“10年後の自分”(800字:小学館、2004年度)なんてどうでしょう?

締め切りは11日の日曜で!

好きな本についても、引き続き投稿受付中です。


存在できない。


この小説を読んだときそう思った。


この作品は小説でしか存在できない。


人生で一度言ってみたい台詞は「僕は『ピアノを弾く』ために生まれてきたんだ」(『』の中はなんでもよい)である僕にすればこの小説はひどく羨ましく思えてくる。


「この作品は小説になるために生まれてきた」と言っているようなものだから。


翻ってこの作品を読むことは小説自体の足場を確認することに繋がる。これを勧めてくれた当時の彼女に感謝しよう。


小説でしか存在できない小説を、小説という形態で読む瞬間はもはや何者も入り込む余地が無くて、僕は八月のある夜を七時間ほど時を忘れてその作品と添い寝することになった。


文字がイメージとなって脳裏に浮かび、文庫本の手触りが物語りの厚みを象徴する。絡まった糸のように交錯したストーリーが脳内に過度な妄想を弾き続けて、リアルとファンタジーの狭間を行き交う主人公と同化する。


まさに小説の醍醐味じゃないか。もちろん小説の醍醐味には色々なものがあってしかるべきなのだが、これほど小説の醍醐味として愚直に理解できる小説を僕はなかなか見ない。


読み終わった後にネットなどでこの作品の評価を確認してみると、賛否両論あるようだった。リアリティがないとかプロットがおかしいとか、一貫性が薄いとか。


リアリティやプロットや一貫性とは、小説の外に存在する概念だ。要するにクリティカルな要素ではない。真にクリティカルな基準は「小説でしか魅せられないものを抱えている」であると僕は勝手に思っているから、僕の中でこの作品の評価は最高レベルだ。


そうそう。題名を言っていなかった。『ねじまき鳥 クロニクル』(村上春樹)だ。

薬指の標本(小川洋子)

昨日、不思議な出来事が起こったため、もうひとつ書いてみました。

長いです。すみません。by 小野いも子

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『六角形の小部屋』小川洋子、新潮文庫


中学生の頃、毎週のように聴いていたラジオ番組があった。地元のAMラジオ局が放送していたもので、毎週一冊の小説を取り上げ、一人の語り部が、静かに、抑揚をつけながら読み上げるのである。毎週一時間、芥川龍之介から阿刀田高まで、色々な小説が取り上げられた。今思うと地味な番組だが、当時の私にとって、小説の中で起こっているような男女のあれこれは、“大人の世界”での出来事であったため、毎週その番組を聴くときは、なんとなく聴いてはならないものを聴いているような、いけないことをしているような気分になりながら、それでも小説の世界に魅せられ、どきどきしながらラジオにかじりついていたことを覚えている。学年があがるにつれ、次第に私は地味なAMラジオよりも、軽快な口調のDJが流行のポップスや洋楽を紹介するようなFMラジオを好んで聴くようになった。次第にその番組で語られていた小説の記憶も風化していった。

そうして知らないうちに、その番組は終わっていた。


しかし、その後高校に上がり、大学進学のために北海道へ行っても、私の心の中にずっとひっかかっている、ある小説があった。題名も、作者も、詳しい内容もまったく覚えていないのだが、その物語の神秘的なイメージだけは残っていた。確か、六角形の形をした小部屋が舞台で、「ユズルさん」という男性が登場する、ということだけは覚えていた。六角形という奇妙な形をした小部屋と、ユズルさんという不思議な男性のイメージは、時たま私の心に現れ、折に触れ小説好きの知り合いに「こんな話、知らない」と尋ねてみたり、インターネットで調べたりもしたが、結局分からないままだった。そうこうしているうちに、その小説のこともあまり思い出さなくなっていた。


その小説と、昨日再会したのである。

再会は、まさに偶然に偶然が重なった結果といっても過言ではない。たまたま書店に入り、たまたま小説コーナーに目が行き、なんとなく表紙と『薬指の標本』という題名に惹かれ、内容も確認せずにその本をレジに持っていったのだ。昨日から、先月なくなった祖母の納骨のために九州に帰ることになっており、ちょうど先日買ったその本が、旅行に持っていくのにちょうどいいような薄さであったため、たまたま鞄に入れたのだった。


