「うちら」の考察 | weblog -α-

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いつのまにか、なんでか、若いこ(男も)が「じぶんたち」のことを「うちら」って言うようになったんだろう。

コピーライターの糸井重里氏によるTwitter上での発言である。
「そう言われると・・・」 と思い当たる事ではあるが、特に意識した事も無かった。
まぁ、俺は基本的に若い子らになんて肉欲的な興味ぐらいしかないがw
いや、それは半ば冗談にしても(あくまで半ば)、所謂、今時の若い子らの言葉遣いであるとか文章に関する日本語力にはどちらかというと否定的なので、関心を抱く事自体を意識的に避けているところがある。
たまに取り上げて何か言ってみたりもするが、いちいちそこでリアクションばかりするのは不毛ってもんだろう。
変化球どころか魔球ばかり投げて、ストレートの投げられないピッチャーに 「下手クソ!」 と文句をつけるのは筋違いだ。
もっとも、「ストライクって何?」 ってレベルで堂々と投げちゃってる辺りは、さすがに痛いとしか言えないところではあるが。

さて、本題の 「うちら」 だが、基本的には関西方面で自分を表す 「ウチ」 から派生した言い方だろう。
「ウチら」 は複数形の言い方なので、自分を含めたグループやチームなどを言い表す際に多用されるもの。
老若男女問わず、西では決して珍しい言い方などではない。
ここでまず一つの結論に至る。
『主に関西方面では、「ウチら」 という使い方が根付いている』 という事。
つまり、「ウチら」 という言い方が広まった発端は、関西を中心とした西日本という事で間違い無いだろう。

何故、大阪や京都ではなく関西や西日本という広い括りにしているのかと言えば、日本がもはや馬車や篭の時代では無いからだ。
交通技術の発展により、日本中の主要都市はそれぞれがさほど遠い場所という認識では無くなった。
当然、首都圏や関西圏といった括りでの人々の往来もそれだけ激しくなり、物資は勿論、土地土地の独自性を持つ文化なども相互的に受け入れ合う形となった。
各土地の独自性を顕著に表すのは、やはり言葉(方言)だろう。

「ウチ」 という言い方のイメージと言えば、まず真っ先に思い浮かぶのは京都である。
かつて都があった土地であるが故、京言葉は都を往来する人々によって周囲の土地土地へと顕著に拡散され、特に都と関連の強かった土地を中心に根を下ろしたのだろう。
それは昨日今日の話ではない為、「ウチ」 という言い方の中心も、もはや関西や西日本という広い括りで表した方が正解だろう。


さて、「ウチら」 という言い方が関西を中心に西日本で多用されているというところまでは良いとして、それがどうして近年になって東日本でも多用される様になったのかだ。

勿論、前述のとおりに交通技術の発展による西からの人々の流入や往来というのはあるだろう。
しかし、それだけを要因にするのはさすがに弱い。
他に考えられるものと言えば、テレビの普及と発展がある。
今でこそ日本人のテレビ離れが顕著ではあるが、ほんの20年かそこら前までは、テレビこそ大衆メディアの中心だった。
前後、白黒テレビからカラーテレビの時代に入り、テレビは高級品から一家に一台の普及品になった。
やがて一部屋に一台という時代にもなり、家電としてのテレビはあって当たり前の代物へと価値を落として行く。
しかし、ハードであるテレビ自体の普及率が上がった効果により、ソフトである番組作りは各社積極的に行われ、あらゆるジャンルの番組が登場した。
折りしも日本はバブル時代を迎え、テレビ業界などは特に羽振り良く番組作りに金を使えた時代だった。
故に実験的試みと言えるマニアックなものも求められる様になり、それに応える様な番組も多発されていた。

