もう半年ほど前ぐらいになると思う、ダンが急に体調を崩した。
猫は体調が悪いと食事もせずにひたすら眠る。
自然治癒に全てを託すのが本能的行動というものだ。
だから眠る。
狭苦しい様な、なるべく邪魔されそうにない場所なんかに篭もって眠る事が多い。
まぁ、そんな事は猫を飼っていればそれほど珍しくもなく、風邪をひいたってそうするものなのだ。
無論、猫にとっての風邪は人間と違って充分に大病なのだが。
ダンがメシも食わずに寝る日々が長引き、例の如く姉貴が病院に連れて行った。
様子見の期間が少しあったが、ダンは風邪なんかよりもずっと重い病気だと診断された。
要するに癌の様なもので、治療と言うよりは延命という処置しかなかった様だ。
ダンは、ほんの一週間ほどで急激に痩せこけ、あの丸々とした面影はすっかり無くなってしまった。
出来得る限りの事を姉貴がした。
病院にはほぼ毎日の様に連れて行き、家でも点滴を打ち、食事はスポイトで強引に食わせる日々だった。
悲鳴に近い鳴き声を上げたり、低く呻りまくっていたダンだったが、そうしなければ生きていられない状態だから泣いても喚いても無駄、それが飼い猫の宿命。
献身的と言うなら献身的な姉貴の介護の甲斐もあり、時には調子の良さそうな日もあったダンだが、それでも元に戻るという事はもう無いと宣告されている身体、骨と皮だけになった痛々しい姿を見ると、どうしても可哀想に思ってしまう。
まぁ、かと言って性格が温和になったかと言えばそんなはずもなく、むしろ毎日の点滴やらを嫌がらせに感じているダンはストレスを溜めていて、ひと月ほど前にマジ咬みされた俺の手には2つの深い穴が開いた。
元々マジ咬みをする奴ではあったが、いまだかつて無い程のマジ咬みには人間に対する恨みすら感じる程だった。
死なせない為には仕方無い事だとは言え、ダンにとってみれば単純にストレスでしかない訳だから理解はする・・・にしても、俺の方もそこそこ大怪我させられた訳で、今後は可哀想でも一切手出しはしないと決めてしまった。
ただ撫でていただけで、しかもそれまで気持ち良さげに顔を擦り付けてきてたクセに、次の瞬間に大怪我させられたんでは俺も同情してる場合じゃない。
だから、それからダンには一切触れていない。
日々日々、ダンは衰弱して行き、ほぼ寝たきりの様な状態になった。
トイレには自力で行っていたみたいだが、昨日はほんの1m移動するだけでもフラついていた。
もうダメかと思わせる時期を一度越え、いよいよホントに限界が見えていたこの数日、そして今日の日を迎え、つい一時間ほど前、ダンは逝ってしまった。
正直、この二週間ほどは病気そのものよりも延命処置の方が見ていて可哀想に思っていた。
相変わらず点滴も食事も姉貴から強引にさせられて、その度に呻りながら嫌がっているダンは、どれだけ延命処置をされたところで死にかけているのだ。
ダンの事を思っての姉貴の行動を悪く言うつもりはないが、明らかに死が目前に迫ったダンにとって、それは苦でしかないだろうと思えた。
俺の手に穴を開ける力すらもう無いであろうダンは、死ぬべくしてその時を待っている様に俺には映っていた。
動物はそうやって死を迎えるものだからだ。
だから、姉貴の気持ちは痛いほど解りつつも、俺はダンの立場で考えてしまい、無理に薬や食事を流し込まれる様を見ていられなかった。
姉貴がいくら頑張ったところで、たとえ命懸けで看病したところで、ダンは生きている限り苦しいだけの事だろうと思った。
「もういいんじゃないか」 と口にしかけて何度も止めた。
恐らく、言ったところで展開は想像どおりだっただろうから。
「ホントにもう、そろそろだと思う」 と姉貴が口にしたのは二、三日前。
