胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は小さなトピックについて色々言及するいつもの奴をやっていくことにする。

 

この前、このようなメッセージが来ていた。

 

 

ちょっとアメリカ語とか良く分からないけれど、どうやらアルゼンチンの方が、

「ヘイZiro!英語で失礼ごめんだけど『なるたる』の情報ありがとう (^-^)ノ~~ 」

という内容を送ってきた様子がある。

 

僕はこれを読んで、以下のよう返した。

 

「 ご丁寧にどうもありがとうございます。
日本語で書いた漫画の解説に対して送られたメッセージですから、僕の稚拙な英語力で英文で書くよりも日本語で返したほうが良いと思い、日本語で返事をします。
度々そのように返しているのですが、諸々の事は結局鬼頭先生がやったことなので、感謝は出来れば鬼頭先生に向かってして頂ければ幸いです。
そもそも、僕は誰かを喜ばせる為に書いているとかはなく、自分で読み返す為に書いていて、僕が勝手に書いて勝手に公開しているだけで、勝手に読む分は勝手に読めば良いと思っています。
ですが、僕が書いた何かが役に立ったというのなら、それは良かったと思います。
そんな感じです。
よろしくお願いします。 」

 

地球の裏側からメッセージが届いたわけだけれども、結局、鬼頭先生がやったことをなぞっているだけに過ぎないのだから、多分、その情動は鬼頭先生に帰属するものだろうので、そういうことは鬼頭先生に言ってくれと思ってこのように僕は返した。

 

ただ…返した後に、鬼頭先生のXのアカウントに英語で質問をしているアカウントを以前見ていて、その人は鬼頭先生の作品の翻訳云々という話をしていたことを思い出して、僕は鬼頭先生に言ってくれと言ったけれども、そもそも鬼頭先生には既に言っていた様子がある。

 

…。

 

アルゼンチンの人とか、僕が時たま使うスラングとか理解出来ているんですかね…?

 

それにしても、アルゼンチン人にも読まれているのか…(困惑)となって、喜怒哀楽のどの感情にカテゴライズすれば良いか分からない情動を抱くことになった。

 

まぁ色んな人が読んでいることは把握していて、この前大学教授が僕の『キングダム』の解説を読んだらしいという話はしたし、Vtuberの月ノ美兎さんも読んだらしいし、いくらかの漫画家の方も読んでいるということを把握している、

 

『遥かなるマナーバトル』という漫画を描いている、たむらゲン先生は僕の『なるたる』の画像投稿用アカウントをフォローしていて、僕が書いた何かを読んでいるということが分かっている。

 

他には『ケントゥリア』の暗森透先生も目を通しているらしい。

 

なんか、その画像投稿用のアカウントが暗森透先生にフォローされたという経験がある。

 

まぁ数日くらいでフォロー解除されたけれども。

 

それは『ケントゥリア』の連載開始の随分前の話で、『ケントゥリア』が連載された当初に、その著者の名前を見たことがあって、そういうやこの人に一時的にフォローされたことあるなということを思い出したという経緯になる。

 

だから、暗森透先生は『なるたる』を読んでいる様子があって、僕は『ケントゥリア』の最初の3話くらいまでは読んだけれども、読んだ上であんまり『なるたる』要素は見いだせなかった。

 

けれどもその一方で『ヴィンランド・サガ』要素は見て取れて、まぁ読んだ漫画の要素が全部自身の作品に反映されるわけではないよなと思った記憶がある。

 

もっとも、『ケントゥリア』には『なるたる』っぽいキーワードが登場するらしくて、おそらくそれは普通に『なるたる』由来であると判断して良いと思う。

 

他には『きみが死ぬまで恋をしたい』の、あおのなち先生も、もしかしたら読んでいるかもしれなくて、作中に「ん?」と思うような言葉が存在していた。

 

絶対あおのなち先生は『なるたる』を読んでいて、主人公の名前はシイナだし、少女がバラバラになった状態で袋詰めで帰ってくるという描写があるのだから、『なるたる』が相当好きらしい。

 

それに加えて鬼頭先生もおそらく読んでいるわけで、まぁ色んな人が読んでいるのだから、アルゼンチンの方が読むこともあるのだろうと僕は思った。

 

