wabicya(「侘茶人」、「洗其耳」)のブログ

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極侘数寄を目指しています。

侘数寄は心強く大胆にあらねば、道具万ず不如意なる程に、世に有る人と交われば、心劣りせられて肩身つまりて、自ずから茶湯にうとむもの也といいて、ただ胸の覚悟第一ならん(長闇堂記)

茶の湯は、客といふものなし。却って客は茶のわづらひと、古人も申され候、さればとて、ひとりたのしめ とにはあらず。(杉木普斎)

禅茶の器物というものは美器珍器をはじめ世に名物などと言われるものではない。またこれらを高価に買って喜んでいるなどもっての外。器物の善悪を論ずべからず。(禅茶録:寂庵)

「一座建立」はどこへ消えたのか ― 大寄せ茶会の商業化と、茶の湯の原点 ―

 -- (公の施設で公の補助・助成を受ける茶道団体が行う低料金の大寄せ茶会はこの記事の対象外です。念のため)--


茶の湯の本質は、亭主と客とが火を囲み、一碗の茶を通じて心を交わす「一座建立」にあります。しかし、現代の茶の湯の風景、とりわけ「大寄せ茶会」の現状を眺めるとき、そこにかつての面影を見出すのは容易ではありません。

効率と商業主義が奪った「間」
明治以降、女子教育の一環として茶の湯が広まり、愛好家が急増しました。それに伴い、短時間で数百人の客を捌く「大寄せ」の形式が定着したのは、時代の要請でもありました。しかし、その結果として生まれたのは、皮肉にも茶の湯の精神性とは対極にある「回転率」の追求です。

多くの現代の茶会において、記事やSNSで語られるのは「いかに集客し、いかに黒字を出すか」という経営論です。

当日の裏方や世話をする茶道具商らが今日は何人来た、、と話したりして、茶会が興行や商売と化し、亭主は高価な道具を並べて優越感に浸り、客はカタログを眺めるように道具を「賞翫」する。そこには、表千家の重鎮、堀内宗心宗匠や山下惠光宗匠が警鐘を鳴らした「茶事」の温もりは存在しません。

空文化する「一座建立」
本来、茶の湯は「主客の素性」が通じ合ってこそ成立するものです。どこの誰ともわからぬ見知らぬ他者と、流れ作業のように茶を回し飲む。そこに魂の交流を求めるのは、もはや空論と言わざるを得ません。

象徴的なのは、作法の形骸化です。
亭主が水指の蓋を閉め、その座が終わりに近づいても、正客から「おしまい」を乞う挨拶もなければ、道具の拝見を乞う声もかからない。ただ時間が来たから退出する。これはもはや「茶の儀式」ではなく、単なる「イベントの消化」です。

「手料理の茶事」への回帰
表千家の重鎮たちが、「(大寄せよりも--(行間を読むと)、自宅で手料理の茶事をしなさい」と説かれた真意はどこにあるのでしょうか。

それは、茶の湯を「見せるための芸事」から、「生きるための道」へと取り戻すための願いに他なりません。炭を継ぎ、湯を沸かし、拙くとも自ら包丁を握って客をもてなす。その数時間に及ぶ静謐な時間の中にこそ、大寄せの百回にも勝る真実が宿っています。

大寄せ茶会を否定するわけではありません。しかし、それが「茶の湯のすべて」であるかのような風潮には、常に各々が頭の中でこれが本来の茶の湯ではないということを念じていることが必要でしょう

 

ネットを俯瞰すると、茶道人口の減少とともに、”大寄せ茶会の衰退”、”どうしたら客が呼べるか”、、などと本末転倒な記事に仰天する今日この頃です。

効率を捨て、名を捨て、ただ一人の客のために一碗を点てる。私たちが今、BLOGやSNSを通じて発信すべきは、”効率的な茶会の運営術ではなく”、失われつつある「一対一の誠実な交わり」の尊さではないでしょうか。

商業化の荒波の中で、茶の湯の背骨を守るために。今一度、私たちは”自らの茶が「商い」になっていないか”、問い直す時期に来ています。