捉え方 | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


考え方しだいで 世界は丸かったり
考え方しだいで コンペイトウに見えたり
僕の住む世界は ゆがんでいるらしい
だけど ちょっぴり見方を 変えてみたら
となりの成金おやじが 仏に見える


これは、THE BOOMの初期の頃の曲、「逆立ちすれば答えがわかる」の歌詞の一部。
俺は当時、TVから流れてきたこの曲を聴いて、THE BOOMに興味を持ちました。
と言うのも、俺の物事に対する考え方や捉え方に通ずるものがあったからです。

物事をどう捉えるかによって、その人にとっての世界や人生が大きく違ってきます。
なかなか重大な事ですが、世の中の人々はあまり意識せずに生きていらっしゃる様子。


俺はですね、綺麗事だとか儀礼的な事なんかが嫌いなんです。
理想論者や夢想家も嫌いです。
・・・と、こういう物言いをすると往々にして誤解されがちなんですが、なにも極端なリアリストって訳じゃありません。

物事に対して、多くの人は目の前にあるものだけを見て判断します。
それがどんな形であるとか、どんな色であるとか、自分の知り得る範囲の情報を基に判断を下す訳ですが、果たしてそれはどれだけ正確な判断なんでしょうか。

四角に見えるから四角、赤く見えるから赤だと判断する・・・それは極めてベーシックな見方ですが、その程度の事で結論付けてしまっては、物事の本質を知る事など出来ません。
ところが、世の中の多くの人達の捉え方というのはその程度で、本質どころか極めて表面的な部分だけを取り上げているにしか過ぎません。
それは、人間に感情というものがあり、その感情を軸にした生き方をしてる人が多いせいです。

例えば、パートナーが浮気をして不愉快な思いをすれば、相手を責めたくなるのが人情。
多くの人は「この浮気者!」だの「裏切り者!」だのと責め立てるか、浮気相手に対して怒りや憎しみの感情を向けるはずです。
勿論、それは人情として当然の事だし、筋の通ったものです。
ですが、そこで単純に「浮気をされた」という事象だけに捉われてしまうと、感情論のみでしか考えられなくなるものです。

どんな物事も一見しただけでは見えない側面が存在します。
円錐や球体が真上から見ただけでは円にしか見えない様に、物事は多角的かつ客観的な視点で見なければ、その実体を掴む事は不可能なんです。
「四角に見えるから四角、赤く見えるから赤」では決してありません。
四角に見える部分の裏側は曲線で構成されているかも知れないし、赤い面の裏側は緑色をしているかも知れない。
だとしたら、それは四角や赤だという結論にはなりませんよね。

浮気者だと責められたパートナーは、どうして浮気をしたんでしょうか。
ホントに浮気をしたんでしょうか。
最初からそのつもりだったのか、それとも成り行きだったのか。
「どっちにしたって浮気は浮気」という判断を下したがる人も少なくはないでしょうが、それは単に、過ぎてしまった出来事や、立場としての罪を責めたいだけに過ぎません。
きっかけや経緯、その背景にあるものを知る事で、それが何だったのか、どういった出来事だったのかという本質に近付く事が出来るんです。
感情論を出すのなら、それを知った後で充分。
むしろ、先に感情論を持ち出す方が本来は筋違いなんです。
気持ちは解りますけどね。


人は、他人がどういった人物だとしても、それを全否定は出来ません。
様々な価値観や個性があるからこそ、他人は他人である意味があるんです。

世の中には空想的な表現を好む人達が居ます。
例えば、誰かが亡くなったりペットなんかが亡くなると、「天国に」とか「星に」なんて詩的とも言える表現をよくしますね。
最近じゃ「千の風に」なんてのもありました・・・って、あれは歌だから詩的で当然ですが。

そういった表現は嫌味のあるものではないし、他人の価値観を侵害するものではないのでまだ良いとしても、表現がちょっと違えば随分と違った意味合いを持つ言葉にもなるんです。
最近も目にした事なんですが、「成仏出来ないから」だとか「天国へ行けないから」という様な表現を平気で使う人がわりと多いんです。
で、結論として「だからこうしなければダメ」という言い方をしてるんですね。
それってどうなんでしょうか。

