一家で「ファミリーストーカー」に狙はれた話〈その3〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 兄と私は二人とも、小学校低学年より様々な塾(稽古事)に通はせられてをりました。ピアノ、絵画(クレヨン&水彩)、書道…  いづれも週一回です。母にすれば当人に一体どんな素質があり、何が向いてゐるのか分からぬゆへ、先ずは手当たり次第に経験させようといふ意図があつたのでせう。

 

 越境通学でどうしても他児童より遅く帰宅いたしますが、帰つてランドセルを置くと、稽古がある日はまず道具を持つてその教室へ走ります。学校の宿題等は、その稽古から帰宅してから取り掛かるので、夕食後も机に向かふことになりました。同級生が観てゐるやうな、夕方5、6時頃のTVアニメを見る時間的余裕はございません。おかげで石田国松もモーレツあ太郎も存じませんでした。

 

 さて母親Nさんは一体何処で情報を得たのか判りませんが、私どもと同じ塾にN家の二人兄弟を通はせるやうになつたのです。ピアノも、絵も、書道もすべてです。

 つまり、朝から夕方まで、私ども兄弟の行く先々にN兄弟が現はれるのです。私は当時はまだ幼きゆへ、母親Nさんの企みには気づきませんでしたが、母と兄は明らかに嫌がつてをりました。家の中では、母は母親Nさんのことを口に出して罵るやうになり、家内の雰囲気は至つて悪くなつてゆきました。それにも拘らず、一歩外に出るとお互ひの息子を褒め称へ合ふ二人の母親同士の関係が、私には不思議で仕方ありませんでした。

 

 弟久雄君は私の一学年下になるので、直接学業成績を比較されることはない代はりに、書道の素養は明らかに私より久雄君が勝つてをりました。半紙からはみ出すやうな大きく元気な文字を書く彼には、私も敵はないと思ひました。ただ、勝敗に拘らぬ私の性格から、対抗心を燃やすこともなかつたのです。

 むしろ私と久雄君は一応仲良くしてをりましたゆへ、私が無邪気にN家に遊びに行くこともありました。母親Nさんはそのやうな時でも、私の着てゐる毛糸のベストなどを目ざとく見ては指先で生地を吟味し「これ、お母さんが縫つたの?すごいね」と褒め言葉を忘れません。

 

 弟同士はそれでも良かつたのですが、同学年同士の兄と達也君のほうは、さう簡単に参りませんでした。小学校高学年になると、両家とも中学進学を意識し始めます。

 

 

 兄は小学校当局と母の期待を背負つて灘中学を目指すことになり、好きなピアノも断念し、すべての塾を辞めました。すると達也君も、きつぱりと母親Nさんによつてすべての塾を辞めさせられたの言ふまでもありません。事ここに至つて、兄同士本来の意思に関はりなく戦ひの火蓋は切つて落とされたのです。

 

 結果は、兄が灘中に合格。達也君は大阪府内の或る私学へ通ふことになりました。その後、N家の人々は父親の転勤のためと挨拶に来られ、何処かへ引つ越してゆきました。

 

 後年兄に聞いた話でございますが、達也君とは成人式で顔を合はせる機会があつたさうです。兄は相手がふんと顔を逸らせるかと思ひきや、達也君は静かに照れたやうに莞爾と微笑んだといふのです。その内心は恐らく「お互ひ、親同士の思惑で不本意だつたなあ」といふものでせう。

 そのやうなことが無ければ、仲良くなつたやも知れぬものを… 兄は斯様につぶやいてをりました。           〈完〉