寂れた…では無く意図的に人が排除され、其の主の意向を持って静謐へと沈められた街の片隅。
其の地の中心に在る店の中で、一つの卓を囲んで皆が集まって居た。
其の卓の上には一枚の大きなボード。ボード上にはレールを敷くようにマス目が並び、ボード中心部にはルーレットが置かれている。其れは一見する限り、1960年に米国はミルトン・ブラドレー社より発売され、日本に於いてタカラより発売された後数々のバリエーションが制作され、今や時代に合わせて携帯ゲームにすらなっていると云うボードゲームの定番、人生ゲームに見えなくもない。
「私が作ったリアル人生ゲームよ」
店のマスターである彼女がそう云った。
「『リアル』人生ゲームか…」
彼女の隣に座って居る、いや正確に言えば、彼女の隣の席に位置する辺りで机の上に立って居る鳩、グルっぽ君が諦観の入った声で呟いた。
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「リアル、ね」
オレも呟いた。呟かずにはいられない。ボードから何と無く危険な気配がするのは、気のせいではないだろう。鴉君や雀君は最早、呟く事すら無く静かにボードを見守っている。
「何故今更人生ゲーム?」
何と無く答えは分かっては居るが訊いてみる。
「思い付きよ」
「だよね!」
人は理由が無い事に耐えかねて、色々な事に理由を付ける。しかし、彼女に其れは必要無く、理由も無く始め、理由も無く終わらせる。正確に心理を分析でもすれば理由は在るのだろう、理由が無い事に耐えられない人はそうする。しかし、彼女はその様な事に頓着せず、放置したままに始める。理由など些末事、在るが儘に…と云うが彼女だ。
「まあ始めてみるか」
本能に従って生きる鴉君が開幕の合図を発した。
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「ほらよ」
鴉君がゲームの駒をオレに投げて寄越した。
「自分で開幕宣言しておいて、オレに寄越すのかよ!」
本能的に生きる割に狡賢いよ。いや本能的に生きるからこそなのか。まあいい、待っていても終わりは来ない。始めるか。仕方なくルーレットを回す。
「八か、悪くない」
駒を八マス分進める。其のマスに書いてあったのは。
「ペンシルベニア州で仕事が見つかる。アパラチア炭田で一週間の仕事?」
やけに具体的だな。
「おめでとう。此の不景気に職を手に出来るなんて素晴らしいわね。いってらっしゃい、もう手配は済んでいるわ」
そう云う彼女に飛行機のチケットと地図、紹介状を渡された。
「えっ、本当に働いてくるの?」
「『リアル』人生ゲームと云ったでしょう」
「リアル過ぎる!リアルにゲームで人生変わっちゃうよ!」
と反論してみたものの、面白そうだな。此の程度で本気で動揺する程度の人間であれば、彼女の招集には集まらない。此処に居るのはオレも含めてそう云う連中ばかりだった。
「一山中ててくるよ」
そう云ってオレは店を後にした。

所変わってペンシルベニア州はピッツバーグ。
彼女に貰った紹介状はきちんと役目を果たし、炭鉱での仕事を紹介された。
「思ったより人少ないなあ」
石炭の需要が減少していることに加え機械の導入により労働者は減らされているのだ。
「これ給料出るのかなあ」

給料は貰えた。ただし、彼女の代理としての仕事の方がずっと割が良い。
「さあ帰るか」
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「おかえり」
彼女が迎える店に戻って来ると、再び招集された連中が卓を囲んだ。ボードの状態はオレが働きに出る前の状態で保存されていた。オレが働きに出ている間ゲームを進める事も無く、きちんと待っていたのだ。何て莫迦なんだ。いやいや、なんて莫迦な事を真面目にやる連中なんだろう。一週間働かされて来たと云うのに不覚にも感動した。
「さあ再開するか」
またもや鴉君が開幕宣言をした。
