のいい所はめでたしめでたしで話が終わらないところだと思う。著者はあえて崇史の記憶改編から先のことには触れていない。崇文が記憶改編で智彦との友情だけでなく麻由子との愛をも取り戻すなんていう結末であっては友情と恋愛が軽薄なものになってしまうことを危惧しての判断だと思われる。時間の経過とともに少しずつ育まれていく友情や恋は、それだけそれぞれに重たいものだということだろう。僕には、決して同じ単位ではない二つのモノを天秤にかけること自体ナンセンスなことだともいっているような気がした。 

 小説専門のブログとしてしばらくの間は約2ヶ月間(5月下旬~現在)で読んだ本の整理を兼ねて皆様に1冊ずつ紹介していきたいと思います。


 まずは、2ヶ月間で僕が読んだ本の一覧です。

【東野圭吾】

①「パラレルワールド・ラブストーリー」(449ページ)

②「黒笑小説」(332ページ)

③「放課後」(353ページ)

④「さまよう刃」(499ページ)

【石田衣良】

①「池袋ウェストゲートパーク」(367ページ)

②「反自殺クラブ」(296ページ)

③「少年計数機」(352ページ)

④「4 teen」(329ページ)

【重松清】

「ナイフ」(403ページ)

【伊坂幸太郎】

「重力ピエロ」(485ページ)

【村上春樹】

①「海辺のカフカ上」(486ページ)

②「海辺のカフカ下」(528ページ)

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 なぜ僕がこんな文学青年じみたことをしているかというと、そもそもの発端は読むことの大切さを現役・浪人という2年越しの受験生時代に学んだことにある。国立を考えていた僕は現役時代センターの必須科目5教科7科目に加え国立で出題される小論文も履修していた。こいつが厄介だった。何回銃で打っても起き上がってくるゾンビのように。


 当時、僕が全ての知力を振り絞って書いた小論は返却される度に「言いたいことはわかるが論理の飛躍が多い」などと赤字で埋め尽くされていたので正直当時の僕がそれで何回凹んだかは覚えておりません。11時過ぎに塾から帰宅して、その赤字をもう一度読み返してみる。見れば凹むとわかってはいるが見てしまう。そしてやっぱり凹む。ときには、添削者の目は節穴かと血気盛んだった僕は一人逆切れしたりすることもある。それでも、次の瞬間には無知な自分が情けなくなり大人しくなる。


 添削者の御意見を参考にもう一度書き直しては次の授業後に先生の所に行く。そしてまたダメだしをうける。また凹んで、書き直して見せに行く。こんな体力と知力の要る作業をアホみたいに繰り返していた。正直、他の教科との兼ね合いもあるからそこまで時間を割いてはいられな現実があるにも関わらずなぜかこの作業は楽しくて他の教科より優先してしまうほどだった。 なぜかと表現をぼかすのは、書き直す度にアウトプットの質が上がっているという実感があったこと以外に+αの何かが僕のモチベーションを上げてくれていたからだ。今でもその何かが分からない。


 そんなある時、いつものように返却された小論文にはこんなことが書かれていた。「だいぶ筋道立てて書けるようになってきましたね。労力と時間を割いただけ書くスキルは上がります。引き続き頑張ってください。」 今まで作品の出来で高い評価を受けてこなかった分泣きそうになるくらいうれしい一言だった。まるで、親分から「お前も一人前になったな!がんばれ。」といわれて新調の作業服と足袋をプレゼントされた駆け出しの鳶職人の気分だ。浮かれると同時にこの言葉から僕は文字の重みを知ることになる。


 続けざまに他のコメントに目をやると「小論文で書く側の視点を学べば、現代文で読む側に回ったときに作者の狙っている文章構造がすぐ見抜けるようになります。つまり、あなたは書くことを通して同時に読むことをも学んでいるのです。学術書から小説まで色んな本を読んで、さまざまな文構造に触れることはあなた自身の今の読解力を測るためにも、また文を書くためにも役立つと思います。遠回りのようで近道、ぜひたくさん本を読んでください。」 びっしりの赤字でこんな前向きなこと書かれてもらった日には、誰だって今まで億劫だった書くことや読むことが好きになるはずだとさえ思えた。


 結局、2度にわたる受験で僕が小論文を書く機会に出会えたのは某有名国立と某有名私立あわせて5回しかなかった。


 月日は流れ、今通っている大学でも小論文は使わなかった。2教科受験だったので得意の英語と日本史で9割近い高得点を出して合格した。「小論文使わなければ今までの時間が無駄じゃん。」 そんな声が今にも聞こえてきそうだ。確かに、【大学受験】という視点だけで見れば僕の時間の使い方は本当に下手糞だったかもしれない。でも、大学に入ってみて書くという機会はレポートという形で与えられた。正直、僕は浪人時代に感謝している。あのときのおかげで、レポートが100点満点中115点なんていう規格外の点数になって返ってくることがあった。また、半期で11個もレポート書かなければならなかった時も全然書くことが苦にならず締め切り前々日~前日くらいには涼しげな顔で課題を出し終えていた。結果は良くて秀、どんなに悪くても良でおさまる範囲の成績だった。これを小論文のおかげと言わずしてなんと言おう。


