映画監督・富田真人のブログ

映画監督・富田真人のブログ

舞台
2002年「死ぬる華」
2015年「宇宙ごっこ」
2016年「人でなしの恋」
2017年「#三島由紀夫」
2018年「詩の朗読会」

監督作
2020年「the Body」
2023年「不在という存在」

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World's End Underground(以下WEU)と題された鯨井謙太郒と定方まことによるユニットCORVUSの企画は2022年10月22日に行われたトークイベント#カタルカイから始まり、12月20日の東京中野テルプシコールでのワークショップ#ウゴクカイまでの約3ヶ月間、仙台と東京を軸に多くの人々との関わりを持ちながら公に秘に様々な「動き」を起こす「運動体」としての社会活動である、と私は理解している。


その運動体WEUの#フレルカイとして行われた11月22日と23日、エルパーク仙台での公演について記したい。


エルパーク仙台は、2013年のCORVUSの公演「雪の聲」に朗唱として共演した場所である。その2年後には鯨井との共作「宇宙ごっこ」を公演した。

その意味では私にとってもCORVUSの2人との因縁浅からぬ場所である。その場所で、映像コーディネーターという役割を担いながら現場に関われた事は光栄な事だった。


オファーの段で鯨井に「TOJUさんと関わりのあるマー(わたしのこと)に居て欲しい」と言われた。

TOJUさんとは、昨年亡くなってしまった鯨井の父であり、私も幼少期から40余年お世話になり続けた方である。TOJUさんは、平面、立体問わず多くの作品を産み出した美術家であり、生前CORVUSの舞台でも度々様々な形で関わっておられた。今回の公演では「共演」という形を宣言しており、弔いや召喚なのか生死の越境の為になのか真意は不明だが、「私が居ることの意味」を烏滸がましくも直感した。具体的な力としては私は全く力不足であり足枷以上の意味を為さないことは承知の上での依頼であったはずである。




「関係性」とは長年CORVUSのテーマの1つであったように思う。7年前、共作した宇宙ごっこのチラシに鯨井がこう記していたのを思い出す。


「宇宙の未来は、人と人とのリレーションシップ無しには、もう1ミリも動かないだろう」


この実感は、ダンサーとしての直感というだけでなく、振付や制作、舞台設営からテクニカルまで自分たちで行ってきた経験、更にはそれらを他者へ委ねていく事、そして「集客」という全ての創造行為から齎されたものだろうと思う。当然、CORVUSという「2人の関係性」を軸に12年間作品をつくり続けてきたのだろうとも思う。今回出演を依頼したダンサー達との新たな出会いの中にもその意識が流れていたはずで、関係性の糸の、その1本1本には多様で個別な「時間」や「技術」や「信頼」や「未知」が宿っているにせよ、舞台上で顕現する編まれた糸の総体がどんな形象になるのか、そこに出演者それぞれや観客、いや世界全体がどんな意味を見出すのかを問う試みであった気がしている。編まれた関係性が、宇宙をどう動かすのか、という。


ともかく恐らくは過去最多の「関係者」を擁したこのWEUは、反比例して集客に苦戦していた。そしてその事が、金銭面の切実さを度外視するならば、どういう訳か私は「それで良いのではないか」と半分腹落ちもしていた。半分は怒りや落胆や心配が占めていたけれど。


この「観客の不在性」はどのパフォーミングアーツの現場でも残念ながら一定の普遍性を持っているはずである。常々私はその事に憤ってきた。私の周囲を含め、皆一様に「忙しい」のであり「感性の乏しさを露呈しかねない場を忌避」し「心を休めたい」のである。その全てが誤謬で幻想だと声を大に訴えた所で、人を1人劇場に運ぶ難しさは増すばかりで、私は常に絶望している。


