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古稀を過ぎたトリトンのブログ

団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります


 

 8年前(2010)の今日、稀代の歌姫しばたはつみさんが心筋梗塞で亡くなられました。

 今、仕事場で彼女の全曲集を聴きながら、嘗ての彼女の素晴らしい活躍を思ひ起こしてをります。
 私事になりますが、往年の一ファンとして彼女の存在をもう一度認識して頂きたく、想ひ出を語りたいと存じます。

 1975年秋、大学の2回生ですから、私は19歳の青春真つ只中です。我が母校の大学祭「摂津祭」のコンサートに彼女が来演されることになりました。

 

 


 

 私ども應援團の部活を致しをりますと、日頃は先輩の使い走りの一兵卒に過ぎませんが、稀に役得がございました。その一つが大学祭コンサートの警備といふ名目で、会場(体育館)のほぼ最前列に陣取ることが出来たことです。一般の学生や観客が長蛇の列に並んでをるのを後目に、でかい態度で入場口を顔パス(学ランパス)出来るといふのは優越感に浸れる瞬間でもございます。

 確か記憶では、その日は大学内で模擬店も出してをりましたので、1、2回生團員らは輪投げの店番を致しをりました。さて11月の夕方の頃ですので、もう空は暗くなりかけてをりました。交代で夕食を摂るため、私は一人で大学生御用達の大衆食堂「かじか」へ駆け込みました。
 寒さを凌ぐため卵とじ饂飩を食してをりますと、俄かに表通りが騒がしくなりました。何事ならむと顔を上げますと、ガラリと玄関が開き、マネジャーらしき人等と共にしばたはつみ嬢がご来店されたのです。周囲の客が仰天と同時に感動したことは言ふまでもありません。そして、普段であれば体育会系の学生か道路工事の人夫さんくらひしか注文せぬ「焼き飯〈大盛〉」を注文されたのです。まさか…と注目する裡に、はつみさんはこの焼き飯をペロリと平らげてしまはれ、莞爾と微笑みつつ食後の番茶などを喫してをられます。
 はつきり申し上げて、清潔ではありますが薄暗い大衆食堂です。大学近辺には少ない乍らも綺麗なレストランもございます。ところが私ども貧乏学生が通ふ、味はそこそこでも「質より量」と気さくさを売るやうな店を選んで、あの世紀のシンガーレディが、本番直前の力を注入するために来られ、日頃の私どもと同じものを食された… 私はこの瞬間にはつみさんの大ファンとなつてしまつたのでありました。

 コンサートは素晴らしいものでした。忘れもせぬ最初の曲は、この年(1975)に出た新曲「濡れた情熱」です。前から3列目の特等席で、スピーカーから聞こえるバンドの轟音が負けてしまふ迫力に満ちた彼女の歌声に、私はエクスタシーを感じてしまひました。
 これらの情景は40年を過ぎた今も、昨日の事のやうに想ひ出せます。
  
 若い読者の方々は、恐らく彼女のことはよくご存じないでせうし、年配の方々の多くもNHK紅白歌合戦に「マイ・ラグジュアリー・ナイト」で一度だけ出演された…それくらひしかご認識が無いやも知れません。少し詳しい方なら、午後11時から当時放映されたTBS「サウンドインS」のレギュラーで出演されてゐた事を覚ゑてをられることでせう。この番組はフジTVのミュージックフェアと並んで、内外のミュージシャンが洋楽ポップスの魅力を斬新な形で紹介する、極めて格調高いものでした。

 



 彼女は9歳の頃から米軍キャンプで歌ひ、15歳でデビュー。丸善石油のコマーシャル「Oh! モーレツ」は、小川ローザ嬢ではなく彼女の声なのですよ。20歳の時に単身渡米。フランク・シナトラ一家の若頭サミー・デイビスJRに可愛がられ、一流どころと対等に競演されてをります。後年このお二人はサントリーのTVコマーシャルにも出てをられましたね。帰国後は、世界規模の音楽イベント、東京音楽祭の受賞常連でした。断じて徒者(ただもの)では無いのでございます。

 晩年彼女は夫の細合氏に「もうみんな、私のこと忘れてゐるよね」と寂しく語つてをられたさうです。ファンとして何とも悲しく、責任も感じをります。
 抑々鍛へ上げられた歌ひ手は消費材ではありませんし、今のやうに歌と無関係な番組でコメディアン化されるべき商品でもないと思ひます。素晴らしい素質を持つ人がそれなりの評価を受けるやうな音楽界になつて欲しいものですね。
 若干八つ当たり気味ではございますが、偉大な歌姫しばたはつみさんの8回忌に免じてご寛恕の程、お願ひ申し上げます。合掌

 

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