「異物」が「同志」に変わった夜。私たちが那須川天心に抱いた奇妙な罪悪感と、井上拓真への最大限の敬意
2025年11月24日、WBC世界バンタム級王座決定戦。
判定3-0。勝者、井上拓真。
その瞬間、ボクシング界を覆っていた長い「熱」が、急速に冷ややかな「静寂」へと変わっていくのを肌で感じた。
それは決して、盛り下がったわけではない。私たちボクシングファンが、自分たちの心の中にあった**「ある残酷な願望」が叶ってしまったことへの戸惑いと、その後に押し寄せた「予期せぬ罪悪感」**に直面した静寂だった。
今日は、ボクシング界がこの数年抱え続けてきた「那須川天心という異物」について、そして、彼が敗者になった瞬間に私たちが知った「本当の彼」について書きたいと思う。
聖域を守り抜いた「門番」、井上拓真
まず、勝者である井上拓真には、最大限の賛辞を送らなければならない。
彼はこの夜、単にベルトを巻いたのではない。「ボクシングという競技の尊厳」を守り抜いたのだ。
リーチ差14cm。スピードと反射神経の化け物である天心を相手に、拓真が選んだのは、派手な打ち合いではなく「ボクシングの深淵」に引きずり込むことだった。
ミリ単位の距離操作、相手の良さを消すブロッキング、そして、観客のブーイングすら意に介さず自分のペースを貫くメンタリティ。
「スピードだけのボクシングなど、本物の技術の前では通用しない」
拓真の拳は、雄弁にそう語っていた。彼は兄・尚弥のような「破壊神」ではないかもしれないが、間違いなく、誰よりもボクシングの理(ことわり)を知る「達人」だった。
私たちが抱いていた「異物」への排除意識
正直に告白しよう。
ボクシング界の住人の多くは、心のどこかで**「那須川天心に負けてほしかった」**のではなかったか。
キックボクシングから鳴り物入りで転向し、特例のような扱いでランカーを倒し、またたく間に世界戦へ。
その華やかすぎるスポットライトに対し、私たちは「異物感」を抱いていた。
「ボクシングはそんなに甘くない」
「人気だけで聖域を荒らさないでくれ」
私たちは、彼を「お客様」としてしか見ていなかった。いつか"本職"のボクサーが、彼の魔法を解き、厳しい現実を突きつけてくれることを期待していた。
そして、その役割を井上拓真が完璧に遂行した時、私たちは留飲を下げるはずだった。
「ざまあみろ、これがボクシングだ」と。
しかし、現実は違った。
笑顔の敗者が突きつけた「罪悪感」
試合後、判定を聞いた那須川天心は、言い訳一つせず、清々しい顔で笑っていた。
「人生実験なんで。次は成功させるだけ」
「あ、ここで負けさせられるんだ、って発見があった」
その言葉を聞いた瞬間、胸にチクリと刺さるものがあった。それが**「罪悪感」**の正体だ。
私たちは彼を「ボクシングを舐めている侵入者」だと思っていた。
しかし、リング上の彼はどうだったか。
誰よりもボクシングに真摯で、リスクを恐れず、自分の全てを賭けて戦っていたではないか。
彼が持っていたのは「驕り」ではなく、純粋すぎるほどの「好奇心」と「挑戦心」だけだった。
勝敗の重圧に押しつぶされそうになりながらも、決して逃げずに立ち向かった一人の若者に対して、私たちは「負けろ」と呪いをかけていたのだ。
敗北を受け入れ、勝者・拓真を称える彼の姿は、あまりにも美しかった。
その潔さが、私たちの偏狭なプライドを浮き彫りにした。
「異物」だと決めつけていたのは私たちの勝手な色眼鏡であり、彼は最初から、私たちと同じ「ボクシングを愛する同志」だったのだと、痛烈に思い知らされた。
結論:彼はもう「お客様」ではない
この夜をもって、那須川天心への「異物感」は完全に消滅したと思う。
井上拓真というあまりに高い壁に跳ね返されたことで、彼は逆説的に**「ボクシング界の本当の住人」**として認められたのだ。
拓真が見せた「伝統と技術の凄み」。
天心が見せた「敗北しても折れない人間の輝き」。
どちらも等しく尊い。
私たちが感じるべきは、異物を排除できた安堵ではない。
一人の天才が初めて膝をつき、それでもなお「人生は面白い」と笑ったその強さへの、心からのリスペクトだ。
これからはもう、色眼鏡なしで彼を見よう。
一度死んで、生まれ変わろうとするボクサー・那須川天心の第二章を。