他には既にそのサイトはなくなってしまったけれども、まいじつ辺りのサイトでライターが僕が書いた漫画の解説を出典も示さずにそのまま内容を剽窃していた過去もある

 

色んな所からアクセスがあるのはそうのようで、中国の方が僕が書いた何かを出典も示さずそのまま自身のサイトにその情報を流用して剽窃していることも知っているし、韓国の方が僕が書いた何かを読んで、そのことをXでなんか言及しているのを見たことはある。

 

 

Xくんの翻訳機能に頼んだところ、僕が書いたバルシネの解説について、はぇ^~と思ったという話らしい。

 

こういう風に外国の方が僕が書いたものを読むということはあるらしい様子があって、今月に入ってもそういう話があった。

 

数年前に書いた記事にこのようなコメントが来ていた。

 

最近哲学に触れた

一年近くあれこれ独学してますが、まさに文章の言う通り、哲学は権威。言語ゲームで本質がない。だけどそれが経験と繋がるとき説得力が持つようになりますので、全部が嫌いなわけじゃないです。多少役に立てる、面白い言説もあります。(まったくアホらしいのも)」

 

僕はこのコメントに以下のように返した。

 

「ziro-irisa
>最近哲学に触れたさん
コメントありがとうございます。
2016年の記事ですので何を書いたかとかはよく覚えていませんが、2025年の今でも哲学はくだらないと思っています。
面白いかは個人の感性の問題だと思っていて、ただ役に立つか立たないかに関しては、後に書いた「メノン其れ我にそのアレテーを告げよ」の記事に如何に哲学がアレかの話があるので、参考になるかもしれません。
ちなみに、僕の場合は哲学を齧ったとかそういう話ではなく、サルトルとか実存主義で卒論を書いてたりするので、普通に大学で哲学勉強して、英語で文献講読とかした上での判断ではあります。」

 

2016年に書いた記事とか、今さら読み直す胆力とかはないけれども、未だに哲学のことを劣った学問だと思っているのは変わらない。

 

その話については大学レベルで哲学を学んだ結果として出てきた判断になって、僕はそれなりの大学の哲学科出身なのであって、普通に大学卒業レベルの哲学の知識はもっている。

 

僕は「メノン其れ我にそのアレテーを告げよ」が参考になるかもという話をしていて、この記事は哲学だと本質や真理を追究する場合がある学問だけれども、その本質という概念自体が人類にとって本質的ではないという話をしているから、この記事が参考になるかもと思ってそういうことを言った。(参考:メノン其れ我にそのアレテーを告げよ)

 

ただ、考えてみれば哲学をクソ真面目にやってないと哲学が本質を求める学問だという話自体が共通の了解になりえないわけで、そもそも一般語の哲学という語と学問としての哲学という語は意味内容が違っていて、後者の哲学の話は普通の場合は知らない。

 

哲学を学んでいない人が「哲学的だ」と思って抱く事柄と、学問としての哲学はまるで内容が違う。

 

まぁともかく、そのように返事をしたところ、以下のような反応があった。

 

最近哲学に触れた

リプライで来ました。卒論まで書いて、道理で哲学の内情に詳しいわけですね。素人の感想で粗雑ですみません。実は台湾人で、大学で日本語と英語の語学していました。なのでそもそも氏の文章を中華の感性で「誤読」しているかもしれません


私は長年仏教を学んで修行しており、最近の哲学の論文や言説で、意識の働きについてあれこれ論じているのを見て、仏教の用語を分解してわかりづらくし、哲学のフォーマットに沿ってるだけだよなこれ、との感想でした、(しかも誤りもあり)ピカソがアフリカのお面をアートに取り入れるのと大差ありません。


西洋の概念に触れる経験値が増えるたびに(例えばマルクス主義など)、彼らはなぜ明確に言語を定義したがる、なぜイエスと神と、ギリシア伝統の哲学とが尊ばれるのが何となくわかるようになりました。哲学での神は単なる神ではないようだ(そんなに詳しくないので、直感でつかめています)本質を求め、明文化し、改良しようとする、この文章で言った「善きものを獲得する能力」とのことでしょう。根本的に、文化的に捉え方が違います


中華では、ソ連系の写実主義デッサンを尊びます、自分はそれをつまらないと思います。フランスのほうが面白く、アートというな概念の下で、いろんな感性が継承されます。そういうミームだから、ニーチェのように詩情と哲学を結合させようと、ドゥルーズのように形而上学をデッサンしようと、いろんな遊び方もできるようになるけど、それらもあくまでもブログ主の言うように、西洋人の規範でしかないのかもしれません