一話目の『薬指の標本』を読み終えたあとページをめくった私は「はて」と思った。題名が『六角形の小部屋』となっている。まさかと思ったところ、「ユズルさん」も登場し、私は驚いた。

10年越しに、あの小説の原作と再会できたのである。


ほとんど忘れかけていたあの小説は、このような内容だった。

主人公である「わたし」は、あるスポーツクラブで、平凡で地味だがなぜか心を捕らえて離さない「ミドリさん」という女性にであう。ある日、スーパーマーケットで偶然ミドリさんを見かけた「わたし」は、彼女を尾行する。黙々とついていくと、ミドリさんはとある団地の中の、ある建物に入っていく。建物の中には、「カタリコベヤ」と呼ばれる六角形をしたタンスのようなものがあった。カタリコベヤとは、まさしく語るための小部屋であり、そこに行った人々は一人ずつ小部屋にはいった後、なにがしか語り、出てきたらお金を払う。語ることにより、自分の心の奥底にある核心に触れることで、幾許かの癒しを得て帰ってゆく。ミドリさんは息子のユズルさんと、そのカタリコベヤの管理をしていた。二人は旅をしながら色々な土地に住む人々のために、カタリコベヤを提供しているという。最初は見慣れないその六角形の小部屋に戸惑っていた「わたし」も、その中で自分の心の奥底に渦巻いていた核心に触れることで、ある種の救済を得てゆく。


この物語の中で大きなテーマとなっているのは、癒しである。人々は、六角形のカタリコベヤを通して自分自身を解放し、癒される。と同時に、自分の本心に触れることで、ある特別な神経を使い、部屋を出る時にはたいてい憔悴しきっている。長い時間語ったり、何度も利用したりすることは、神経のバランスが崩れてしまうため、好ましくない。このことは、癒しが快感や開放、決着と同時に、脆さや危険性も孕んでいることを示唆している。もうひとつのテーマが、運命や、人のさだめである。カタリコベヤを必要とする人は、おのずとたどり着くことができる。そうやってカタリコベヤにたどり着いた「わたし」は、六角形の空間の中で、元恋人・美知男との別れは、あらかじめ運命により定められていたことなのか、美知男を憎む運命は遺伝子が作られた時から決まっていたのか、結局のところ人は、あらかじめ定められた場所に向かうしかないのか、ということを語り続ける。ひとつの偶然が、ある運命をもたらし、それをもたらした偶然も、また運命によって定められている。ミドリさんは、どういう経緯によりカタリコベヤにたどり着いたかよりも、『ここまでたどり着けたことが大事』なんだと言う。


読み終えた後、私自身もある特殊な運命をもってこの作品に引き寄せられたような、不思議な気分を味わった。奇しくもこの作品に再会したのは、祖母が死んでちょうど一ヶ月目の昨日であった。生まれて初めて愛する人の死に直面してから一ヶ月、多少無理をしてでも手帳のスケジュールを埋めることで、その喪失感を味わう時間をなるべく減らそうとしてきた。納骨のために九州へ帰るということは、祖母の死を再び目の前で実感しなければならないということである。私自身も今まさしく六角形の小部屋を必要としていたのだ。そのような奇妙なタイミングで六角形の小部屋と再会した不思議さを味わうとともに、その運命を愛しく感じ、幾許か救済されたような思いを抱えつつ、軽い足取りで空港のタラップを後にしたのだった。


以上のようなわけで、突然昨日から、私にとってのこの『六角形の小部屋』とは、好きとか嫌いとか、そういう感情以上の、もっと運命的なもので結ばれた作品となったのである。

(全角2425字)

まあ文才のなさは自分が一番自覚しているので、優しいまなざしで見守ってやってください。お願い、俺にはぬるめで。


『イギリス人の患者』  M・オンダーチェ 土屋政雄〔訳〕(新潮文庫、1999年)

理由:

