「周りに迷惑かけないようにしなきゃ」



「一緒にいる人を不愉快にさせないようにしなきゃ」



そのために、



「特性が目立たないようにしなきゃ」


「頼まれたら何でも引き受けなきゃ」


「”使える人”って思われるようにしなきゃ」


それってほんとに「好かれる」方法でしょうか?



筆者も会社勤めしてたときは、「周りを不愉快にさせないようにしなきゃ」って思って一生懸命自身の持つ特性を調べて公共の場ではそれが出ないように常に神経を張ってました。



頼まれたことも断らずに何でも引き受けてたし、会話も喋りすぎないように出来るだけ聞き役に徹してました。



それもこれも「好かれる人」になりたい、「普通の人」として周りに溶け込みたいっていう一心だったんです。



確かに特性を必死に抑え込めればその時は「普通の人」として通ります。




「今日は上手く接することが出来たかな?」


「変な人って思われてないかな?」ってずーっと自分を見張り続けなければならなかったんです。



それはそれは膨大で辛い作業でした・・・・・。



昨日まで普通に話ししてた人が今日になって何か不機嫌で自分に何にも話しかけてくれないと



「あれ?、なんか自分不愉快にさせてしまう話し方したかなぁ?」


「やっぱり、発達障害の自分の話し方はどこかおかしいのかな?」



って全部自分に矛先を向けてしまうんです。



「もっと特性を抑え込む努力をしなきゃ」


「もっと普通っぽくならなきゃ」ってどんどん「本来の自分」を否定し、離れようとしたのです。




その甲斐あってか念願の「普通っぽい人」になれたんですけど、その”念願”の「普通っぽい自分」は生きやすさを与えてはくれませんでした。



特性が目立たないように極力他人との会話は避けてたし、頼まれたことはなんでも引き受けてました。



だってそれが当時者が周りから受け入れられる手段だと思っていたし、きっと”好かれる”だろうと思ってました。




しかし、筆者は気づきませんでした、自分は「好かれる人」ではなくただ単に「扱いやすい人」になっていたんです。



「扱いやすい人」になってしまった筆者はだんだん「存在感のない人」に変わっていき、いつしかいてもいなくてもどっちでもいい人になっていきました。




「え?こんなに頑張ってるのにどうして・・・・?」



「やっぱりまだ特性を改善しきれてないんだ、もっとがんばらないと・・・・」



でも、周りの反応は全然変わらない。




ただでさえ特性を抑え込むのにエネルギーを費やしてるのに、その他にも「好かれる」ように頑張っていたため、筆者には”鬱”という形で「強制終了」がおとづれました。



そこで筆者は気づいたんです。「好かれる人」=「扱いやすい人」ではないことに。



「好かれる人」は”好かれようと”自ら働きかけなくても”そのまんまの自分”で”勝手に好かれていくんです。



そこに「努力」や「頑張り」なんて必要なかったんです。



「扱いやすい人」って一見聞こえは良さそうですが、



「扱いやすい人」って「どう扱ってもいい人」でもあるんです。



それに「扱いやすい人」って「扱いにくく」なった途端人が離れてくんです。



それを繋ぎ止める努力は「底に穴の開いたバケツに」に水を貯めるようなもの。




筆者は「好かれる」と思ってしてた行為は自分は人にどう扱われてもいいって公言してたようなものだったんですね。



そして底に穴の開いたバケツに水を貯めるかのように無駄な頑張りにエネルギーを費やしてたのです。



どう扱われてもいい人が人から大切にされるわけありません。



特性全開でもいいって言ってくれる人だけいてくれればいい、みんなに好かれなくてもいい、嫌われていい。



どうせ、「そんなあなたでいい」って人が現れるし。