神が死んだ!という、キリスト文化圏の感性による鳴き声


とブログ主の文章を独断で理解しています。哲学はなかなか面白いのでこれからも独自で楽しんでいきます。誰かに概念を伝えるときに、哲学の教養が有用と思いますので」

 

僕はこれを読んで台湾の方が僕が書いた何かを読むことがあるんだと思う一方で、それよりも、「神が死んだ!という、キリスト文化圏の感性による鳴き声」という言及を見て、西洋人がピーチクパーチクわめていると僕が言っていると判断されていて、僕に西洋的な価値判断を貶める意図があったと誤解されたのではないかと思った。

 

なので次のように返した。

 

「 ziro-irisa
>最近哲学に触れたさん
まず、僕は西洋的な価値観を劣ったものだとは考えていません。
中華的な発想も日本的な発想も西洋的な発想も、所謂未開と言われるような文化、例えばアフリカの狩猟採集生活を続けるサン人が抱くような発想も、全て等価だと考えています。
ですので、西洋的な発想が鳴き声のように劣ったものであるという話ではありません。
一方で西洋文化では言語は本質と結びついた概念ではありますが、言語の始まりは結局動物の鳴き声の類ですので、それ以上の意味合いはないはずで、それを深掘りしても超越論的なものに至ることはないという話をしています。
超越論的という語が、海外の方に、哲学を専攻していないような方に伝わるかは分かりませんが…。
スピノザは『エチカ』で様々な定理や公理を書きましたが、それは神に至るために行ったものですし、ヘーゲルのアウフヘーベンという"思考"の行きつく先は神になります。
哲学では哲学的な"営み"の果てに神や真理に至るという発想があって、それは馬鹿げたことだという話をこの記事ではしていました。
確かにその辺りは哲学に詳しくないと分からない話だったかもしれません。
哲学では伝統的に言語による思惟を特別視していて、けれども、元はコミュニケーションのための鳴き声なのだから、鳥の鳴き声と同じ性質のものなのだから、そこにはそれ以上の意味はないはずだという話ですね。」

 

これ…哲学の知識ない人に伝わる内容なんですかね…?

 

結局、西洋の伝統として思弁を尽くせば神に至ると思っている節があって、プラトンの時代からそういうニュアンスの話はあるし、プロティノスなどの新プラトン主義も神は最終目標だし、中世哲学はその延長線上にあるし、先に書いたように、スピノザもヘーゲルも神を目指している。

 

ただ、結局言語は鳴き声の延長線上にしかない機能だから、カエルの鳴き声を研究しまくれば神に至るのかという話であって、それは至らないだろうし、本質や真理にしたって同じ話だということを僕は言っている。

 

まぁ哲学が本質や真理を目指す学問という前提知識がなければ意味不明だろうけれども。

 

先の僕の返事には以下の返答があった。

 

最近哲学に触れたさん

>ziro-irisaさん

超越論という単語はしばしば目にしますが、そういうことでしたか。神/真理を証明しようとする営み。柄谷行人のトランスクリティックの中国語バージョン経由で知りました。カントとやらですね
私も同じくどの価値観が劣っているとも思いませんが、それを上手く言葉にできず、それほど氏のような思考訓練を受けてませんでしたので、その点やはり哲学することは有用ですね(私が口下手なのもありますが)
アートも西洋で権威にされたので、その侵略を止めるべく日本でいろんな動きをされているとネットで知りまして
。村上隆さんは最初に彼らのルールに従ってるように見せかけて、と思いきや日本サブカルチャーを西洋史の文脈に接続させ、独自の地位を与えようとしましたね。日本の哲学者も多分それをやっていますし、こちらの哲学者もそれらしいことをやっています(ハイデガーを老子で解釈する)淫夢が中国で別の形で遊ばれるように、ある程度元のルールに従いながらローカルでの解釈で変形されてますね
ご回答ありがと那須!」

 

…。

 

まず、僕があれこれ考えられるという話と哲学を学んだということは関係がないし、僕はカントの文脈で超越論的という言葉を使ったわけではないんだよなぁ…。

 

