抗がん剤が終了して、一ヶ月たちました。副作用も段々収まってきて、今は皮膚の乾燥のよるかゆみ、なみだ目が残っています。一時は倦怠感、下痢、味覚障害で生活の質は最悪でした。我ながら一年間よくがんばったなと思います。しかしこれで癌の再発が見つかれば、踏んだり蹴られたりになります。抗がん剤は再発防止が目的ですから。

若いときは、死ぬのが怖かったのですが、今はそう怖くなくなりました。これも「意識とは何か」を求めたからに違いないと思っています。

意識を追及した結果、人間は機械と同じで、特に他と異なる事のない物理的存在であると、感じるようになったからです。なにも自分だけが特別な存在でもなく、生きることに意義など存在しない、と。意識は物理現象であるとの思いが強くなったからです。意識が物理現象であれば、人間は機械と同じレベルの存在と判断できますから。

ただ自分の勝手な思いは別で、「自分を大切にするとか、生きる意味を自分で見つけること」は、別次元で意義があると思います。

しかし、大自然の中の自分は、ただ自然現象の中で生かされているという思いです。死ぬ事はあたりまえのことであり、死ねば全てがなくなる、ただそれだけの事。
自然界に存在する物理物体に存在意義を見つけられる者は、人間の意識でありその意識は自然現象の枠に収まるのだから、意義は意識の中だけで存在できるもの。そう考えると私は、自作自演の一人芝居の役者なのです。そう、そう考えると比較的楽になります。
空気の重さは、高校時代の物理の授業で教わったと思います。酸素とか窒素の重さは分子量という値できまっているようです。モルとか、アボガドロ数とか、22.4リットルとか、おもいだします。例えば酸素分子は分子量が32であるから、1モルの重さが32グラム、分子の個数は6×10の23乗個の重さであるというもの。
しかし気体は真空中を分子が飛び回っていると言うイメージがあります。だから、気圧はこの分子の壁に当たる衝突の力によって生じるとされています。圧縮して体積を小さくすれば衝突の回数が増え圧力が上がり、温度を上げれば飛び回るスピードが速くなり圧力値は上昇します。この様に分子は自由に真空中を駆け巡っているようです。
すると、気体の重さは量れるのでしょうか、重さは天秤で測れます。個体に有っては、個々の分子の質量はその計算で積算が出来ますが、気体では個々の分子の積算が可能なのでしょうか?
空を飛んでいる飛行機は、重量計に載っていないので測定は出来ません。直接重量計に載せられる地上でしか測定は難しいのです。
気体の分子も真空中を飛び回っているのなら、重さの測定は出来ないのではないでしょうか。しかし瓶に入れた気体の重さが測れます。
(www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/kagakukiso/archive/resume022.html)参照。
飛び回っている分子が積算できるという事は、気体は飛び回っていながら積算できる性質を持っているのでしょうか?
私にはよくわかりません、どなたか教えてくれませんか。
長らくブログから遠ざかっていたので、ブログを書くのに多少困難を感じている。つまり”乗ってこない”のである。そこで書き易いものから自分の気持ちをのべていこうと思っている。
そこでゾンビ、分子素粒子からの全てにおいて同一な物理構成の私が、一人は意識を有しているのに、他方は有していない。意識を有していないのが、哲学的ゾンビと言う。外界の情報を私と同じ処理をして、同じ刺激に同じように反応します。ビールの味を同じ様に感じうまいといい、言葉を聞き取り話もし、痛みも痛いと顔をしかめます。ゾンビと私は機能的、物理的活動は同じです。しかしゾンビには意識体験が欠落しています。外から見れば全く見分けがつかないのですが、彼には”現象しているもの”がありません。私はゾンビではないのでゾンビではありません、意識クオリアもありますと言えますが、彼も全く同言するのです。いわゆる意識がないのに、意識が自分にはあると主張します。体験的・現象的意味では意識はないけれど、機能的・心理的意味では意識があるということです。
この体験的・現象的意味と、機能的・心理的意味の違いを私は理解できないのです。意識とは自分自身が直接体験できる唯一の基本現象であるのに、それを体験できず、痛くなんかないのに「痛い」というのです。何か私が私ではなく機能的体験をしている別の私がいるようでもあり、また機能的ロボットの存在で嘘をついているのではないのに、意識を感じる事ができると言わされているようなのです。
物理的な構造構成が同一であるのに、このような差が起こるのに論理的根拠がありません。例えば”痛い”と言う意味を私の体が感じるとき、コンピュータの場合はあるビットを立てて立てば痛い立たなければいたくないという簡単な場合であれば、ゾンビの存在は可能ですが、神経パターンの痛いという意味を理解する場合、他の神経パターンが痛いという神経パターンの情報の意味を理解する事により痛いと感じる事が出来るとする場合はそうではありません。意味が神経パターンの組み合わせで創立される場合、その意味が意味として自立します。機能的に意味が創立されれば、論理的に体験的意味になるということです。
このように理解すれば哲学的ゾンビは存在できないと思われます。