潤ったテレビ業界だが、当然ながらやがてネタ切れになってくる。
バブルが崩壊すると、今度は金ではなくアイデアや演出で勝負しなければいけない時代になった。
まるでバブル時代のツケを払わされる様にテレビ業界は次々とネタを打つが、大衆は業界のネタ切れ感をきっちりと嗅ぎ取り、より面白いものをと求める。
そして、各地方ローカルでしか放映されていなかった番組の売り買いが頻繁に行われる様になると、そんな中にもヒット番組が登場する事となる。
特にテレビ業界が得意とするバラエティーのジャンルは競争が激しく、昔から笑いの中心と言われる関西圏の番組が関東でも顕著に放映され出したり、そもそも関西で制作された番組を関東でも数多く流す様になった。
すると、当然ながら番組に登場するタレント等も、その地方で人気のあるキャスティングがされていたりする為、関西系タレントや芸人が関東でも売れっ子になり易くなった。
これは現状を見ても解る事だが、バラエティー番組で関西系の芸人が登場しない事はまず無いと言っていい程になったのである。
おのずと、関西弁は関東でも多く耳にする事となり、特にバラエティーを好む若年層には広く受け入れられる事となった訳だ。


では何故、「ウチら」 という言い方がそれほど関東圏の人々に受け入れられたのかという点。

本来、関東なら 「俺ら」 や 「アタシら」 が若者言葉で使われていた表現だ。
「僕ら」 や 「私ら」 という言い方もあるが、今現在広まっている 「ウチら」 という言い回しは、恐らく少し乱暴だが酷くはないというイメージを前提に好まれたものなので、畏まった言い方と比べるのは違うだろう。

単純に言えば、「ウチら」 という言い回しは若者層にとって 『かっこいい響きの言葉』 なのだろう。
「俺ら」 や 「アタシら」 よりもスマートに聞こえ、気取り過ぎていない印象を受けるが故、若者達にはキャッチーなのである。
しかし、近年の若者層の傾向を見ると、ただキャッチーなだけでは定着しなかっただろう。
そこには印象だけではない理由がある様に思える。

今時の若者達は(という言い方をあえてするが)、学生時代をシビアな価値観の中で過ごしたという影響が強く見られる。
代表的に挙げられるのは 「ゆとり世代」 だが、その前後の世代も充分に昔とは違うシビアな価値観の中で学生時代を過ごしただろう。

かつて、学生が世間から注目を集めている時代があった。
その最も代表的な例は、学生運動が盛んだった1970年前後。
中心となったのは大学生だったが、高校生でも参加や支持をする者は少なくなかった。
学生運動が下火となって以降は、中高を中心に校内暴力が社会問題となった。
80年代前半までそれは続き、そんな中でシンボル的に扱われたのが 『不良』 である。
いわゆる、悪く見える容姿や言動を自発的に行ったり、暴走族などに属してケンカや恐喝といった犯罪行為をする者が不良と呼ばれたが、極めて客観的な見地で言えば、それらは全てがパフォーマンスである。
「俺らは悪いんだぞ、怖いんだぞ」 と露骨に示す事で威圧感を与えてはいたが、それらはリアクションありきで成立するところがあり、本質的な悪を追求したものではない。
恐らく、今現在の世の中の価値観で言えば、最もカッコ悪いと笑われてしまう事だろう。
しかし、彼らがそれほど解り易く悪さを演出した背景には、受験戦争などが盛んになり、教育至上な社会構造が激化した事にある為、一概にバカらしいと評価するべきものでもない。
極端な流れには極端な流れでの反発があって当然なのだ。

校内暴力が沈静化すると、学校の現場はそれまでほど露骨ではない問題が頻発する様になった。
いじめ問題は未だ取り上げられる問題の一つだが、今の様なイジメというのも不良が台頭していた時代には余り無かった事である。
勿論、イジメ自体は当たり前にあった事なのだが、イジメは一見して不良な輩の専売特許の様なものだったし、いじめられる側も目立って気が弱いであるとか、解り易く何かしらの特徴がある生徒が主に対象とされていた。
つまり、必然的な理由や役割を前提としたものが 『いじめ』 であり、ある意味、絶対にイジメの対象にはされないという生徒も多かったのである。
しかし、今現在のいじめは役割が明確でなく、昔の様に記号的な不良もほとんど存在しない。
普通に見える生徒が普通に見える生徒をいじめ、その立場は急に逆転したりもする。
昔の様にスポーツや勉強という得意分野で天下を取れば安泰かと言えばそうでもなく、むしろ 「生意気だ」 とか言われてターゲットにされるリスクの方が増してしまう。
つまり、出る杭は打たれ、出ない杭も打たれ、目立たぬ様に加減しているのがバレても打たれるのだ。
そんな逃げ場に乏しく余裕も持てないシビアな環境で毎日を過ごし、大人の都合で納得や理解も出来ないまま動かされ、親や友人の顔色を窺いながら未熟な子供達は生きろと言われているのだ。
これが過酷でなくてなんだろうか。