カントは『純粋理性批判』で、生まれついての能力と、生まれた後に獲得する能力とを考察していて、その生まれついて能力をア・プリオリとしていて、これは先験的という訳語があてられる。

 

要するに、経立つ能力だから先験的という話であって、そのア・プリオリ(先験的)には超越論という訳語があてられることがある。

 

僕は生まれついての能力の話ではなくて、人間を越えた領域というニュアンスで超越論的なものという語を使ったから、以下のように返した。

 

「ziro-irisa
>最近哲学に触れたさん
超越論という語は使用者によってニュアンスが若干違っていて、僕が先に使った超越論はカントの文脈のそれではありませんね…。
カントの文脈での話でしたら、先験的という語を使っていたと思います。
まぁどうでも良い話ですが。
哲学をやるとするならば、カントは外せないというか、カントを知らないということは哲学を知らないということで良いと思うので、クソ真面目にやるならば哲学入門の本のカントに関する記述を読んだ方がいいと思います。
『純粋理性批判』を前知識なしに読んでも理解出来ませんし、入門書ならばそれなりに分かりやすく説明がされていてるはずですし、僕はそういうもので学びましたので。
もっとも、僕は哲学をやる時間は人生の浪費だと公言して憚りませんし、アートなどの話でカントはあまり必要ないのかもしれません。

加えて、ハイデガーを『老子』で解釈という話に関しては、ハイデガーは仏教の影響を受けていて、その中には日本の仏教のそれもあって、日本の仏教は『老子』の影響下にありますので、そういう文脈でハイデガーと『老子』があります。
日本の仏教は中国を経由しましたが、その結果として強く老荘思想の影響を受けていて、ハイデガーはそのテキストに触れていたりします。
それは日本人の哲学者である西田幾多郎の影響らしいとは伝え聞いているとはいえ、掘り下げてはやっていないので良く分かりませんが…。」

 

多分、フッサールの文脈での超越論的なものというのが僕が言いたいことに近いのだけれども、正直フッサールの議論とかあんまり把握できてないので、藪蛇にならないように、じゃあさっきの超越論的という語は誰の超越論的だよという話は触れなかった。

 

ともかく、そもそもとして、哲学という分野自体がカントを研究する学問と言って過言ではないというほどのそれであって、カントを理解するためにそれ以前の哲学者の言論を学ぶし、カントの影響を受けた人々の思想を理解するために、それよりも後の哲学があると言っていいのではというくらいの話にはなる。

 

カント以後でカントの影響を受けていない哲学者は存在しないから、カントを理解していないのはイコールで哲学を理解していないという認識で良いと思う。

 

この後にも返事は来たけれども、敢えてここで言及したいことがあるような話はなく、読者登録しましたという話だったのでそれには特には触れない。

 

ただ、僕は先の台湾の方の言及で少し気になるところがあった。

 

先の人は仏教修行を続けていてると言及していて、その中でこんな言及があった。

 

「私は長年仏教を学んで修行しており、最近の哲学の論文や言説で、意識の働きについてあれこれ論じているのを見て、仏教の用語を分解してわかりづらくし、哲学のフォーマットに沿ってるだけだよなこれ、との感想でした」

 

この言及を後に思い出すように振り返ってみて色々思う所が出たので、いつもの形式でやっていきたいと思う。

 
・仏教ってなんだよ(哲学)

先の台湾の方は仏教の"識"についてあれこれ言っていたけれども、ここでいう意識の働きというのはまぁ、唯識派が論じた阿頼耶識などの事だろうとは思う。

 

仏教は長い歴史の中で様々な学派や宗派が生まれていて、その中で仏教哲学と呼ばれるような煩瑣な学問を行った人々が居て、その中の一つが唯識派で、その議論の中に、眼識や耳識、鼻識や舌識という、人間の感受能力についての議論がある。

 

それらは所謂仏教哲学と呼ばれるような煩瑣な学問で、けれども、そんなものは原始仏典の時点では存在していない。

 

僕はその教えを学び実践した末に何があるのか、その辺りについてがどうしても分からない。…もっとも、始祖ゴータマの教えだとしても、そこの所は変わらないのだけれども。

 

以上。

 

大乗仏教には仏教哲学と呼ばれるような難しい観念的な議論があって、その中に識という概念についての話がある。

 

