奈良県大和五條の代官所を制圧して討幕の狼煙を上げた「天誅組」は巷間広く知られてをりますが、この天誅組大和義挙と併せて「維新の先駆け」とされる兵庫県生野の「生野義挙」は、いづれかといふとポピュラーではありません。旧暦の10月12日の出来事ですが、私ども有志は8日(土)慰霊清掃に行つて参りました。今日は、少し明治維新直前のこの勇ましくも哀しい事件を振り返つて頂かむと思ひます。
幕末の文久3年10月、兵庫県(現在)の但馬では徳川幕府の生野銀山を制圧して、全国に討幕の号令をかけようとする志士たちが集結しました。彼らを「正義同盟」と呼びます。
黒船が徳川幕府を恫喝し、薩摩や長州が英仏に度胆を抜かれた幕末、佐幕派と討幕派だけでなく、維新派や開国派が入り乱れて内戦に突入しました。桜田門や坂下門にテロが起こり、京では保革浪士が入り乱れて討ち合ひます。最早、我が国は「革命前夜」の暗闇の中で、やがて昇る平和な朝日を待ち焦がれる状態となつてゐたのです。
但馬では、幕府の特別許可をもらつた「農兵組織」が存在しました。農民を幕府の秩序維持や治安対策に利用するために、農民たちに鉄砲を教えて組織化されたものです。これは但馬に限らず、幕府の手薄な地域には存在したさうです。
「正義同盟」の志士たちは、討幕のために農兵組織を利用しようと考へてゐましたが、農民にとつては「勤王」も「佐幕」も関係ないのです。自分たちが安定した生活さへできるなら、鬼にも仏にもなるのが百姓の本質です。それを見誤つた志士たちは、敗れるべくして幕府に敗れたとも言へるでせう。
「正義同盟」が生野銀山を制圧し、村々に触れ書きを回して一緒に戦ふ百姓を募りましたが、結果的には百姓も農兵組織も志士たちの敵に回り、銃口や竹槍が志士たちに向けられることになります。
そんな時、大和の東吉野において「天誅組」が幕府に討たれて全滅したといふ一報が飛び込んできます。「大和義挙」は失敗に終はつたのでした。
それを聞いた生野の志士たちは、強行派と中止派に分裂しました。頭領に担がれてゐた公家の沢宣嘉は夜逃げ、平野国臣らの中止派も変装して脱出しました。残された形の強行派は、南八郎(長州の河上弥市)を頭領として立て籠もりますが、農兵たちに鉄砲を撃ちかけられます。もとより民と対立することが本意であるはづもなく、潔く自刃を果たすのです。
或いは下写真の後ろに見へる山伏岩から、口に刀をくわへて飛び降り自刎する志士も居ました。鬼神も哭くといふ形容は、この為に有るのでせう。農民から借りてゐた鍋釜什器は綺麗に洗はれてゐたさうです。かくして「生野義挙」も失敗に終はるのでした。
結局、討幕の先駆けとなつた二つの義挙は、最終的には幕府を倒すことも崩すことも出来ませんでした。
しかし東吉野の鷲ヶ口で壮絶な最期を遂げた「天誅組」に感動した人々や、生野の山中で真一文字に屠腹した13人の志士たちを、全て作法通りに介錯した後で喉に太刀を貫通させて果てた「正義同盟」の壮絶さに泣いた人々が、いよいよ幕府の時代を終はらせるべきだといふ世論を爆発させるのです。維新の原動力は、感動・恐怖・怨嗟などの極端な感情を一気に沸騰させた幕末世論だつたと言へるでせう。
義挙中止派の平野国臣は逃亡中に幕府に捕らへられ、京の六角獄舎に繋がれました。獄中にいる各地から京に送られてきた志士たちに、平野は神皇正統記を講義してゐたさうです。37歳の平野は白髪で痩せ細り、老人のやうだつたと言はれますが、禁門の変で京が火の海になると、獄吏たちの槍を受けて果てます。獄吏が槍を向けると「お待ち下され」と言ひ、御所を拝んでから辞世の句をしたためたと伝へられています。
それとは逆に、生野義挙の強行派で自刃した南八郎は、長州から持参した先祖伝来の緋縅の甲冑を身にまとひ、金作りの太刀を腰に提げてゐたさうです。辞世の句は、立て籠つた妙見堂の板壁に書き残されました。
議論より実を行なへ 怠け武士
国の大事を 余所に見る馬鹿
といふ強烈な怒りの言葉でした(写真下)。
維新によつて天皇が江戸城を皇居として住まはれ、東京が首都となつて新政府が誕生した後、筑前から新政府の顧問として招聘された野村望東尼は、生野義挙の志士に手を合はせてから東京に向かつたさうです。
野村望東尼は「但馬にて世の為に失せ給ひし君たちの御霊に手向け奉らむ」として歌を奉納してゐます。
もののふの 道を生野のしるべにて
まず踏み分けし 神はこの神
合掌