「ほらよ」
鴉君が彼女に向かって駒を投げて寄越した。
此奴は……。
彼女は文句も言わずに ─自分で始めたのだから云う筈もないか─ ルーレットを回す。…ルーレットが指示した数字は一だった。
「会社の株価が下がる、か」
彼女はスマートフォン(似合わねえ!)を取出し、株価のチェックをし始めた。
「かなり下がったわね」
「ええっ、株価まで動くの!?この人生ゲーム、ハードすぎる。人生がまるでゲームの様だ。っていうか株価下がった会社に迷惑すぎる!」
「下がったのは私達が属して居る此の会社だけよ。流石に他の会社まで巻き込む訳にはいかないでしょう。株主は怒るかもしれないけれど、株主とは云っても…」
無茶苦茶なゲームを作った彼女が割と常識的な事を口にした。
「ここ株式会社だったのかよっ。取締役会とか在ったりするの!?」
「そうね。とは云っても取締役会設置会社では無く、委員会等設置会社だけれど」
「なん、…だと」
委員会等設置会社となると、この会社が2006年以前からの会社かなのか、その後出来た会社なのかで意味が異なってくる。2006年以前の会社法では委員会等設置会社が認められたのは大会社だけなのだ。ここが2006年以前から存在するとなると結構大きな規模と云う事になる。2006年以降であれば規模を問わず委員会等設置会社と成れるが、其れはつまりここは思ったよりここは若い会社と云う事だ。いやいや、2006年以前から在ったけれど2006年以降に定款を変更して組織形態を変えたと云う可能性も。
「指名委員会が何も云って来ないと良いんだけれど」
「その前に監査委員会が怒鳴り込んで来るよ」
と突っ込んでみたものの、何か聞き捨てならない事を聞いた気がする。指名委員会が行うのは、取締役の選任・解任の議案決定。其れを彼女が気にすると云う事は取締役会に名を連ねると云う事だ。委員会等設置会社で過半数が社外取締役を占める中での、数少ない社内からの取締役なのか。いや社外取締役と云う可能性も、だとするとこの店は一体。オレは彼女の代理としてこの店に立つ事が有るが、一体何処に属して居るというんだ。執行役と云う可能性も有るか?面白そうだからと云う碌でも無い理由で、設定を後付されたかのような突然の事実に悩んでいると、店の入り口の扉がドンドンと激しく打ち鳴らされる。開いて居るんだから普通に扉開けて入って来いよ。彼女が席を立ち入口へと向かった。扉を開けると結界のセンスが悪い女が仁王立ちをしていた。
$Silent days, Strange days.-Dies irae ルサルカ 痛車 1号

「急に株価が下がったぞ。何やってる」
「監査委員だったのかよ!」
時々珈琲を飲みに来てたのは執行役か取締役かの彼女の様子を見に来てたのか、油断ならない女だ。普通に珈琲飲んでくつろいで居る様にしか見えなかったが。結界の事件の際には自分で可笑しな結界を作り上げて遊んでさえいるように見えたが、オレの仕事振りを見ていたというのか。
「まあまあ、遊んで行けよ」
鴉君がゲームの駒を結界のセンスが悪い女に投げる。仲裁しようというのか、マイペースなだけなのか。
「仕方がないな」
女は駒を持って席に着く。この女も大概だな。
「よっと」
掛け声とともに女がルーレットを回す。数字は四だ。
「一、二、三、四。マスの内容は、…監査委員会に招集が掛かる?」
云い終えると同時に女の電話が鳴る。……このルーレット何か仕込まれていないだろうな。
「グルっぽ、行くよ」
電話が終わるとグルっぽを連れて女が店を出て行った。
「グルっぽ君、お前もかっ!」
グルっぽ君まで監査委員だというのか。監査委員でありながら、彼女の自由を許して来たと云うのか。
「グルっぽが戻るまでは、ゲームは休止ね」
彼女はそう云うと珈琲の準備を始めた。
このゲーム終わるまでどの位時間が掛かるのだろう。リアル人生ゲームなだけに、ゲームの終わりが人生の終わりとならないことを祈ろう。いやボードゲームの終わりは『上がり』とも云うから、成り上がれるのか。何方にせよ其の過程が過酷なものである事に変わりは無さそうだ。
