-
「選択的夫婦別姓」とんでもなし。親子別姓が強制される。
-
(1) 「選択的」夫婦別姓とは、欺瞞である。
言うもさらなりであろうが、「殆ど生まれながらの右翼」と自称し、恐らくは「自他共に認める(であろう)」私(ZERO)は、「我が国が選択的夫婦別姓を導入する」ことには、絶対的に反対である。
まあ、「絶対」なんて形容詞を多用するのは、「当人の頭の悪さの発現・発露」と考える私(ZERO)は、「絶対温度」と「絶対値」ぐらいにしか「絶対」なんて使わないように心掛けて居るのだが、今回は敢えて「絶対」を使って、強調の意志を示している。
-
(2) 私的「選択的別姓」反対理由
私(ZERO)が、「選択的夫婦別姓に、絶対的に反対する理由(*1)」は、大きく言って以下の三点である。
- ①我が国戸籍制度の破壊である
- ②どう足掻いても「親子別姓」を免れない
- ③我が国の婚姻制度の破壊たり得る
それぞれ補足しておこう。
先ず、「①我が国戸籍制度の破壊である」は、ほぼ自明であり不可避と思える。なにしろ我が国の戸籍制度は「夫婦同姓」を前提としているのだから、「選択的」であろうが「強制的」であろうが「夫婦別姓」とすることに依る「我が国戸籍制度の大幅変更」は不可避である。この点は、「夫婦別姓推進論者」でも、否定は出来まい・・・多分。
その上で、「夫婦別姓推進論者」は、かかる「戸籍制度の大幅変更」を、「些細なこと」又は「良いこと」として、その弊害・障害を軽視乃至無視している、らしい。「我が国戸籍制度の改革であり、進化である。」ぐらいに思っている輩も、中には居そうだな。
否寧ろ、「我が国戸籍制度の改革」をこそ目的として「選択的夫婦別姓推進/擁護」を主張する者も、居そうだ。
些か邪推を巡らすならば、「歴史を遡ると神代の昔に至ってしまう」我が国の「家名を辿れば相当昔まで(*2)遡れる」戸籍制度ってのは、先祖崇拝を基本とする儒教からすると「気が狂いそうになるくらい妬ましく、羨ましい」だろう事は、想像に難くない。コレに「日本の伝統は全て日本の軍国主義の源」と考える左翼だか「GHQ残党(*3)」だかが合流すれば、そりゃ「選択的夫婦別姓推進/擁護」の大合唱も、沸き上がろうというモノだ。
ま、「GHQの政治的残党」は未だしも、「日本が妬ましい潜在的儒者」がどれ程居てどの程度影響力を持つかは、少なからず疑問ではある。
だが、そんな「陰謀論」を「邪推として巡らしたくなる」程に、昨今の「選択的夫婦別姓推進/擁護論」は、異常で異様で異形である。【敢えて断言】
「②どう足掻いても「親子別姓」を免れない」ってのも、昨今の「選択的夫婦別姓推進/擁護論」が随分と軽視してくれる点である。流石に「子供の姓はどうするか?」は議論の俎上に登り、婚姻の際に定めるとか、出産の際に定めるとか、揉めたら裁判で決するとか、一応の「議論」はあるようだ。
有り体に言って「アリバイ作り」の域を全く出ていないが。婚姻の際に決めようが、出産の際に決めようが、裁判で決めようが、「子供が、母か父か何れかの姓しか選べず、他方とは異なる状況を強制されている」点には殆ど考慮されていない。
「父と母が別の姓である」ってだけでも、従来従前の家族制度からすれば異常事態である。そんな異常事態に「選択的夫婦別姓を選択した夫婦の子」は「否応なしに巻き込まれる」。しかも当人の意志とも意向とも全く関係ない方法で「母か、父か、何れかの姓に、決まる」ことになる。
その母と父は、自らの意志で「選択的に」夫婦別姓を「選択した」/「選択できた」にも関わらず、だ。
普通に考えて、左様な「夫婦別姓を選択した夫婦の子供」は、相当に深刻な「アイデンティティーの危機」を余儀なくされる。先ず、半分ぐらいは「グレる」と予想される。またそれは、ある意味「当然の結果」だろう。
言い替えるならば、「選択的夫婦別姓」は、前述の「我が国戸籍制度の危機」で在るばかりでは無く、「我が国民の家族制度その物の危機」となる可能性がある。
左様な「可能性」を「軽視する」事は出来るかも知れないが、否定することは、チョット出来そうにない。
ごく僅かでも左様な「可能性」を認めるならば、そんな「我が国民の家族制度その物の危機」を犯してまで得られる「選択的夫婦別姓」のメリットを、「選択的夫婦別姓推進論&擁護論」を唱える者は、審らかにすべきである。
「婚姻の自由度」だの「個人の自由の拡大」だのの美辞麗句で、「家族制度そのもの危機」というリスクを冒せるだけのメリットと、説けるモノなら、説いて見やがれッてんだ。
「孝行は百行の基」とさえ言う。家族制度は、社会基盤の根幹であろうが。
上記①、②に比べらば、「③我が国の婚姻制度の破壊たり得る」は、「些事」と言っても良いぐらいの「軽さ」ではある。「家族制度の危機」の一環でもあるし、な。
