陸軍では陸軍大学校出身者が指導部の中枢を占めましたが、海軍では海軍大学校はそれほど重視されていませんでした。そんなわけで、海軍での出世にはハンモック・ナンバーが大きな影響を及ぼしました。
「ハンモック・ナンバー」とは海軍兵学校での卒業席次順です。特に卒業席次1位のクラスヘッドが重視されていました。
海軍では理数系が重視されたため、兵学校での卒業席次も理数系に強い学校秀才型の人間に有利でした。従って個性的、或いは独創的な人物は避けられ、役人型の大勢順応型が海軍の中枢部を占めました。
海軍での昇進システムは、クラスを卒業席次順に数クラスに分け、後のクラスの選抜者を前のクラスに割り込ませる選抜制度をとっていました。
海軍人事の選抜制度。後のクラスの選抜者(成績優秀者)を前のクラスに割り込ませる。
この点について海軍兵学校長を勤めた井上成美は、兵学校卒業席次と昇進についての研究を行っています。その結論は3~4年を過ごした海軍兵学校での成績が、卒業後25年の昇進に匹敵するほどの大きな影響を持つ、ということでした。
海軍では77名の海軍大将が存在しましたが、皇族3名、戦死後の昇進者5名、海兵以外からの昇進者15名を除くと、55名が兵学校出身者となります。それを成績順分けると以下になります。
・10番以内:39人(首席9人)
・11番以下:15人。3割に満たない
その3割に満たない層から、以下の著名軍人が輩出されました。
・野村吉三郎(26期):59人中43番
・末次信正(27期):113人中68番
・米内光政(29期):125人中68番
・及川古志郎(31期):188人中76番
海軍では機械を操作する能力、つまり理数系が重視されたため、理系の学校秀才型の軍人が重鎮のポストを占めたのは、合理的な人事の取り方でした。
しかし艦艇に乗り組む現場では、戦闘や突然の気象変転など、不測の事態での臨機応変の対応を余儀なくされる場合が多くなります。この場合、じっくり熟慮する学校秀才型よりも、即断即決の出来る軍人が求められます。
典型的な例として、キスカ島無血撤収を成功させた第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将(41期)がそれに相当します。
海軍少将、木村昌福(1891-1960年)。最終階級は中将。
木村司令官は濃霧を利用し、わずか1時間足らずでキスカ島の将兵約5,600人を収容させました。彼のハンモック・ナンバーは118名中107番、後ろから数えた方が早い席次でした。
そのため昇進面でもパッとせず、鎮守府の警備艇のような日の当たらない部署への転勤を繰り返していました。
大佐時代には、すでに42期や43期など下のクラスの後輩に出世を越されていました。
しかしキスカ島撤退に当たっては上層部の意向に反し、何回も延期を重ねて決行を待った木村司令官は中央の「赤レンガ」組にはない、独断専行を重視した作戦で成功を収めたのでした。
『海軍と日本』、池田清、中公新書、1981年