 現在僕が属しているゼミの外人教授はよくこんなことを言う。「どうして日本の学生は本を読まないのか!どうして文を書かないのか!それはLazyなことだ!」と。ポカーンと聞いた振りをしている同期を横目に僕の脳はこのセリフを受けてフル稼働していた。普段グロテスクな下ネタばかり話す彼にはあまり好感がもてないがこの言葉にはすごく共感を覚え尊敬の念すら抱いたのを僕は覚えている。それはやっぱりあの受験生時代の小論文の経験があったからだろう。彼の言っていることの価値は経験してからでないとその真価が発揮されないようだと確信に至ったのはこのときだ。管理職くらいになったゼミのOBOGは、定期的に教授を都内に呼び出して彼にマネージメントに関する講義をしてもらっている。学生時代には分からなかったことが、実際に管理する立場になって初めて価値を帯びてきたということだ。彼らは学生時代何気なく聞いていた話を今真剣に聞こうとしている、脳みそをフル回転させて。僕の場合もそれとなんら変わらない。


 僕のゼミで学ぶことはリーダーシップとクリエイティビティーの2本立て。大抵の人はリーダーシップに興味を持っている一般的なビジネスタイプだ。「モチベーション」・「論理」・「効率」といった類の言葉が好きな集団だと僕は解釈している。そんな中でマイナーな僕はクリエイティビティー派。クリエイティビティーは「モチベーション」と「論理」がビジネス以上に求められる領域であり「効率」とは程遠いところにある領域でもある。


 僕は過去のゼミで「Becoming a writter」と題した個人プレゼンをしたことがある。まだ、自分がクリエイティブ派とかリーダーシップ派とかはっきり区別できないでいた時期の話だ。ビジネスタイプの集団にはイマイチの受けだったのは今でも覚えているがプレゼンをしている当の本人は楽しんでいた。その時に読んだ英語の本には「アウトプット(執筆)のためにはインプット(読書)が必要だしインプット(読書)のためにはアウトプット(執筆)が必要だ。知識がなければ表現の幅が狭まってしまうし、書かないことには情報や技術は整理・蓄積されない」と書かれていた。受験生時代、もう名前は忘れてしまったがあの先生が僕に向けて送った赤字の言葉と同じことを言っているではないかと僕の脳内体温が急上昇していく。脳内でアドレナリンが噴き出るのを抑える術を僕は知らなかった。こうなった僕を誰も止められるわけがない。


 それ以来、僕は自分がクリエイティブ派であることを確信し今のアドレナリン的文学青年に至るのである。 

            


東野圭吾(ひがしの・けいご)
1958年大阪市生まれ。大阪府立大学電気工学科卒。エンジニアとしてデンソーに勤務しながら小説を書き、85年『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受賞して作家デビュー。その後執筆に専念、99年に広末涼子主演で映画化された『秘密』で第52回日本推理作家協会賞受賞。主な作品に『白夜行』『レイクサイド』など。近刊として『殺人の門』がある。

東野圭吾公式サイト
http://www.keigo-book.com/

東野圭吾先生


          頭の中の名シーンから作品が生まれる

『幻夜』は東野さんの既刊『白夜行』とともに読んでいただきたい作品だ。両作品はそれぞれ完結したストーリーだが、あわせて読めば、また別の面白さを発見できる。『白夜行』を読んだ人は、このインタビューの第1回を読んで、すでに2つの作品の共通点に気づいたはず。あちこちに散りばめられた符号に気づいてドキドキワクワク、ミステリを読む醍醐味をたっぷり味わえるだろう。

「どちらから読んでもらってもいいのですが、両方読めば両方読んだなりの面白さがあると思います。ただ『白夜行』の“続編”にはしたくなかったので、『幻夜』を書くとき、そこは苦労しました。ズバリ書いてしまうのは無粋。両方を読んだ人同士でいろいろ想像して盛り上がってくれればいいな、と思っています」

なんといっても両作品とも、単行本で500ページ以上のボリューム。両方を読了すると、物語の厚みと深みがずしーんと迫ってくる。それにしてもこれだけの長編、書いているうちにつじつまがあわなくなってくることはないのだろうか?

