大切な人の死は本当に辛く厳しい。
受け入れられない状態が続き、気づくと涙が溢れて
どうしようもない解決しない事を深く考えてしまうそんな時間が続いた。

私は祖父が亡くなる数日前まで考えていた事がある。
闘病をしていてこれ以上にない位、頑張り尽くしていて寝たきりになっている祖父に対してこれ以上「頑張れ」と直接言えるのか。
結論は【言えない】
もう頑張る必要はない。苦しむ姿を見るのが苦しかった。
それに気づいた時、自分の中で矛盾が生じた。
もちろん病気がなかった事になればいいのに
一生元気なままでいてくれればいいのと思うが避ける事はできない現実の中で、「頑張れ」とは言えない応援はできない。不思議だった。
【祖父の辛さが終わる】それは嬉しい事。【存在がいなくなる】それは寂しい事。
辛いではなく、寂しいが深い事に気がついた。
そして、1番明らかな事として【死後の事】は誰にもわからない。
宗教によって考え方はあるだろうが、私は無宗教なのできっとこの考え方を自分で導き出せたのだろう。
視野を広めてみる。【死後】はどうなるかわからないのは鮮明で、もしかしたらまた会えるのかもしれない。
それは誰にも否定できない、だって亡くなってからどうなるかなんて亡くなった本人にしかわからない。体はなくなってしまうが、ではこの気持ちや心はどうなるんだろう。
そんな事を考えていると結局【わからない】に辿り着いた。
【亡くなって寂しい】よりも【また会えるかもしれない】の方が自分が納得できてしまった。

そして、いざ亡くなった時
真っ先に祖父へ
「じいちゃん頑張ったんだね。もう辛くないんだね。いっぱいいっぱいありがとう」
そう伝えた。
手紙も普通サイズじゃ収まりきれなく、A4のノートをちぎって書いた。
でも最後の行は「さようなら」ではなく「またね」

よく【死を受け入れる】というが、【死を受け入れられない】ともよく聞く。
そもそも死を受け入れる必要はあるのか。
少なからずどんな人でも死に向かい生きている必ず訪れる。
私は【死を受け入れない】で忘れずに生きて最後まで生きれば【また会える】と思う方が正直しっくり来てしまう。
祖父がどれ程大切な人であってどれだけの存在か、またここへ載せる事にする。