事実、ダンの状態は明らかに死の寸前に居る者だった。
覚悟をする時間は長すぎるほどあった。
俺よりもむしろ、依存体質な姉貴にそれは必要な時間だっただろう。
ダンの頑張りはその為にあったと言って良いと俺は思っている。
俺が遅いメシを作りにキッチンに下りて行くと、ダンはいつもの場所で寝ていた。
もう微動だにせず、ちゃんと生きているのかも解らないほど生気が無かった。
俺がメシを作り終える少し前、ダンが小さく鳴いて姉貴が返事をした。
もう視界もハッキリしていないらしく、姉貴が居るかどうかを確認したらしい。
姉貴がダンの傍に行き、ずっと張り付いていた。
しばらくすると、姉貴が込み上げて泣き出した声がした。
でも、ダンはまだ往生際に留まっていて、俺がメシを作り終えた時にも辛うじて息があった。
姉貴が 「これでもうダメだろうから」 とダンの顔を俺に見せた。
虚空を見つめるダンの目は、生ある者がまさに死を迎えようとする瞬間の野性をたたえていた。
いつもの様に名前を呼んだけど、もう何の反応も無い。
もう一度呼んで、「よく頑張ったな。もういいよ。」 と声を掛けた。
それでもう、俺はリビングを出て自室に向かった。
覚悟は充分に出来ていて、俺なりの本音を言う事も出来たのに、涙声になるのを抑えられなかった。
猫の死に目にだって何度と会っているのに、束の間すら感情を押し止められない事に腹が立った。
だから、部屋に戻ってからも涙は堪えた。
ダンはやっと楽になれるんだから、俺が感情のままに泣くのは自分勝手な気もした。
ダンが息を引き取ったのはそれから間も無くだろう。
俺は臨終には立ち会わなかった。
姉貴だけならともかく、大嫌いな姉貴の旦那もリビングに居たから避けたってのもある。
いずれにしても、姉貴が最期を看取るのが筋ってもんだったし、俺は最期に声を掛けられただけで充分だった。
大泣きする姉貴なんか見たら、俺だって堪えられそうにないし。
メシを作りに行く前から俺の部屋にはサイが寝てて、俺が戻ってしばらくした頃に寝言を言った。
ひょっとしたらダンが最期の挨拶でもしたのかと思ったが、こればっかりはどうなのか知る術が無い。
サイが一度トイレに起きて毛布から出て来た時、ダンが死んだ事を伝えた。
相変わらず知らん顔な甘えたのストーカー女は、そそくさとトイレを済ませて戻って来た。
ベッドの足元に敷いてる膝掛けに座ってこっちを見てるんで、もう一度ダンが死んだんだぞと教えてやったが、なんだかとっくに知ってるとでも言いだけな表情をしてたんで、もう言うのをやめた。
サイは、ダンが体調を崩してからすぐ、今まで自由に出入りしてたリビングから閉め出された。
ダンに処方された強い薬のせいで、ダンとトイレの共用が出来なくなったのが一番の理由だ。
そして恐らく、これまでどおりにダンと遊ぼうとちょっかいを出す事も良くないと姉貴が考慮しての事だろう。
いずれにしても、リビングの立ち入りを禁じられたサイは、それまでの様に日常を過ごす場所を失くしたのだ。
ダン同様、サイだって姉貴にべったり張り付いて生活してた甘えただから、それはもうリビングのドアの前・・・つまりは玄関ホールでヒステリックに開けろと鳴き続けてた。
ダンがあまり鳴かない猫な一方、サイはアホほどデカい声で鳴き喚くおしゃべり女。
下手なサイレンを負かす勢いで10分でも20分でも鳴き続けるしつこさも兼ね備えてるだけに、気に食わない状況に追いやると厄介極まりない。
そして、その被害が最終的に回って来るのが俺である。
リビングに入れないと大声で文句を言い続けてたサイも、入れて貰えないと解ると、今度は俺にそれを訴えに来る。
ダンにとってもサイにとっても遊び相手ぐらいにしか思われてない俺だが、姉貴が留守にしたり、姉貴にこっ酷く怒られた時には俺に頼って来る。