その識は眼識や耳識、鼻識や舌識と分類されていて、それぞれの"識"はどのようなものかという議論がある。

 

ちなみに、その"識"は全部で八種あって、その中に"意識"というそれがある。

 

これは現代日本語の意識の語源だから、僕らにも連綿と連なるような知識であって、その中に末那識や阿頼耶識という、特殊で説明がめんどくさい識があったりする。

 

そういう話に加えて、先の方は言語化という発想について触れていた。

 

「西洋の概念に触れる経験値が増えるたびに(例えばマルクス主義など)、彼らはなぜ明確に言語を定義したがる、なぜイエスと神と、ギリシア伝統の哲学とが尊ばれるのが何となくわかるようになりました。」

 

ここに「彼らはなぜ明確に言語を定義したがる」という言及があって、哲学などは何でも言語化したがると言及されている。

 

日本の場合だと天台宗や曹洞宗などの禅の文化を持つような宗派だと、悟りは言語化出来ないというか、言語に頼らないようなものを非常に重要視する嫌いがある。

 

おそらく、先の台湾の方はそういう伝統的な中国仏教の文脈で色々考えていて、仏教として言語化は望ましくないのに、言語化を行うという文化に思うことがあったのだろうと思っている。

 

僕はどうしてもそれらについて思う所がある。

 

…。

 

原始仏典の段階だとそういう話は別にないからね…。

 

日本語の以心伝心は元は仏教用語で、禅の教えを持つ宗派の言葉が由来で、極意は言語で語ることは出来ないけれども、それを理解できるという悟りのあり方が推奨されて、そういう文脈で以心伝心という言葉があって、言葉がなくても理解できるという意味合いの言葉になる。

 

原始仏典の記述だとむしろ言語化が推奨されているというか、正しく見ること(正見)が教義としてあって、その中で如何に正しく見るかという説明がされている経典もある。

 

「 さらに、比丘たちよ、比丘が、足の裏から上、髪の先から下まで皮膚に包まれ、いろいろな種類の不浄物が詰まっているこの身体を、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、粘液、膿血、汗、脂肪、涙、膏、唾、鼻汁、リンパ液、小便が存在する』と観察する。あたかも、比丘たちよ、上下に口のある袋にもち米、うるち米、小豆、緑豆、胡麻、精白米といったいろいろな種類の穀物が詰まっているのを眼識のある人が開けて、『これはもち米、これはうるち米、これは小豆、これは緑豆、これは胡麻、これは精白米』といって観察するように、ちょうどそのように、比丘たちよ、足の裏から上、髪の先から下まで皮膚に包まれ、いろいろな種類の不浄物が詰まっているこの身体を、『この身体には、髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、粘液、膿、血、汗、脂肪、涙、膏、唾、鼻汁、リンパ液、小便が存在する』と観察する。かれがこのようにたゆみなく熱心に打ち込んでいると、在家的な記憶と思考がなくなる。それがなくなると内に心が安定し、落ち着き、集束し、集中する。このようにしても、比丘たちよ、比丘は『身体にむけた注意』を養成する。(中村元監修 『原始仏典 第七巻 中部経典Ⅳ』「カーヤガターサティ・スッタ」 春秋社 2005年 p.181 下線部引用者)」 

 

雑多に穀物が混じった袋の中身でもよく見れば何が入っているか判別できるように、自分の体についても正しく観察して、正しく理解するべきであるという話になる。

 

こういう風に原始仏典期だと事細かに説明がなされるという場合があって、けれども、曹洞宗などの中国仏教の影響を受けた宗派では、言葉による説明はむしろ邪道であるというような扱いをしていたりする。

 

基本的に日本人が仏教の始祖の教えだと思っていることは原始仏典の時点では存在していない教義であるということが殆どで、原始仏典では教義は以心伝心の形で理解すべきだなんて話はないし、仏教は苦行しない宗教だと多くの人が思っているだろうけれども、原始仏典の時点だと仏陀も仏弟子も普通に苦行している。

 

天上天下唯我独尊はゴータマの台詞だと思っている場合が殆どだろうけれど、原始仏典の時点だと、あれはヴィパッシンの台詞になる。

 

彼は仏教の始祖ゴータマ仏陀の前に悟りを得た七人の修行者の一人目で、そのヴィパッシンは生まれてすぐに「私より優れたものは存在しない」と宣言している。

 

