ここのところ、新聞やテレビで「いじめ」についての話題が多いです。
先日の大津での出来事が発端になってのことかと思います。
ウチで読んでいる新聞にも連載で
「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」という
タイトルで、タレントさんや作家さん学者さん、ミュージシャンなど
様々な分野の方が想いを綴っています。
先日は美輪明宏さんのコメントがありました。
「いじめ」という言葉を使うのは間違えている。
あれは間違いなく「犯罪」なのだ。
人が命を消してしまう。
その原因となる行為は「いじめる」などという軽い言葉で
流行りのように伝えるものではないと私も思います。
さて、そんな中で少しだけ気になっていることがあります。
いじめられている君へ
命をかけてまで学校に行く必要はないのだよ。
全力で逃げていいのだよ。
そういうメッセージがとても増えています。
そう
命の危険を感じながら学校に行くことはないと思います。
けれど、けれどです。
この言葉を安易に受け入れ
真相をつかむことなく
ともかく登校せずに過ごしてしまう。
そんな人が増えていくことが起こらないでしょうか。
本当はいじめられているわけでもないのだけど
ちょっとお友達と喧嘩してしまって
家族にもうまく説明できず
なんとなく学校に行きたくない日
そんな日が続いたとき
心配した親からすれば
大切な我が子がいじめにあっているのではないか
そんな風に思い
「無理して行かなくていいんだよ」と言ってしまう
そしてそのまま大切なお友達とのつながりも切れてしまう
そんなことも起こってしまうのではないかと考えてしまいます
本当に命や心が危険にさらされている状態なのか
ここは何とかして自力で乗り越えていく場面ではないのか
そんな判断を親や教師や周りの大人たちができること
それをやらずに「逃げろ」というだけで本当にいいのだろうか
このままでは学校という場がなくなってしまうのではないか
そんな風に感じてしまいます
今日の新聞にも「いじめられている君へ」の記事がありました。
その下には、いじめられていた高校生が被害届を出したとうい記事があり
そしてその隣には
東電社員が昨年の原発事故後、個人的な非難・糾弾を受けていたという記事。
この東電社員へ「いじめ」をしているのは
おそらく「大人」
いじめという犯罪は
子供の世界だけのことではない
むしろ大人の世界が歪んでいるから
子供も歪んでしまう
オトナ ノ ハシクレ トシテ ワタシ ガ ヤルベキ コト ハ
ナンナノダロウ



がしきりとお尻を舐めだした。
」
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