漸く本題に入る。


22日15時の回は、共演者としてTOJUさんの名がクレジットされており、その作品群や図録が舞台上に並べられ、私はそれを舞台面でカメラを通して舞台奥のスクリーンに映し出す、という役割であった。オープニングアクトとして、何一つ決め事の無い中で私はCORVUSの2人を見る余裕もなくひたすらTOJUさんをレンズ越しに探していた。この回がどのようなものであったか、客観的に観ていないので全体を言語化しようもないが、終演後の自分としては、もっとやれることがあったのではないかとの思いでいた。個々人の極私的なTOJUさんとの結び付きが、その有無を含めて大いなる戸惑いと共に舞台上に開かれるという事の意味を考えていた。私は少し落ち込みながら会場の屋上で喫煙していた。いつもならここで、少し猫背にノシノシと、笑顔で大きな手を上げながら近付いてきて、煙草を咥えながら少し高いキーで「いやーマー君良かったよー」と言ってくれるはずのTOJUさんはここには現れなかった。



22日19時半の回。

川村美紀子さんというダンサーをこのWEUを通じて恥ずかしながら初めて知る事が出来た。この回からは、前半に「即狂空間」と呼ばれるゲストダンサーとCORVUSの2人の即興の動きがあり、それにAPE TOPEというDJユニットがこれまた即興で音を入れる、というパートが約40分。その後、渡邉茜さんと酒井直之さんとCORVUS、野口泉さん、そしてピアニストの上田早智子さんによる、構成されたWEUのパートがある。私は後半からTOJUさんの図録が撮影されたものをプロジェクターを使いスクリーンに映し出すオペレーターとして参加している。この映像は写真家・高木由利子さんの撮影だ。


当初仕事の都合でこの回は入らない予定であったが、どうにも川村さんを観たくなってしまい予定を曲げて立ち合うことにした。


そして、今回のこの文章を書こうと思った最大の理由がここにある。


彼らの名付けた「即狂」という言葉と川村美紀子というダンサーに予感した「狂」を私はついぞ発見しなかった。


これは決してネガティブな感想ではなく、「狂う」という事への私の固定観念や先入観を覆された、という方が正しい。


「狂う」とは1つの固定された状態ではなく、ましてや私のような単細胞な観客の望む「わかりやすい破天荒な振る舞い」を行う事では無いのだと知った。いやそれも1つの狂いには違いないだろうと思うが、「狂う」とは「狂っているか否か」ではなく「狂うことが出来るか否か」なのだ。「秩序」と「カオス」は分かち難く繋がっていて、どちらかが単独で存在する事は有り得ない。精緻に整えられた秩序が際立てば際立つほど、その狂いが鮮やかになる。逸脱だけを存在させようとするのは不可能に近い。「檻」という概念無しに「逸脱」は無いからだ。


では「狂い」は単に逸脱なのか。「自由」とは「抑圧からの解放」なのか。この公演を通じて、私はハッキリとその事にNOを突き付けられた気がしている。「狂い≒自由」とは極限までの能動性によって辿り着く針の山の山頂である。「何も決めずに舞台に上がる」という最高に「不自由」な状態から3人が発していたのは、「秩序」と「カオス」のようにもたれ合う概念的言葉遊びではなく、「どこにも辿り着けないかもしれない」という覚悟と、ひたすらな自己の内部における能動性の解放である。現に冒頭から川村がサプライズで持って登場した「風船」は1つの物質として突出した違和感や存在感を持ってしまい、全体がその存在を中心にせざるを得ないような「秩序」を齎していた。定方に繋がれたそれはダンサーの身体という隅々まで意識の張り巡らされた物質性と違い、ある種の「所在の無さ」のような感覚を伴いながら在り続けていた。広大すぎる3つの身体の自由は、風船というたった1つの物質的秩序にさえ容易く収斂してしまいそうになる。そこに耐えながらやがて身体が前面に出てくると全体が「狂いへの予感」「自由への予感」として充満し、観る者をある種の「不自由な秩序と緊張」の水底に沈めながら、水面越しに光る「狂い」を予感し続ける時間があった。

CORVUSにとって、その積み重ねてきた時間を経たからこそ、今「狂うことが出来るか否か」の挑戦であったに違いない。その狂いの山頂から見せてくれる景色は、東京公演に委ねたいと期待している。