ともかく 美しい、この一言に尽きますね。

ハア…どうしてここまで美しいんでしょうか。はっきり言って話は地味です。第2次世界大戦末期のイタリアの僧院で繰り広げられる愛の物語には、スペクタクルなんてありません。主要な登場人物はたったの6人、しかも1人は瀕死の自称イギリス人。怪しさ満載です。しかし、このイギリス人が語る愛の物語が、登場人物だけでなく読者までもを、どっぷりと深い物語のそこへ連れて行ってしまうのですよ。

じゃあなにが深いか。なにが美しいか。そりゃもう物語の「多層性」に決まってます。まず登場人物のバックグラウンドがバラバラ。瀕死(自称)イギリス野郎を看護する女ハナはカナダ人。亡き友人の娘(=ハナ)に恋慕するイタリア人の親父は元連合軍スパイ。そんな親父の恋のライバルは、イギリス軍のインド人将校。当然のことながら宗主国に対する思いは複雑の一言では片付けられません。そして怪しいイギリス人(実はハンガリー人)。ああややこしい。そんでもってこいつが冒険譚とものろけ話ともつかないお話をベラベラ喋りだすもんだから、もう時間軸や場所までもがごっちゃになっていきます。素直に死んでおきなさい。

こんだけバラバラの過去を持つものが狭い僧院の中で物語を展開していくもんだから、そりゃ話もこんがらがってきます。好きなのに、好きだから、憎んで憎まれて。話もあっちへ行ってこっちへ行って。

でも読みづらいかといったらそうじゃない。なぜなら文章が独特だから。というか、文章じゃない。詩です。この物語全部、詩で書かれているんです。だから頭で理解するのではなく、全てフィーリングです。言葉に体を預けてみましょう。するとあら不思議、バックグラウンドと時間、場所が複雑に絡み合った多次元の世界を、自分の意識が浮遊してしまいます。これはもはや合法ドラッグ。どっかに意識が飛んで行っちゃいます。がんがんトリップしちゃってくださいな。

ちなみに作者のオンダーチェはスリランカ生まれのイギリス育ちで、学生時代からカナダに住んでいるという、自身もかなりの複雑な出自を持った人物です。多元的な世界は、彼にとって日常そのものなのでしょう。また、訳者の土屋正雄の力も忘れてはいけません。半分はこの人の作品といってもいいのではないでしょうか。訳書にありがちな読みづらさは皆無。陳腐な表現ですが言葉が生きてます。カズオ・イシグロの『日の名残り』も秀逸ですよ。

あとこの話、映画化もされてアカデミー賞までとっちゃってるんで(英語に直訳)、文庫本が非常に安く手に入ります。青と黄色のあのお店で(出版希望でこんなこと言うのは間違ってるんでしょうが、しゃーない、金がない)。105円の美のドラッグ、悪くないです。イギリス人の患者

(全角1092文字)

byヒラタヒラヒラ

画像でかすぎだなー。もういいや、このままで。

matsukuraです。
〆切アウトかな。先日話題にも出たので、舞城王太郎『煙か土か食い物』(講談社文庫)を紹介します。
「一番好きな本」となると怪しいのですが、そういう設定で取り上げるので、勢いにまかせて褒めまくってます。
本気で以下のように思っているかは、実は少し怪しいです。

maijo

「理由」

第19回メフィスト賞でもある本作は舞城王太郎のデビュー作にして金字塔。いつも、読書の際にはいくつかの本を平行して読み進めていく自分であるが、本作は一気に読み終えてしまった。読後の感想はすごいの一言。いったいこの小説の何がすごいのか?

 まず、表紙がすごい!
 黒地に浮かび上がる『煙か土か食い物』(Smoke,Soil or Sacrifices)という謎めいたタイトルは、いったいこれはどんな物語なんだと見るものに勘ぐらせるに充分な求心力を持っている。そして、帯の言葉がまた圧巻だ。
「これが噂のMaijoだ」
「小説界を席巻する『圧倒的文圧』を体感せよ!」
そんなことを言われたら仕方あるまい。「噂のMaijo」とは誰だ?「圧倒的文圧」とは何だ?期待に胸を膨らませつつ頁を開かざるをえない。