$Silent days, Strange days.-Dies irae ルサルカ 痛車 1号
closed
入口の扉内側に掛けられた札を返し、其の文字が表から見える様に掛け直す。定休日では無いけれど、開けていた処で滅多に客が来る事は無い。来る可能性の有る客はと云えば、此の前の結界消滅と云う例外が無ければ、私を知った上での来店だ。気を使う様な相手では無い。
今回の旅は疲れた。予想外に長引き、結界消滅と云う失態を見せてしまった。幾人かには此の話題で暫く弄られるだろうか。奇怪な結界を張る彼女の事だ、今回の様な事態については嬉々として話を広めてくれるだろう。今から考えても詮無い事だ。今日は此の休日を有益に使う事を考えよう。
目的も無く人の居ない通りを暫く歩き、座るのに丁度良さそうな階段を見つけ腰を下ろす。店の入口へ続く階段だけれど此処は人の居ない通り、誰が迷惑すると云う訳でも無いだろう。階段脇には木が植えてある。暖かい季節には葉が生い茂り木陰を作り、涼しさをもたらすであろう木々は今は葉を落とし日の光を直接届けてくる。寒空の下では有り難い陽光も、暖かさを体感するには聊か今の光では力不足だ。空には薄く灰色が引かれ高空からの光を減衰させている。
寒いからと云って室内に籠ってばかり居ると云うのは詰まらない話だ。外で暖を取る方法は無いだろうかと少し考え辺りを見回す。木々の陰に隠れるようにして置いてある人の背丈より少し高めの箱。目的の物はあの中だろう。近付いて扉に手を掛け軽く引く、僅かな引っ掛かりを覚えるものの構わず引いた。何かが折れる様な音と共に扉が開く。中には予想通りに箒が入っていた。
階段前に落ち葉等を掻き集める。其の間近に咒を描き火を起こした。焚火だ。
「最近は条例や管理規則等に因って焚火をし辛くなって来ている。しかし、此の空間に於いては其の事を憂慮する必要も無いか」
そう云って現れたのは鳩面をした鳩、つまりは鳩だった。グルッぽだ。いらっしゃいと一言、手を伸ばす。手の上に乗ったグルッぽを焚火の方へ頭を向け膝の上に乗せた。
「店を休みにしたと思ったらこんな寒空の下でわざわざ焚火までして、寒ければ屋内に居れば良いだろう」
空を見て過ごしたかったのよ
「この曇りの日に…か」
見上げる空が晴天でなければならないなんて、誰が決めたの?
「それもそうか」
そう答えてグルッぽも空を見上げた。
見上げる空が青天白日の空であったなら、気分を上向かせてくれるだろう。しかし今日の様に静かに過ごしたい時には眩しさを感じさせない曇り空が丁度良い。
暫く一人と一羽で空を見上げていた。
………
…………
薄い灰色だった空は、次第に其の色を濃くしていった。
「大分暗くなってきたな」
そうね。
厚くなってきた雲は大きく陽光を減衰させ空を一層暗くしている。
雲を少し減らしましょうか。
「雲を減らすだと…、一体どうやって」
問うグルッぽには答えず、掌に小さい光球を生み出し上空へと放つ。其れは曇天の下、暫く眩しい光を放った後消滅した。
$Silent days, Strange days.-Dies irae ルサルカ バイナル

「何も起こらないぞ」
暫く待てば来るでしょう
グルッぽと私は静かに曇天を眺めていた。
一分もしない内に轟くような音が聞こえてきた。
「雀か」
遷音速で飛行する雀の彼が近づいてくる。其の姿を視認出来る位置まで来ると上昇し雲へと突入する。
雲間から彼の残す光る航跡が見える。雲を抜け上昇しつつ左へ旋回。九十度の方向転換をして下降。再び九十度の方向転換をして今度は上昇しつつ右旋回。光る航跡で文様が組み上げられる。
「あれは鮫のリ・マー…」
グルッぽが呟き終える前に上空が一瞬眩しく輝く。雲を成していた空気の層は下へと押し遣られ圧縮・加熱される。過飽和に在った空気は所々飽和へと遷移し雲を減らし、暗い曇天を少しだけ明るくした。