日本語のWikipediaだと小癪にも、ヴィパッシンはゴータマが輪廻転生した過去の時代の人格だと書かれているそれがあったけれども、ヴィパッシンの時点で梵行は極められている。

 

ヴィパッシンは悟りを得て輪廻を滅ぼしたのだから、以後、他の何かに輪廻転生することはない以上、仏陀の過去世であるということはあり得ない。

 

詳しくは原始仏典長部経典の『マハーパダーナ・スッタ(『大本経』)』に書いてある。

 

一応、この経典の筋書きとしては仏弟子が仏陀に過去の偉大な解脱者の話を聞いたという設定になっていて、仏陀は神通力というなんでも見通すことが出来る超能力を持っているから、過去に居た解脱者たちを神通力の力で知ることが出来て、その話を弟子に伝えたという話の流れだから、別に仏陀の過去の話ではない。

 

そういう風に日本にある仏教の話は何ともいい加減で、日本の仏教の教えは殆ど始祖ゴータマの思想と関係はないし、中国大陸の仏教の禅宗などは仏教なのに『老子』や『荘子』の記述内容をクソ真面目にやってるし、インドの時点でも大乗仏教の経典は等しく偽経だし、そもそも原始仏典ですら確実にゴータマの教えだろうと判断できるような経典は殆どない。

 

日本人が仏教修行として瞑想をするならば、やっぱり心を無にするだろうし、そのことは中国や韓国、台湾の仏教でも同じだろうけれども、原始仏典の段階だと思考を巡らせてるからなぁ。

 

「 わたしか聞いたところによると、あるとき、尊師は王舎城にある竹林園の栗鼠飼養所に滞在しておられた。
 そのとき、サーリプッタ尊者は、夕刻にひとりで瞑想していたが、その座からたち上がって、尊師のところに行った。近くによって尊師に挨拶して、傍らに坐った。傍らに坐ったサーリブッタ尊者に、尊師はお尋ねになった。

「サーリプッタよ、あなたの感官は清浄であり、皮膚の色は清らかで、非常に明るい。 サーリプッタよ、そなたは、いま、どの住処(瞑想の段階)によくとどまっているのか」
「わたしは、いま、空性の住処によくとどまっています」
「よし、よし、サーリプッタよ、そなたは、いままさに偉大な人の住処にしっかりとどまっている。というのは、サーリプッタよ、この偉大な人の住処というのは、すなわち空性だからである」

「それゆえ、サーリプッタよ、もし、修行僧が、『わたしはいま、空性の住処にしっかりとどまっていよう』と望むならば、サーリプッタよ、その修行僧はこう熟慮すべきである。『わたしが托鉢のために村に入って行った道や、托鉢のために歩き回った場所や、乞食のために〔歩き回った〕村から戻って来た道で、その道中に、眼によって識別される色かたち(色)について、わたしの心のなかに、欲望や、貪り、顧り、愚かさ、反感がありはしなかったか』と。サーリプッタよ、もし、修行僧が観察しているときに、『わたしが托鉢のために村に入って行った道や、托鉢のために歩き回った場所や、乞食のために(歩き回った)村から戻って来た道で、その道中に、眼によって識別される色かたちについて、わたしの心のなかには、欲望や、貪り、顧り、愚かさ、反感があった」と知るならば、サーリプッタよ、その修行僧は、まさに、それら悪い未熟なものを捨断するために、努力すべきである。 サーリプッタよ、もし、修行僧が観察しているときに、「わたしが托鉢のために村に入って行った道や、托鉢のために歩き回った場所や、乞食のために〔歩き回った〕村から戻って来た道で、その道中に、眼によって識別される色かたちについて、わたしの心のなかには、欲望や、貪り、顧り、愚かさ、反感はなかった』と知るならば、 サーリプッタよ、その修行僧は、その喜悦をもって昼も夜もさらに学んで、善い状態に安住すべきである。(中村元監修 『原始仏典 第七巻 中部経典Ⅳ』 「ピンダパータパーリスッディ・スッタ」 春秋社 2005年 pp.647-648」

 

原始仏典期では托鉢でしか食事は得ることが出来なくて、その托鉢で食べ物を貰った後の瞑想では、先の托鉢の最中に邪な心はなかったかを反省して、あったならばそれをなくすように努めるし、それがなかったとしても喜悦を以て学び続けるべしと説かれている。