 次に、文体がすごい!
 格好よい表紙に惹かれて頁をめくったが最後、すぐに件の「圧倒的文圧」なるものにさらされることになる。計算し尽くされた句読点の位置、改行のリズムはスピード感をもって読者に迫ってくる。時折文中にはさまれるオリジナリティあふれる擬音語は今にも耳に聴こえてきそうだ。多用される福井弁も福井出身の僕にはたまらない。この文圧にさらされ、頁をめくる手はもう止まらなくなる。

 さらに、キャラクターがすごい!
 本作の主役達は奈津川家の四人兄弟である。政治家の一郎、官僚(ネタバレ)の二郎、小説家の三郎、医者の四郎は、彼らの職業から連想されるようなただのエリートではない。彼らの周りには常に暴力がまとわりついている。それぞれの兄弟が自らの立場と知性と暴力とをどう折り合いをつけていくか。そのことへの興味が私の心を引きつけ、彼等は物語のなかで生き生きと動きだす。

 そして、ストーリーがすごい!
 本作のストーリーは四郎が「連続主婦殴打事件」を解決していく過程を軸としている。だが、これは所謂ミステリーではない。事件は四郎の推理によってあっけないほど次々に解決していってしまう。これは他のミステリーではあり得ないことだ。だが、このスピーディな展開は必然的である。なぜなら、先の「圧倒的文圧」はそのスピード感をもって推理の停滞を許してはくれない。さらに、本作にとって事件そのものは奈津川兄弟というクールな人間達を描ききるための材料でしかない。そう、ここでのストーリーはそれ自身のためではなく、小説全体のために寄与しているのである。

 圧巻はこれらの魅力が全て有機的に繋がっているということである。それぞれの要素がアバンギャルドでありながらも、作品のなかに自然に溶け込んでいる。全てが渾然一体となって読者に迫ってくるようだ。よって、私が本作を読んでいる途中、前段落までのような理屈っぽい分析は全く頭をよぎらない。ただただ目の前の活字に飲み込まれていくだけである。それは、まさしく「批評家」ではなく「読者」として小説を読むという素晴らしい体験である。ブログが流行し、皆が批評っぽく何事をも捉えることの多い現代、そうした体験をさせてくれる小説は貴重である。なるほど、「噂」になるのも頷けるというものである。

(1258字)

デンマークに行った時泊まったホテルのトイレ

『河童が覗いたトイレまんだら』妹尾河童、文春文庫

「おたくのトイレ、覗かせてください」

こんな電話が妹尾河童氏からかかってきたら、もう終わり。

河童氏の画力により、自宅トイレの隅々まで覗かれ、俯瞰されてしまう。

この本は、そんな不ウンを被った52人による“我が家のトイレカタログ”である。


一般に排泄欲(?)は、人間の生理的欲求の中でもっとも後ろめたいもの、よって排泄行為はこっそり行うもので、トイレは、家の中でも隅っこにおかれるべきもの、とされている。日本でまだ水洗トイレが普及していなかった時代、この意識はさらに強かったようである。ようやく最近になって、人々がトイレに対してオープンになりつつあるといえる。私がこの本を好きな理由の一つとして、そのような一般的にはタブー視されているトイレという空間に光を当て、明らかにしていこうという、着眼点と発想のおもしろさが挙げられる。


しかしこの本を読み進めていくうちに、当初の「人様のトイレを覗いてみたい」なんていう下世話な気持ちがなくなっていく代わりに、次第に人間とトイレ空間との関わりに関する、なんとも深い世界観が垣間見えてくる。そこがこの本を好きな理由の二点目である。

岸田今日子、田辺聖子、田原総一朗、吉行淳之介、養老孟司など、およそ排泄行為とは程遠そうな著名人が名を連ね、各々が自宅のトイレを公開しながら、トイレに関する思いを述べている。