一仕事終えた雀の彼は私達の前へと下降してくる。私は彼を肩の上へ招き、労いの言葉を掛けた。
御苦労様。丁度良い明るさになったわ。
彼は軽く一鳴きして答えた。
「神をも恐れぬ所業だな。バベルの塔を作ろうとした人類を罰した神の気持ちを理解出来そうだよ」
人がより高みへ至ろうと真摯に努力していると云うのに、随分と度量が小さいのね、神と云うのは。育てた自分を追い越そうとする程に成長する弟子を見て焦る師の気持ち、かしら。
「観測対象の実験動物に軽んじた態度を取られ、怒る観測者の気持ち、かもしれないぞ」
そうかもしれないわね。
そう答えて一人と二羽で少し明るくなった灰色の空を眺め続けた。

「周りが良く見えない」
日は傾き、曇り空によって同時刻の何時もの夕空よりずっと暗くなっている。
グルッぽは鳥目だったわね。そろそろ帰りましょうか。
膝上に乗せていたグルッぽを地面に降ろし、肩の上の雀の彼はそのままに立ち上がり、焚火を消化する。そして店へ帰るべく足を踏み出し足音を響かせると、
「待て。周りが見えないと云ったばかりだろう」
そう云うグルッぽが後ろで立ち止まっていた。
そうだったわね。
そう答えて体の向きを変え、両手でグルッぽを持ち上げ胸元に抱いた。数瞬前に云われたばかりであるのにすっかり忘れていた。
「君は冷静で隙が無い様に見えて、実際には抜けている処が在るな」
私は其の言葉は聞こえなかった振りをして、改めて足を踏み出した。

それではまた。
耳を澄ませば微かに聞こえる街の喧騒。一時は辺りを賑わせた人々の話し声、足音は今はもう聞こえない。かつての喧騒の残滓を求めて窓の外を見遣れば其処には、手を使わず倒立する禿頭、上半身を曝け出しブリッジするモヒカン、サイドアップしかし頭頂はバーコードでボックスステップを繰り返す男、一体何故と選定基準を問いたくなる様な式神が配置され、まるで狂気の展覧会と云った様相が展開されている。勿論、今は此処に居ない『彼女』が作ったのものでは無い。この一帯の静謐を作り上げていた彼女の人払いの結界が消滅したため、かつての静謐を取り戻せと妙に張り切った客として来ていた女が作ったものだった。世には重要なのは結果であり手段は重要でないとする意見もあるが、私は手段を選ぶ事はとても大切な事なのだと今回学んだ。
$Silent days, Strange days.-魔法少女まどか☆マギカ 痛車

「いやあ、君の御蔭ですっかり店内も静かになって助かるよ」
只一つの特異点、黒い瞳を除いて頭からつま先まで真っ白な格好の胡散臭い男が満足気に云う。
「そうだね。また落ち着いてゆっくり過ごせる」
塩珈琲を入れたカップを手に現在の結界を作り上げた女が答える。
二人は外の地獄絵図は気にならないのだろうか。気にならないのだろう。寧ろ此の状況を愉しんでさえいる。私が気にし過ぎなのだろうか。まあ、外さえ見なければ何時も通りの店内だ、そう思い店内に静寂に耳を傾ける。………何時も通りでは無かった。店内にはBGMとしてPE'ZのGREEN DOLLSが流れている。女のリクエストだった。落ち着きを求める人にとっては若干明るめの曲であるものの、白い男の趣味でHybridのFinished Symphonyを流していた時よりはましであろう。エレクトロニックを流す喫茶店など聞いた事が無い。
「それにしても、彼女は一体何処に……」
白い男が途中で言葉を止めた。
「一体どうした」
そう云って私は白い男の視線を追う。男の視線は窓の外を見ている。外は静謐を取り戻した街並み。しかし、其の静謐を維持して居る筈の式神の姿が消えていた。
「私の傑作品が……」
気付けば女も外を見遣り、可笑しな事を呟いていた。あれが傑作だと………。
消滅した彼女の結界。失われた静謐。女が描いた式神達に依る地獄絵図、再構成された静謐。そして、消滅した式神。しかし、未だ静謐は続いている。人も式神も消え、其処では時が止まっているのだと云われれば信じてしまいそうな程の、完全なる静謐が訪れていた。
