ほんと涼しく、寒くなりました。

夏が終わり、秋へ、冬へ。


ちょっとした生活感、恥ずかしいですが・・・

冬になると、ガス代の請求が増えるのです。

夏は1000円ちょっとが、冬は6000円以上と

そうです、お風呂沸かしと、ガスストーブ使ってるから。


ちょっと惨めったらしいですよね、ごめんなさい。




昨日は、信原先生の書籍をおっかけました。


ゾンビの話、

ゾンビに備わっている意識は

機能的意識で(クオリアがない意識=ゾンビが存在)、

意識のある人間は

現象的意識(クオリアがある意識=ゾンビでない)、

という話でした。


哲学者はこの様な所からでも、意識への手がかりを見つけます。

ゾンビが存在すれば意識が物理に付随していなくて、

ゾンビが存在しなければ意識が物理に付随している

というシナリオです。

つまり、ゾンビが存在すると、機能的意識が存在でき、物理的に同じなものに、異なる性質が付随するから、意識は物理的に説明(還元)できないということです。

ですから、機能的意識がどうのこうのは枝葉末節的な話で、本筋はゾンビの存在の可能性となります。


そして、著者はゾンビ存在の可能性を検討するには、「物的なものとの結びつきがクオリアにとって本質的であるなら、物的にまったく同じでありながら、クオリアを欠くことは事物的に不可能である。したがって、ゾンビの存在は事物的に不可能」ということで、クオリアの本質(物的なものとの結びつき)の追究という戦略を立てられます。


私は、ゾンビの存在可能性を正すのが目的ではなく、意識が物理的に説明できるか否かが目的であろうから、クオリアの本質(物的なものとの結びつき)が見つかるならゾンビの話は不要だと思います。したがって訳のわからない(有るかどうか分からない)機能的意識を持ち出す必要はありません。


そこで、著者はクオリアの本質追究にはいって行きます。

スタートは、「自分の意識的経験を内観して、それがどのようなクオリアを備えているかを知ることができる」ので、意識的経験を内観することでクオリアの本質追究は充分であるという考えより始まり、

昨日のブログの様に「内観は自分の意識的経験にたいする無媒介的で直接的な認識でなく、ある過程を介して行なわれる認識であり、それゆえ不可謬でも十全でもないことを示していきたい。」へと変わっています。つまり後でわかることですが、クオリアの本質追究はこれでは不十分ということです。

これがこの章で先生が訴えたかったことです。


そして内観とは何かというと、

自分の意識的経験に対する直接的な認識」と始めに書いてありますが、後

自分の意識的経験に対する知覚的な認識」となり

自分の意識的経験に対する信念的な認識」と変わっていきます。


内観の定義は重要であるので、文章の中で変更をして欲しくありません。始め、“こうだろう”という事が、途中で“そうでなく、こうです”と変わっていくのです。筋を追っかけるのに苦労します。

最終的な著者の主張する内観は、意識の三重構造(気付き、知覚、自己意識)の「自己意識」で意識的経験を認識することのようです。自己意識は自分で自分の意識を見ることの出来る意識です。“ああ、私は今意識している自分を感じる”という意識です。この意識でクオリアを観察するのです。すると少しニュアンスが変わります。


そうして、内観は信念的な認識に変わりました。信念的認識とは、“単にその経験を持っているだけでは、ただ意識に赤いトマトが現われているだけであり、内観によりその経験が赤いクオリアを備えていると思わなければだめである”ということです。思わなければだめなのです。


内観は信念的な認識であるため、ある過程を介して認識が行なわれることになります。内観する事は、何かが媒介しており、直接クオリアにアプローチ出来ないニュアンスの表現をされています。

つまり、内観のクオリアは直接のクオリアとは少しかわるのです。ここで上述の「内観は自分の意識的経験にたいする無媒介的で直接的な認識でなく、ある過程を介して行なわれる認識であり、それゆえ不可謬でも十全でもないことを示していきたい。」が出てきます。つまり内観する事は不可謬でも十全でもない、無意識的ではあるがある処理を介しているという主張が出てきます。「それは形成される信念の真理性を保証するような何らかの過程を媒介するものなのです。

そしてクオリアも変わります。しかし、信念を形成する過程での変化ですから、クオリア内容は基本的には変わりません。

昨日、クオリアが変化するという意味で、「私の意識があるのか?」という問題提起されましたが、結局基本的には変化がないので「私の意識は、あるのです」。


著者の本当に言いたかった事は、クオリアの物理的還元可能性の追求にあったのです。そのためには内観が必要でした。クオリアの観察により意識の物理的還元可能性の証明が出来るのです。クオリアが物理的に還元されるかどうかは、クオリアそのものを観察しないとわからない。内観してクオリアを観察しないといけない。


その結果、まずクオリアは物理的なものとは無関係と認識されています。クオリアには物理の臭いがしないのです。常識的結果です。

しかし著者は、そうではなく「クオリアの本質が意識への現れに尽きるということを意味するわけではない。・・かもしれない。」と強弁されます。クオリアの本質は意識への現れ以外にあるということです。裏に隠された、物理的過程があると予想されています。隠れたクオリアです。


そして、著者は「クオリアは意識に現れない本質を持つかもしれない。そうであるかどうかは経験的な探求によって明らかにされるべきことがらであって、たんなる日常的な反省だけから決められない」ということで、クオリアの物理還元の可能性を言われています。「内観はクオリアの本質を余すところなくあらわにするものではない」から、内観によってクオリアが物的なものとの結びつきが無いからと言ってなげく必要がないといっています。つまり物理に還元できる可能性があると言っているのです。

その可能性は残されている。内観は、けっしてクオリアの還元可能性を完全に閉ざすものではないのである。」と。

可能性があるとの主張です。


しかし、著者は次の第四章で「経験の表象内容は経験の機能によって説明され、それゆえクオリアは物的なものに還元できることを示したいと思う。」と衝撃的なことが書かれています。もし本当ならすごいことです。

「物的なものに還元できる」ですから。


第三章は「しかし」とか「もし、そうだとして」と文脈がころころ変わって読み辛く、結局可能性が残されているという平凡な結果だったのですが、第四章の強烈な結果予告(物理的に還元できる)の前触れであえて淡白な記述をされたのかな、と思いました。


いよいよ第四章はクオリアが物的なものに還元できるストーリが読めそうですが、”本当だろうか”。ますます興味がわいてきます。