日曜のものみの塔研究で。

歌で神を賛美することの価値が扱われたのだが、この中で、パスターラッセルが真理の探究をやめようと意気消沈し街を彷徨っていた時に、教会の賛美歌を耳にしてもう一度力を取り戻したという経験があった。

「ふれ告げる」の本等を調べと、どうやらセブンスディアドベンチスト派の集会であったようだ。

つまり、この出会いがなければ今日のJWはなかったということが言えよう。(セブンスディアドベンチストはJWよりワールドワイドな組織を持ち信者数もJWをはるかに超えている)

我々JWはセブンスディアドベンチストに感謝しなければならない。

と、言うなら敬虔な組織の証人の方から異論が出よう。であれば、その見方を「エホバがセブンスディアドベンチストをお用いになった」とすれば良いのかな。

聖書をみると、エホバはご自分のご意志を果たすために、邪悪な王や偽りの神々をも用いたことが記されている。統治体による出版物にも、確かにそれを肯定する文章がみられる。神はその成就の為には手段を柔軟に変更されるとある。

つまり、エホバがご自分の目的を達成するために用いる人や組織が、必ず正しいもの、必ず最後まで用いられるもの、とは言えないのである。

今日の統治体も同じである。

だからこそ、組織に忠節なのではなく、神に忠節なのである。