突然の不可思議に戸惑い、時が止まったかのように静かになる外と内。其処に幽かに入口の扉を開ける音が聞こえ、時は流れを取り戻す。静けさを破って店内へと足を踏み入れたのは、パインアップルに蒼い海、青い空、カラフルな色彩でトロピカルなモチーフを纏め上げた半袖のアロハシャツに、デニム生地のホットパンツ、長髪の頭につば広の麦藁帽子乗せサングラスを掛けた女が立って居た。
「寒いわね」
静かに一言女が呟いた。当然である。今は冬だ。此の時節にする様な恰好では無い。それにしても、着ている物はどれも明るさを演出する物なのに、其れでも尚冷気を纏うような静けさを纏うこの女には驚く程似合っていない。此の店のマスター、彼女が可笑しな恰好をして帰って来た。
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「結界が消えていた様ね。代わりに結界を張ってくれた事に感謝するわ、有難う。ただ余りにもセンスが悪いものだったから見かけて直ぐに消してしまったけれど」
何時もの服に着替えた彼女が礼を云いつつ、辛辣な一言を放った。
「……ええっと」
当の結界を張った女は礼とセンスが悪いと云われた事の何方に反応したものかと、僅かに迷った末に曖昧な返事を返した。
「戯曲さん、如何して結界が消えたの?」
白い男が此の場に居た皆が気になっていた事を訊いた。センスが悪いと云われた結界を張った女は術者が死んだ説を推していたが。どうでも良い話だが白い男は此の処彼女の事を呼ぶ時、会う度に違う名で呼んでいたが此の処戯曲さんと呼ぶ事が多い。飽きたのだろうか。それとも彼女の偽名のストックが切れたのだろうか。本当にどうでも良い事だが。
「そうね。恐らく電池が切れたのでしょう。そろそろ取り替えようと思っていた頃だったから」
…電池?、結界を張るのに電池。此処は科学と魔術の交差する処だったのだろうか。エレクトロマスターが超電磁砲(レールガン)を放ったり、インなんとかと云う少女が十万三千冊の魔道書を記憶して居たりするのだろうか。そんな事を考えていると彼女が何処からか手のひらサイズの小さな黒い箱持って来てカウンターに置いた。箱の上面には『電池を交換して下さい』と赤い文字が明滅している。彼女が蓋を開けると単四形のショコラ色とカフェモカ色の電池二本が入っている様子が見えた。電池側面には金のメタリックカラーでeneloopと書かれている。累計出荷数二億個達成記念で発売された限定色モデルだった。何故限定色を持っているのだろう。eneloopを愛用しているのだろうか。彼女が電池を入れ替える。グリーンティー色とオレンジピール色、此れもまた限定色だった。まだストックが在るのだろう。電池交換を終え蓋をすると、赤い文様が箱の上を走る様に浮かび上がり間もなく消えた。
「此れで暫くは大丈夫でしょう」
電池により維持される結界…。
「電池ってありなの?」
結界のセンスが悪い女が尋ねる。当然の疑問だろう。
「電気もまたエネルギーである事には変わりないでしょう。エネルギー形態の変換は珍しいものでは無いわ。熱エネルギー、磁気エネルギー、運動エネルギーからの電気的エネルギーへの変換と云う発電。或いは…」
そう云って彼女はカウンターから箱を持ち上げカウンターから50㎝程上げた処で手を放した。箱は重力に従って落ちる。小さい外見とは裏腹に重そうな音を響かせ着地する。
「位置エネルギーから運動エネルギーへの変換。エネルギーの形態を変換し利用する事は日常的に行われている」
と説明した。まあエネルギー変換については受け入れるとしても、単四形二本で此の辺り一帯から人を一掃する程の結界を維持するとは、驚くべきエネルギー効率だ。彼女がその気になれば大抵のエネルギー問題は解決するに違いない。その気になればの話だが。
「店を開けて電池交換の時期を逃して、結界を切らせてしまうとは戯曲さんらしくも無い。何処で何やってたの?」