そういった現実の中で育っている若者達は、個性に憧れつつ、周囲を強く意識しながら生きている。
誰とも違う魅力を欲しているのにも関わらず、ブームや話題を決して無視出来ない習性が刷り込まれてしまっているのだ。
だからこそ、個を強調した 「俺」 や 「アタシ」 よりも、周囲の存在を含めた言い方になり、尚且つ個をぼかして主張出来る 「ウチら」 を好むのである。
そして、本来なら 「俺は」「アタシは」 という自分単独で主張すべき部分に関しても、必要以上に 「ウチら」 を使って統一している訳だ。

元々、「俺らの頃は」 という様な使い方はあった言い回しであり、それを 「ウチらの頃は」 と使う分にはなんら不思議は無いのだが、今の若者達は 「俺はこう思いますよ」 という単独主張でさえ、「俺らはこう思ってますよ」 という様な使い方をする事がある。
さながら、否定や反論された場合に 「だよな?」 と仲間に振る事で正当化したり、根拠に見せようとするのが大前提の様に。
とどのつまり、個としての根拠が乏しい故に自信も強く持てず、存在そのものの曖昧さを誤魔化さねば生きて行けない・・・という様な根底があるのだろう。
不特定多数の他人から支持される事が 「認められる」 という事だとしても、他人を介さなければ自分の根拠を何も見出せないのだとしたら、それは本当の意味での自分になれるはずがない。
他人からの視点も必要な要素だが、自分とは自力でなるものなのだ。
とは言え、ただの頭の悪い自己中人間も腐るほど湧いているから困ったものなのだが。


情報化社会も言わずもがなの状況になり、ネットさえあれば周囲や全く知らない人々との情報共有は容易いものとなった。
「ウチら」 に限らず、そもそも方言だった言葉が日本中で日常的に使われている時代だ。
こういったネット社会が主流になってしまえば、方言すらもはや方言と呼べない時代が来るかも知れない。
どこに居ても遠くの誰かと繋がってやり取りが出来る。
国内でも海外とでも、文字でも声でも映像でもコミュニケーションが取れる。
出来る事が限られているのは昔と変わらないとしても、遥かに出来ない事の方が少なくなったのは言うまでもないだろう。

教育の質が下がり、勉強の出来ない子供が増加しているのは見過ごせない事実だが、こうしたコミュニケーションツールの普及により、他人との接点やきっかけというもの自体が遥かに増えているのは事実だ。
少なくとも、その向こうに居る人間と接触する事が容易になったのであれば、ゲームや漫画などといった作り物の世界ばかりが身近な選択肢にはならず、遠回りでも人と関わって経験を積む事は出来る。
どんな言葉や行動に人は影響を受けるのか、感情を動かすのか。
そういった事は実際の人間相手でなければ得られない経験がほとんどなので、仮に勉強がからっきし出来ない人であっても、他人と関わる事で学べるのであれば、無法地帯でリスキーなネットというのも決して悪いばかりとは言い切れない様に思う。
むしろ、日常に密接した言語に関する能力値というのは、これから受験目的ではなく実地の部分で向上する様な気がするのは楽観的に見過ぎだろうか。

あ、言い忘れたが、若年層以外も 「ウチら」 を多用していたりするのは、若い連中に媚びているか、なんとなく耳に残って言い易いから使っているか、全く無意識で使っているか、若い連中と同じ様な価値観か・・・まぁ、そんなところでしょう。
別に使う事自体に良い悪いは無いだろうからどうでも良いんすけどね・・・って、それ言っちゃオシマイかw