<b>発達障害者の「気を付ける」は、”気を付けてれてない”



発達障害者の「やってるつもりは」実は”やれていない”




<b>「気をつけなさいね」  「やりなさいね」っていくら反省を促したってまたやってしまうんです。



いくら方法論を説いたって出来ないんです。




だから、障害なんです。



だからサポートをお願いしてるんです。



そこを理解せず、「いや、本人の努力が不足してるんだ!」 「教えれば出来るんだから、なんとかなる!」と言って本人を責め立ててもいつまでも並行線のままなんです。



だからその出来ない部分を必要としない生き方を探すって至極当然のことじゃないですか?



「諦めてる」「甘えてる」って捉えられるかもしれませんが、いつまでも無いものねだりしたって時間の無駄じゃないですか?



そんなことより、今あるもので何が出来るか?って考えたほうがよっぽど建設的だと思うんだけど・・・・・。



自分も支援施設で訓練してたし、周りのサポートと「言われるもの」を見てきたけど、なんか出来ない部分を補う方法が出来るまでやるって精神論に偏ってる気がするんだよね。



だから出来ないんだって! 何百年続けたって無理なんだって。



手足が欠損している人に「手足がないのは、生やそうとしないお前が悪い」って言ってるようなもんですよ。



障害って精神論でどうにかなるほど甘いもんじゃない。なったとしても膨大な時間を費やすことになる。



無いものねだりしたってしょうがない、今あるもので生き抜いていく。これこそが”真のサバイバルなんじゃないでしょうか?



出来ないなら出来ないなりの方法を探す、”出来ない部分を必要としない生き方をさがす。これって決して悪いことじゃない。



「気を付けてください!」 「もっと注意しなさい!」って反省を促して責めるのは全然サポートになってませんよ。


誰だって失敗なんかしたくありません。そうやって責められるたび、どうしようもない罪悪感に当事者は悩ませられてるんです。



失敗するんです、注意できないんです、気をつけれないんです。



だからサポートするんだったら”失敗する”前提で暖かく見守ってあげてください。



それが我慢ならないんだったら黙ってその場を去ってください。それも優しさです。