普段は彼女の行動を気には掛けない白い男であるが、男の言葉通り結界を切らせてしまうと云う彼女らしくない事態を招いたことに、流石に気になったようだ。
「ハワイへ観光に。御土産も買ってきたのよ」
そう云って彼女が取りだしたのは、頭と胴の境が無く寸胴で、全体的に赤い色合いをしており、女性の顔が描かれた、マトリョーシカらしき人形だった。──マトリョーシカ人形。ロシアの木製の人形であり、胴の部分を境に上下に分割出来る。中には少し小さい同様の人形が入っており入れ子構造になっていて、人形を開けるとまた人形が現れる。大抵六重構造になっていて、人形は何処まで行っても人形だと云う、言い換えれば蛙の子は蛙だと云う不条理をオブラートに包む事無く抜き身で突き付けてくる、容赦の無い人形である。──
「ハワイねえ…」
女が明らかに嘘だろうと云う思いの籠った言葉を吐きつつ、人形の上半身を持ち上げる。予想通りに中から少し小さい同じ姿をした人形が現れた。
「これがハワイ……」
そう云いつつ少し小さくなった人形の上半身を持ち上げる。今度は黄色い色彩になった。しかし全体としてやはり先程と同じ人形である。
「ハワイと云うのは随分寒そうなところだね」
女が明らかにお前ロシアに云ってただろと云う念を込めて云いつつ、更に小さくなった人形の上半身を持ち上げる。中から出てきたのはやはり人形であったが、今までの物と随分趣が違った。金髪で星形と云う、右へ倣えと云う日本に於いて多勢を占める考えに反旗を翻すかの様なロックでファンキーな髪形をしており、青い生地に格子模様のワンピースと云うそれでも矢張り少しは多勢に譲歩しておこうと云う無難なファッションに身を包んだ、『NO!』と云いたいけれど躊躇ってしまう様な中庸な日本人の姿を見事に表現した少女の人形、まるで東京スカイツリーのマスコット『ソラカラちゃん』の様だった。良く見るとファンキーでボリュームのある髪の部分に横断する様に線が入っている。まさか更に分割出来ると云うのだろうか。
「ソラカラちゃん、ごめんよ」
女も其の線に気付いた様で、何故か人形に謝りつつ頭の部分を持ち上げる。セント・ポール大聖堂のミニチュアが現れた。──セント・ポール大聖堂。ロンドンに建てられたイギリス国教会の大聖堂であり、宗教と芸術が一体となり荘厳さを感じさせるバロック様式の見事な建築物である。彫刻・絵画等と一体となり総合芸術と化したバロック建築は、其の建築の裏に優秀な多くの建築家と共に多くの芸術家の関わりをも想起させ、宗教の絶対的権威と莫大な資本を否応無く感じさせる。── ミニチュアであってもバロック特有の荘厳さが失われていない、素晴らしい造りだった。
「もう何が何だか…」
全く同感である。最早ロシアと云う線も怪しいものだ。もしかすると、ハワイ・ロシア・東京・イギリスの全てに行ったのかもしれないが、その何れにも行っていないと云う可能性すら有り得る様な気がしてくる。目的は勿論観光では無いだろう。一週間弱の期間にこれら全ての場所を周ると云うスケジュールは観光としては無理がある。周って居ないのだとしたらやはり此の場合観光と云うのは嘘になるだろう。
「負けたよ…、マスター」
一体何に負けたのか知らないが、女は両手を上げつつ降参宣言をした。私も自分の事ながら、何に負けたのか見当も付かないが降参したい気分になっていた。
「そんなにも気になると云うのなら、気が向いた時にでも旅の話をしましょうか」
彼女は女や私の反応に満足したのか微笑みながらそう云った。しかし、彼女に限らず『いつか』とか『気が向いたら』と云うのは大抵の場合に於いてやらないと同義である。今回の彼女の物語が語られる事は無いだろう。だが、彼女が何処で何をしていたのか、最早気にならなくなっていた。何時も通りの彼女が今、此処に居るのだから。
$Silent days, Strange days.-魔法少女まどか☆マギカ 痛車