登場する52人それぞれが、トイレという空間を個性的に活用し、またトイレに対し、それなりの思い入れや哲学を持っている。


びっくりしたのは、トイレを書斎や読書スペースとして活用している作家が意外に多いということである。

建築家・清家清氏にいたっては、トイレの中にデスクトップ型のパソコンまで置いてある。

その他にも、趣向を凝らした置物や絵などで、「ここだったら住んでもいい」と思わせてくれるような、なんだかいい香りが漂ってきそうな、心地よさそうなトイレも多い。


トイレとの関わりについても様々である。トイレを「隠れ家」とする人、「くつろぎの空間」だとする人、「精神統一の場所」や「思考や構想の場所」とする人。

各人のエピソードを聞くにつけ、「ウ~ン、トイレとはこんなにもさまざまな活用方法があるのだな」と目からうろこが落ちる思いである。生産と廃棄が同じ場所で行われているというのがなんとも感慨深い。

排泄行為を、日常的な活動の延長とみなすか、あるいは、なにか神秘的な儀式とみなすか、そういった意識の差が、トイレの活用方法やトイレとの関わり方に表れているように感じられる。国や地域によるトイレ文化の違いにも、同じことが言えるだろう。


トイレとは、一生個人的で、誰も助けることのできない、まさにおのれ自信との葛藤の場所である。しかし一日数回はかならずお世話になる場所である。その個人的空間をいかに利用・活用するかを見ることで、その人自身がどういうスタンスで生きているかも垣間見えてくるように感じられる。


それにしても、それらをペン一本で詳らかに描き出す河童氏の緻密な観察眼、画力には圧巻である。なんと歯ブラシ一本、タイル一枚に亘るまで正確に描き出したというから、その忍耐力にはあっぱれである。

しかし妹尾河童という人はどんなおもしろいおじさんなのだろう。いつまでも少年の瞳を持った大人とは、まさしく彼のことを指すだろう。

(全角1373文字)


記事担当:小野いも子


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だめだしたのんます!

一番バッター?しかも生粋の理系人?


基本的な文章力が備わっていない可能性がありますが、そこは、診てもらうは一時の恥、ということで、どうか治癒してあげてください。

忌憚の無い意見をお待ちしています。どうぞ遠慮なくイジメてください。


一番好きな本?

『賭博黙示録カイジ』 福本伸行 (ヤングマガジン講談社)


カイジ


その理由

図らずも、借金塗れになってしまった今時のダメ青年であるカイジが、その現状を打開すべく、魑魅魍魎の蠢く地下組織の非合法ゲームで一攫千金を狙っていく過程が描かれた、いわゆるギャンブル漫画である。
まず、パラパラと本を捲って誰もが思うだろうこと。それは、『絵が上手くない』ということである。漫画としては、ある意味、致命傷である。しかし、一旦読み始めると、それを忘れさせるほどのアッと驚く展開に目が離せなくなるのである。


圧巻は、『限定ジャンケン』の章である。ジャンケン如きで数百万円が動くというギャンブル内容自体にも驚きだが、このゲームで繰り広げられる、数々の醜くも鮮やかな駆け引きには誰しも目を奪われずにはいられないだろう。さらに、この章に限ると、仮想的な経済ゲームという側面もあるので、ただの漫画と侮るなかれ。読めば読むほど非常に奥深い内容なのである。


全編を通して、カイジらは、非合法ギャンブルという、下手すると生きるか死ぬかの極限状態に置かれている。そこで渦巻く、人間の汚さ、迷い、そして、それら全てを解き放つ、火事場の馬鹿力的な閃き、の全てがストレートに私の胸に突き刺さるのである。仮に、登場人物の一人一人を私に置き換えたとして、果たして私は、彼らと同じ思いを抱き、彼らと同じ行動をとるのか。想像しただけで、心底からギョッとしてしまうのである。


この大胆な物語設定は、100%フィクションであろう。それにも関わらず、もしかしたら、この世界のどこかで、今まさに繰り広げられているのではないかと錯覚させられるほどの、細かな心理描写からくる不思議なリアリティが、私の心を惹きつけて止まない所以であろう。

(以上全角693文字)


by しゃちょう

shibuya



2005年11月某日。

東京渋谷で、未来の書を憂う若者たちが集いました。


読ませ、惹きつけるそんな文章たちを書き綴ることができればと。



しかしまあ最初からそんな気負っても仕方がないので、精一杯書いていきましょう。




by 戸比塚タミト