 

原始仏典期の瞑想にはいくつかの段階があって、それぞれの段階に名前があるのだけれども、この経典で言及されているのは空性の瞑想の段階の話になる

 

けれども、この空性の段階の瞑想は心を無にするという話ではないらしい。

 

一方で中国の『荘子』辺りには心を無にすると良いという話が書かれていて、日本の仏教の禅で心を無にする修業をしたところで、それは中国で生まれたセクトの教えであって、その修行は迷いの生存は尽き果たし、清らかな修行を完成させた釈尊の教えではないわけで、その果てに何があるのかとかは良く分からない。

 

この『ピンダパータパーリスッディ・スッタ』という短い経典の最後まで心を無にするという話はなくて、原始仏典期だとどうも、空の瞑想であったとしても色々思惟を巡らせているというか、日本の仏教で言う所の"空"と、原始仏典期の"空"とではニュアンスに差があるらしい。

 

一応、この空の瞑想の段階は一段階目で、最後の段階になると「考えるのでも考えないのでもない」というそれがあるから、そういうのが後の心を無にしろという話にも繋がったのだろうけれども。

 

実際にその「考えるのでも考えないのでもない瞑想の段階(非想非非想処)」について書かれた経典の言葉を何度も僕は読んだことがあるけれど、イマイチどういう状況のことをいうのかは分からない。

 

…まぁ簡単に分かったら簡単に誰でもその段階に辿り着けてしまうわけで、理解が困難なのは当たり前なのだけれども。

 

ともかく、そういう風に僕らが知っている仏教と原始仏典で記述される仏陀の教えでは大きな隔たりがあって、更には僕はその原始仏典で記述される仏陀の教えすらも、仏教の始祖ゴータマの弟子筋の誰かが考えた最初はなかった教えが殆どだろうと考えている。

 

個人的に始祖ゴータマが説いた内容は、初期ウパニシャッドの聖典が語るように、ヴェーダの達人になって天に昇って神々と合一するようなそれだろうとは思っている。

 

成立が古いといわれる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』、『テーラガーター』の、その中でも更に成立の古そうなテキストを読んでいると、そのような様子が汲み取れる。

 

加えて、バラモン教の聖典もジャイナ教の聖典も読んだことがあって、正直、その内容は原始仏典と大きな差はない。

 

先にヴィパッシンがゴータマより前に悟りを開いた七人の一人だと言及したけれど、ジャイナ教の指導者であるマハーヴィーラは24人目に悟りを開いた人物で、彼より前に23の正覚者がいる。

 

更には、原始仏典の小部経典の『ブッダヴァンサ』では、ゴータマより先に悟った24人の正覚者の話があって、ゴータマは25番目の人という設定になっている。

 

仏教もジャイナ教もやっていることは変わらない部分があって、かなりの部分で教義が重なっていたりする。

 

そのような仏教以外の古代インドの宗教と比べて仏教が優れた教えであるとは思えないし、古代中国の『礼記』や『荘子』などに言及される古代中国人的な価値判断と比べても、人々の御者たる輪廻王の教えが、目覚めたものである如来のその教えが、中華的なそれに勝っているとは判断できない。

 

読んでて思うことは、文化が違うくらいになる。

 

とはいえ、僕は仏教を信奉している人に僕から何か言葉を投げかけることはない。

 

僕の父親は熱心な浄土真宗の信徒で、けれども僕は父の信仰について口を出したことはない。

 

何故なら、あなたの信奉している何かは仏教の始祖ゴータマの教えではないと伝えたところで、僕が何か得をするわけではないし、彼が寄りかかっているそれを蹴り倒したとしても、その代わりに凭れ掛かる何かを提示できるわけではないからになる。

 

そもそも僕は議論が嫌いだし、そもそも仏陀は『スッタニパータ』で議論を禁じているのであって、僕が仏教徒と議論をするということはまずもってない。

 

僕は言い負かすのも言い負かされるのも嫌いで議論をしたくなくて、一方で釈尊は議論をするなと説いているのだから、仏教のお友達と議論をする理由が何処にもない。

 

まぁ多少はね?

 

次。

 

…と思ったけれど、文章が規定量を越えたのでこれくらいにしたいと思う。

 

まぁ多少はね?

 

では。