「けっこう混乱しますよ(笑)。こいつとこいつ、面識あったんだっけ。この人は何を知ってて、何を知らなかったんだっけ、とかわからなくなってくる(笑)。時間軸が長いので、そこは苦労したところです。でも僕はインデックスを作ったり、メモをとったりするのは苦手で、一切やらない。頭の中に立体的な、時間と空間が組み合わさったような映像があって、“あのときどうだっけ”と思い出すと、その映像が出てくるんです。季節はいつ頃で服装はこう、あいつがここにいて、こいつがこのへんのポジションだったな、というふうに」

「僕は、ばっちりストーリーを決めてから書くタイプではない。でも、ポイントポイントの名場面は決まっているんです。この先、どういうストーリーになるかはわからないけど、こういうシーンが欲しい。そこにどうもっていくか。それはとてもワクワクする部分です。『幻夜』で言えば、最初の殺人のシーン。雅也が衝動的に叔父を殺してしまう。大震災の瓦礫の山の中で、はっと顔を上げるとそばに女が立っている。このシーンは最初から決めていました。そういうシーンを書くときは力が入りますね。でも、映像はばっちりあるんだけど、なかなかうまく文章で伝えられないんですよ。この頭の中をそのまま見てもらえたら、どんなに感動してもらえるか、と思うんですが(笑)」


そしてラストシーンも、東野さんの脳内劇場の名シーンのひとつ。お楽しみに!

東野さんの作品は実際に映像化されているものも数多い。自分のイメージと違う、ともどかしいことはないのだろうか。

「いえ、それは抵抗ありません。それにポイント、ポイントでかなり自分のイメージどおりですよ。たとえば映画『g@me』の原作となった『ゲームの名は誘拐』。主人公が優雅にビールを飲みながら携帯を片手に、ビルの高層階から高速道路をながめている、というシーンがある。あの作品はこのイメージがきっかけでできたんですが、映画を見たらまさにイメージどおりでした。映画を作るサイドの方も、あのシーンを読んで『これは映画になる!』と思ったそうです。僕自身が映像を意識した書き方だから、映像化しやすいのかもしれないですね。逆に自分のイメージと違っても、なるほど、と勉強になるんです。何もかも自分のイメージどおりじゃ成長がない。他の人が作るとこうなるのか、たいしたもんだ、と恐れ入るところがないとつまらないですよ」

インタビュー・文/石川敦子
カメラ/関 俊也



           女性の内面だけは永遠のミステリー

『白夜行』も『幻夜』も、ストーリーのあちこちに時代の記号が盛り込まれている。スーパー・マリオ。阪神・淡路大震災。カリスマ美容師。そのせいだろうか、「もしかして、こんなことホントにあったんじゃないか……」というリアリティが迫ってくる。

「そのときどきの時事問題を取り入れてストーリーに関連づけていくのは好きなんです。たとえば『幻夜』の最初のほうで起きる異臭事件。あれは地下鉄サリン事件のあと、類似の事件がいくつかあったので、これにしようと。そうすると、それがエンジンになってスムーズにアイデアが浮かんでくるんです。世の中のできごとの合間をくぐりぬけて、ストーリーを作っていく感じかな」

「作品のアイデアを考えるとき、必要なら取材もします。でも常日ごろ、いろいろな人に会ったり、経験するようにしているんです。たとえば以前、陶芸の入門ビデオに出ました。何人かの作家が陶芸に挑戦して、その様子を入門ビデオにするというもので、僕はろくろをやりたいと希望したんです。ろくろは一番たいへんで、1日5~6時間、最低5~6回はトレーニングしないとできない。苦労したけど、それなりに作れるようになりました。僕は言葉で人から聞くより、実際、自分で触って体験して初めて実感できる。今回、『幻夜』ではそのときの知識を使っています。それから主人公の雅也は職人ですが、うちの親父が彫金師。僕もよく工作機械をうちで使っていました。そういう既存の知識が、作品を書くときプラスになっています」

読むたびに「いったい、この人の頭の中、どうなってるの?」と思う東野ワールドの創造の一片が、ほんの少しだけ見えたような。そして最後に、東野さんが今回の作品で苦労したところをもうひとつ教えてくれた。

「僕は男だから、女性のことは永久にわからないじゃないですか。だから女性の内面はなるべく書かないようにしてるんです。基本的に女性のことは悪く書かない。知らんから(笑)。知らんのによけいなことは書かないと(笑)。男の心理を書くことはまぁまぁ自信があるし、男のことは少々悪く書いたってかまわないと思ってるんです。こんなやついないよ、と言われても『いや、オレはこうだもん』と言えるから。『男はみんな美人に弱いんですね』と言われても『ええ、オレは弱いです』と言える(笑)。でも女性はねぇ……わからないんですよ、全然。
 でも今回は、何人かの女性の内面を書かざるをえなかったので、そこは非常に苦労してます。たとえば若い男といい仲になる50代の女性・頼江の心理。あのへんは自分としては綱渡り。読む人にとっては読みどころではないかなと(笑)。女性の方にはサラリと読み流してほしいですね。あんな女はいない、女の気持ちがわかっとらん、というご意見もあるでしょうが、まぁ、おおめに見てほしいなと(笑)」


さぁ、東野さんが『幻夜』で女性を、そして男性をどう書いているのか、確かめてみてほしい。そして読み終わったら「あの男、かわいそうだよねぇ」「あの子の気持ち、わかる!」「ねぇねぇ、アレに気づいた?」と、読んだ者同士で盛り上がるべし!
インタビュー・文/石川敦子
カメラ/関 俊也