渡邉茜さんと酒井直之さんの登場するパートからは一転して「構成」という段取りが曲と映像と合わせて展開する。この2人のダンスが実に雄弁で、且つプロジェクター映像という二次元性を三次元世界へ引き出す役割として非常に活きていた。どこからどこまでが映像世界で、どこからが私たちの生活世界なのか、という普段から意識を持たないと境界出来ないような現代社会のど真ん中に生きる身体だからこそ為し得た演出だったろうと思う。


単純化するようで嫌だが、過去→現在→未来という社会時間の当然のベクトルが、実は単に記号的に便利に使われているだけであり、時間の実在とは未来から(も)流れている事を感じた。渡邉さん酒井さんの身体を見ていると、身体という物質の外側に空間(時間)があるのではなく、物質の内部に空間(時間)が在るという印象を受けた。その物質としての身体の内部に広がる無限の空間の射影が、時に目の開きや腕の一振りから溢れ出す。そのように軽やかに次元を往来する2人の存在が、私にとっては遥か遠い「未来のアダムとイヴ」として映っていた。


また野口泉さんの、「存在の質量」にも圧倒された。「半分外側」からの「知覚者としての存在」無しでは舞台上で展開する世界全体が存在出来ないほどの質量を感じた。




23日15時の回。

#フレルカイ仙台公演はこれで最後である。

この1週間ほど前だったか。CORVUSが解体、解散するという話を聞いていた。つまり、CORVUSとして仙台で踊るのはこれが最後だ。12年の全てをぶつけるのだろう。オペをしながらではあるが、全力の眼差しで応えたいと思った。


工藤丈輝さんがこの日の即狂共演者であった。

開場前から舞台上では叫びなり動きなりが始まっていて、会場の空気全体を工藤さんが引っ張り上げている。昨夜の予感的緊張感とは違い、むしろ客席から笑いが溢れるほど、工藤さんの存在の懐が観客を安心すらさせているようだった。そこにCORVUSの2人が文字通りぶつかっていっているように見えた。昨夜よりずっと輪郭のはっきりした、「見える」狂いであった。各自の所在が可視化された分、物理的には重なっていても、3人の「間」に見えるものの危険度は昨夜の方が多かったが、舞台としての開かれる力、見せる力を強く感じた。またAPETOPEの音との相性もこの組み合わせにハマっていたように思う。


後半も楽日ならではの解放された雰囲気があり、渡邉、酒井の「次元を跨ぐ未来感」の強さも、ある意味原始的な振る舞いに反して非常に現代的な質量の無さが宿っており、それがポジティブに次元を軽やかに超えていく様が私には「希望」として赤く白く光っていた。


非常に個人的な思いを胸に抱いているはずのCORVUSの2人が、私にはとても「無私的」に見えていた。逃れ難い「欲望」みたいなものを際限なく溢れ出させる事を彼らは恐らく「狂い」と呼ばないだろう。溢れ出す欲望とそれを満たそうとするシステムは「正常な社会」の中で存分に実現している。それをなぞる事は狂いでもなければ芸術でもないかもしれない。彼らはいつでも純粋さを尊んできた。「異常な世界」で純粋足らんとするならば「無私的に狂う」しかないだろう。CORVUSという「個を超えたもの」から鯨井謙太郒と定方まことという「個と個」へ解体することは、決して各人の欲望に従うものではないはずだ。


最も小さなものが、最も高次元である事に間違いはないだろう。CORVUSの解体はその意味で、発展的に個へと解体されるのだろう。個へ回帰するのではなく、個に発展するのだ。


生前TOJUさんに聞いた「一.二.三の思想」について思い出す。一つであったものが二つに分かれ三として一になる。という山水画についての解説であったと記憶している。CORVUSは一から二へと進むだろう。その道程に、傍らから関われた事を嬉しく思っている。CORVUSがいた私の12年と、存在しなかった私の12年とでは当然ながら明らかな違いがある。CORVUSが起こしてきた数々の奇跡のような運動体の一つの結実として、また三へと向かう新たなスタートラインとして、World's End Undergroundというその始まり方にこそ私は感動を覚える。


世界の終わった灰色の荒野に、一羽ずつそれぞれの方向へ大きな鴉が飛んでいく。その存在こそ、終わりの向こう側にある「存在の予感」としてこれからも私を、社会を、豊かに色付けていくだろう。




2022.12.1 富田真人