前回は“意識は脳の随伴現象である”という命題を越えて、
意識は“脳活動により構成された情報世界の意味が独立したものが意識である”と言いました
確かに、“意識は随伴現象です”と言っても“意識は脳活動から起こります”のレベルと変わっていませんよね。あまり進歩がありません。
同じように最近では、
気付きが覚醒が脳幹、網様体に関係しているとか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E5%B9%B9
前頭葉の活動が長期記憶、理性、判断機能を有するという記事が見受けられます。
http://www.tmin.ac.jp/medical/09/frontal1.html
これらは確かに重要な機能局在情報で、
同じく、ブロードマンの脳地図・ペンフィールド博士の脳体感マップも脳の機能が局在していることを雄弁に語っています。
しかし、これらのことが分かったからと言って、「意識とは何か」の解決には、今の所なんら寄与していないのです。
相変わらず、脳の活動が、脳のこの部分の活動というだけで、
強いて言えば、対象の範囲が狭められた進歩は認められます。
“意識は脳活動から起こります”のレベルなのです。
「意識とは何か」は脳科学の超一級問題として君臨しています。
しかし、“脳内情報世界に存在する情報の意味が自立(独立)したもの”が意識であるとなると、
「意識とは何か」の問題解決を完成させるため、次の具体的対策が取れるのです。一歩進めたのです。
そして何より、「意識の不思議さ」が無くなるのです。
意識は訳の解からないものではなく、脳内に存在する情報そのものと決定されたのです。
少なくとも私は、意識の不思議さは消えました、
「ああ、今目の前にみえているもパソコンはきっと頭の中の神経活動によって創られた情報の意味が浮かび上がって、自立したのだろうなと。だから見え方も目の前に有るかのごとく浮かんだように見えるんだろうな。よくできてるな!」と
このように、情報その物は、当然異次元存在です。
だから、今までの人々は訳がわからないと嘆いていたのでした。
ここまで来ると、デカルト的意識二元論とか、オカルト的意識は全く相容れません。相性があいません。
全ては物理現象が生み出した異次元情報世界の出来事である、との差があります。
でも、意識を物理世界の現象と把握する事は、仏教の、中観(空思想)思想、唯識思想に実態としてあっていると考えます。仏教の考え方は昔の考え方だから物理的意識解釈とは相容れないんじゃないかと危惧しますが、全くそんな事は無いのです。すごく整合が取れるのです。
私の理解では、中観とは空の思想で、空とは空性で“何もない・無とは関係なく”存在しているものがお互いに依存している、だから存在できる(因果律その物)とします。
以前なんかの本で読みました。Netでも同様の記事が存在します。
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
また、唯識についても前ブログに書きましたように、全ては心識・心のみなのです。見えているもの、触れるもの等はすべて心が生み出した現象とします。
詳しく仏教の勉強をしておりませんから、誤っているかもしれませんし、誤読しているかも知れません。でも私の理解は正鵠を射てないまでも、的には中ってるでしょう。
この仏教の考え方は、私の考えている
「意識は“脳活動により構成された情報世界の意味が独立したものが意識である”」にぴったり合うのです。
この世界、全ての認識は脳がおこないます。
脳内の情報世界で構成され・創られた情報の意味が認識その物です。
だから脳内には小人・ホムンクルスは不要ですし、
極端に言えば、外界は何であってもいいのです。
外界からの刺激さえあれば、それとも外界からではなく、どのような原因でもいいから刺激があればいいのです。それが認識の源ですから。
これらは、「認識全てを心識・心が行なう」という唯識の主張に合致する事はいうまでもありません。
さらに空性、「空とはこの世はすべて因果律、因縁、お互いに依存している」ならば、
脳内の情報世界(モザイクボール世界)と合致するのです。なぜなら、脳内の情報世界は根拠無く立ち上がっているのです。情報の意味がお互いに依存しあって、新しい異次元情報世界を組み立てていくという仮説ですから。
脳内情報世界は「空」なのです。