ダンはハンドル錠の俺の部屋を自力で開けて入れたが、賢くないサイはドアの前でひたすら鳴く。
それこそサイレンか大音量の目覚まし時計の様に延々と鳴く。
今回は絶対的な出入り禁止な訳だから、もはや頼るのは俺しか居ないという事で、結果的には絶叫を合図に俺がサイを迎え入れるしかなくなったのだ。
サイの方も、リビングに入れて貰えなくなったと理解すると、当たり前に俺の部屋を根城に決めた様だった。
で、結局、俺がサイの面倒を見る担当みたいになっている現状。
メシとトイレの面倒だけは変わらず姉貴がやっているものの、あとの日常は全部が俺である。
リビングのドアと違って猫用の出入り口を作ってない俺の部屋だから、サイの出入りの度にドアを開けてやらなきゃいけない。
寝る時は自由に出入り出来る様に少しドアを開けといてやらなきゃいけない・・・いくらクソ寒くても。
遊んで欲しがったら最低限は相手してやらないと、ウロウロしたり、鳴き喚いたりとまたうるさい。
寝てても布団の足元でサイも寝るから寝返りは不自由で、寒いと早朝だって布団に入れろと言って来るからいちいち起こされる。
そんなんで寝不足になってやたら寝てたりすると、寂しいとか遊べとかってサイの都合で鳴き声目覚ましに起こされる。
それと、超が付くほどヘタレなサイは、ギターを怖がるから迂闊に弾く事も出来ない。
いや、弾く事は訳無いにしても、目の前で弾いたりすると怖がって部屋自体に入って来なくなる前例があるのだ。
単に怖がるだけならまだしも、それで部屋に入れないってまた鳴き喚くんだからタチが悪い。
とっくに弾くのをやめてたってその調子じゃ、目の前で弾かないに尽きてしまう訳だ。
とまぁ、そんな日々をこの半年ほど送ってるもんで、ちょっとした睡眠障害の状態の上に寝不足続き。
弾きたい時にギターすら弾けないストレスと、いちいち寒い部屋に疲れ気味。
ネコキチを自称する俺だけに、サイが居れば可愛いとかは当然思うけど、いくら可愛いからって極端に生活リズム崩されるのは困りもんですよ。
可愛いのと生活乱れるのは別問題。
まぁ、事情が事情でサイも可哀想だから出来る事はしてやりたいし、姉貴がダンに付きっきりなのを見てるから尚更に俺がサイのフォローをしてるけど、さすがにちょっと疲れが溜まってるというか・・・せめて寝てるのを無理に起こすのだけは勘弁して欲しいんだけどもね、それだけは昔から苦手だから。
ダンが死んで、サイもようやくリビング解禁になるだろうし、夜は夜で姉貴のトコで寝られる様にもなるだろうから、サイにとっても一応は我慢の半年を頑張った事になる。
まぁ、この部屋で生活するのが当たり前って前例を作ってしまっただけに、これからも当たり前に部屋に入れろって鳴かれそうなのが怖いけども、とりあえずはひと段落って事になるかなと。
生きてる側は生きてく事を考えなきゃいけないから大変だよね、人も猫も。
今夜、ダンはまだ姉貴に付き添われてリビングに居る。
中身の方はとっくに歴代の猫達のトコに行って、挨拶代わりにマジ咬みでもしてるかも知れないけど、この半年で疲れ切った身体はまだこの家にある。
ダンのあの太い前脚とか、夜中に寂しくて甘えて擦りついてきた事とか、赤い巾着やらスーパーの袋を被って喉をゴロゴロ鳴らしてた変態ぶりとか、あいつに関する全ての出来事が懐かしくて、愛しくて、いちいち涙腺を刺激するんで生意気だ。
俺の右手には、まだダンの咬み傷の痕が残ってる。
まるで置き土産みたいに残してった傷痕は、やたら深かったから当分消えそうに無い。
たっぷりと流血して、ホントに痛かったのに仕返しもさせず仕舞いで逝ったから、いずれ借りは返したい。