あの世がうんぬん、魂がうんぬん、成仏出来ずにうんぬん・・・と、そんなものは単純に宗教観の問題であって、日本が仏教の国だからってこの時代に当たり前に使うべき言葉でしょうか。
ああしろこうしろと提案を示すのは良いとして、その理由に宗教観を持ち出すのは絶対的に間違ってますよね。

天国や地獄が本当にあるかどうかは知ったこっちゃないし、死んだ後がどういうもんなのか、果たして死んだ後で魂の様なもんがあるかどうかも定かじゃない。
自分がそういったものを信じてるからって「こうしなさい」「こうしてはダメ」って言うのは非常識もはなはだしい行為です。
怪しげな宗教団体が不安を煽って壷やらガラス玉を買わせてるのと大差ないですよね。
恐らく、そこまでの事を自分が言ってると自覚してる人はほとんど居ないでしょう。
そこが怖いんです。

他人だらけの世の中で常に他人を意識した言動を心掛けないのであれば、それはどれだけ頑張っても自己中心的な人物としか認知されません。
誰がそんな人の言葉に本気で耳を貸すでしょうか。
自分の意見を理解して欲しいなら、まずは他人という存在を尊重する事から始めるべきです。
そこからでなきゃ何も始まらない。


最近特に気になったのは、自分の価値観と合わない意見を知った時点で感情的になり、それを否定する事で自我を満たそうとする行為。
これもまた世の中では頻繁に見かけられる事です。

問題なのは、それが「嫌い」や「苦手」ではなく「否定」である事。
自分の主張が絶対的に正しいという前提で理屈をこねてるけども、非常に偏った考え方でしかない事を自覚してないんですね。
本人的には理責めのつもりなんでしょうが、傍から見ていると非常に粗が目立つ、穴だらけの理屈なんです。
そもそも自分のスタンスを変える気も無いし、自分の価値観に絶対的な自信を持っているんだろうけど、そこには根拠が見えないんですね。
本人的な根拠らしいものは見られるんですが、それは余りにも脆いもので、突っ込みを入れれば簡単に崩せてしまう程度のもの。
でも、そういう人は最初から他人の意見など受け入れる気はありませんから、突っ込みを入れたところでキレて被害者面をするパターンがほとんどです。
要するに、向上心というものが欠如してるんでしょう。
自分の事を買い被る余り、自分自身の成長を妨げている訳です。

自分の主張のみを続ける事、受け入れ難い意見をことごとく否定し続ける事、それが結果的にどういった流れを生むか、どういった影響を与えるかを全く想定出来ないのであれば、その人物は「社会的に害を成す存在」となってしまいます。
その人が本当に伝えたいものを持っているのだとすれば、そんな結果は本末転倒の極みでしかないですよね。

公共の場で意見を述べるのであれば、それに対する反発や誤解されるリスクを最初から想定していなければいけない。
他人の意見を冷静に受け止めなければいけない。
中には話にならない意見をぶつけて来る人も居るんで、そこで煽られずにバッサリと切り捨てる事も必要。
それが出来ないのであれば、最初から自分の意見は自分だけの場で述べるに止めるべきなんです。


大抵の物事には理論があり、筋道があります。
そこから逸れる事は必ずしも間違いではないにしろ、やはり本筋は本筋なんです。
根っこの無い大木は、立派に見えても簡単に倒れてしまう。
立派でなくても、ちゃんと根の張った価値観や意見を持つ事が重要なんです。

自分では当たり前にしている物事の捉え方、そこに柔軟性はあるでしょうか。
ガチガチに凝り固まって、何者も受け付けない状態になっていないでしょうか。
多角的に、客観的に、冷静に見つめる事が出来ているでしょうか。
とにかくは感情論を優先にしていないでしょうか。

どう生きるのも人生ですが、どう生きるかによって「傍から見た自分」は大きく変わります。
それによって人生もまた変化するもんです。
どんな自分として存在していたいのか、どんな自分として生きて死んで行きたいのか、たまには真面目に考えてみるのも良いんじゃないでしょうか。