仏教思想がこれほどまで、物理主義による意識認識に合致しているのも、仏教思想が論理的である証拠と思われます。
これもきいた話ですが。
お釈迦様が死ぬとき弟子達の告げた言葉として
「ダルマを心の中心におきなさい。」と言われたらしいのです。
ここでダルマは法のことで、私は「法」とは宇宙原理と解釈しています。
「釈迦の遺言としては、涅槃経にある「自灯明、法灯明」(法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ)という言葉が知られており、佐々木師の文もこれを解説したもの思われる(涅槃経でいう「法」とは「釈迦の教え」のことである)。」
http://wadou.seesaa.net/article/114885958.html
Netより。
いずれにせよ、仏教は宇宙原理、自然論理を包含した偉大な教えであると思っています。
そのモザイクボール情報世界の実証は極めて困難です。
現在多くの脳科学者、心理学者、哲学者には、脳内情報世界の意味という概念がまだないのではないかと思われます。したがって、脳のこの辺りが活動すればこのような気分になるとかぐらいで、脳障害、病気の対策としては当然大きな意味が有ります。
理研では、最終的には脳の全てを理解するという壮大な計画を持っているようですが、実際に行なわれているプロジェクトは、まだまだ小細工の域をでていません。つまり、脳意識の第一原理をシステムとして包括的な解析、追究を行なっていません。アプローチが局所的な解析に終始しています。(間違っていればごめんなさい。)
そこで、どうすれば言いか、前に引き続き。
脳内情報世界は何度も言いますが、異次元世界です。外部物理世界とは別存在です。ただ外部物理世界とは感覚器官と筋肉活動という入出力器官でつながっています。
そして脳内情報世界は外部物理世界を空間認識できます。
そして脳内情報世界は外部物理世界の時間認識できます。
そして脳内情報世界は外部物理世界を記憶出来ます。
そして脳内情報世界は外部物理世界(記憶)を再生できます。
そして脳内情報世界は外部物理世界情報より行動を決定します。
そして脳内情報世界は外部物理世界から満足感を得ます。
等々
上記の機能さえ満足できれば脳内情報世界は意識があろうが、何でも良いわけです。
そしてたまたま(?)意識も脳内情報世界に出来上がったのです。きっとその方が生物にはメリットがあると、進化の中で決められたのでしょう。
その意識が持っている意味も同じく上記の機能さえ実行できればいいのです。
だから、痛みもあなたが感じている痛みでなくて良いし
赤色もあなたの感じている赤色でなくていいのです
丸もあなたが見ているような丸でなくていいのです
さらに、あなたが認識している鉛筆もどんな格好をしていてもいいのです。
まっすぐでなくても、太さ、重さどうでもいいのです
その意味・相対的意味が、情報世界内では絶対的意味になります。
ただ、無矛盾で生活、子孫が出来れば良いようになっています。
不自由でさえなければいいのです。
この機能はどうすれば情報の世界として完成させられるのか。
方法としては、情報の組み立て方を研究するのがスタートになると思います。
脳内情報は、次々と信号が次段に渡されていくようです。
当然、フィードバックもかかっています。
このようなルールの下、信号のつながりの中で、
記憶はどうあればいいのか
認識はどうあるべきなのか
判断はどうあるべきなのか
選択はどうあるべきなのか
指向はどうあるべきなのか
をニューロン、シナプス結合、シナプスの可塑性、脳内ホルモン、脳内ニューロン接続構成などの知識を総動員して、上の機能を情報世界として実現できる接続法をみつける方法を探すのです。
もうお分かりと思いますが記憶とか、認識がこのようになっているときまれば、そこにはもう意味が密着しているのです。
記憶、認識、判断は単独では不可能ですが、物理パターンとして存在しているはずです。
そこにいみが引っ付いているのです。
このあおいトマトよりこちらの赤いトマトがおいしそうだから、赤いほうを食べるとかの意味が引っ付いているのです。
その意味が意識なのです。
最後に。
あなたの意識は基本的には以上のようにできあがっているはずです。
こころ、愛、理性も全て同じ土俵に載っています。
全ては、宇宙原理に依る物理現象の結果なのです。
だから新しい哲学が求められているのです。