唯、コレを②とは別項目としたのは、同じく「家族制度の危機」ながら、さらなる「危機」への「布石」と思えるから。即ち、「選択的夫婦別姓」は「婚姻制度の破壊」たり得、「同性婚」への入口たり得る、と考えるからである。
言うもサラなりながら、私(ZERO)は「"同性婚"なぞ、言語矛盾である」とまで断定断言し、我が国に「同性婚」制度を導入することに強く反対している。
「結婚」とは、現状にの日本国憲法にも明記されているとおり、「両性間」にのみ成り立つモノであり、同性同士の「カップル」が、如何に愛し合い、生計を一にし、同居して長かろうとも、それを「結婚している」とは言わない/言えない。
精々の処、「同棲している」と言うだけであり、「内縁の配偶者」とすら言えないし、言うべきでは無い。
故に、「同性”婚”なぞ、言語矛盾である」と、私は断定断言し、主張する。
世界には「同性同士のカップルに婚姻を認める、”同性婚”制度が、ある」と言うことは知っている。そう言う制度が新しいことから、「同性婚」と言う言葉もコンセプトも新しいモノである、と言うのは事実だろう。
だが、「新しい」と言うだけだ。我が国に於ける「夫婦別姓」もそうだが、「新しい」と言うだけで、「我が国が採用し、制定する」理由とはならない。
少なくとも私(ZERO)は、「夫婦別姓」制度が(選択的であろうと強制的であろうと)、「婚姻制度の破壊」たり得るが故に、「同性婚制度への布石」となることを恐れ、警戒し、危惧する。
それ故になお一層、「選択的夫婦別姓」制度に反対する。
- <注記>
- (*1) 言うまでも無かろうが、「制度的・強制的・夫婦別姓」には、もっと反対である。
- 「絶対的」よりも強い形容詞が、チョット思い付かないのだが。コレだから「絶対」なんて、滅多に使うモノでは無いのだ。
- (*2) 流石に「神代の昔」まで遡れるのは、皇族ぐらいだろうが。
- (*3) 無論、「仮称」である。大東亜戦争後今年で80年になるのだから、大東亜戦争直後のGHQの、直接的意味での「残党」ってのは「ナチの残党」レベルに数が少ない、筈である。
- だが、その「GHQの日本統治」を理想とし、その「衣鉢を継ぐ」輩、謂わば「精神的後継者」「精神的末裔」としての「残党」は、今も厳然と居る、と思うぞ。
-
(3) 素晴らしき「選択的夫婦別姓」世界
「選択的夫婦別姓」なる制度の「選択的」というのは相当な虚偽乃至欺瞞であり、それは「強制的親子別姓」となることは、一寸考えれば明らかな処であるが、それはたかだか「親子二代」=二世代の話、でしかない。
「選択的夫婦別姓」が導入され、その執行が(米国の「禁酒法」などと異なり(*1))長期に渡った場合、当然ながら世代を経ることとなり、「何世代にもわたって夫婦別姓である夫婦から生まれた子や孫や曾孫、玄孫」が産まれ、増えていく、事になる・・・筈だ。
「別姓を選んだ夫婦には出産も養子も禁じる」なんて、かなり非人道的な規制をしない限り(*2)、それは、必ずそうなる。今現在「夫婦別姓を認めている国」もあと百年ばかりその「夫婦別姓」を続けていれば、そうなるだろう。
さて、そんな「夫婦別姓」世界を想定し、想像するのは、「夫婦別姓」を擁護し主張する者の「義務である」とすら、私(ZERO)には思えるのだが、そんな「夫婦別姓」世界を想定した例は寡聞にして(私(ZERO)は)知らないから、此処で些か想像力(邪推、かも知れないが)を巡らしてみようではないか。
言い替えるならば、「夫婦別姓」世界は、「素晴らしいか?」という設問でもあれば、「現状よりはマシか?」って言う疑問・質問でもある。
先ず、左様な「夫婦別姓」世界では、御先祖様とか家系とか言った概念が希薄になる事は、間違いなかろう。「○○家累代の墓」ってのは、今の一般的墓石銘であるのだが、左様な表記の意味も薄れて行くだろう。そんな「○○家累代の墓」には「入らない」として、個人名の墓を独立させて立てるとか、散骨などで「墓石の無い墓」を選ぶ者も、増えるだろう。
そう言う傾向は今現在もあるし、「夫婦別姓」世界はその傾向を加速し強調する「だけ」かも知れないが、「加速・強調する」事は間違いなさそうだ。端的に言えば、「家の軽視&個の強調」ってことになろう。
それこそ正に「夫婦別姓」が目指した処、ではあろうから、「夫婦別姓」擁護論者達には「願ったり叶ったり」ではあろうが。
だが、それは、「累代○○家」=「御先祖様」の軽視であるから、当然ながら「子孫に軽視される」結果を惹起する。
「○○家累代の墓」ならば、「○○家」の名を受け継ぐ子孫から相応の庇護を受ける事が期待できそうだ。が、「○○△夫の墓」では、余程の功績事績が後世に残る様な者で無い限り、「無縁仏」となる公算大であろう。
言い替えるならば、「夫婦別姓」を擁護する者は、「己が墓が無縁仏となる」可能性を増大させていることを自覚し、覚悟すべきだろう。
- <注記>
- (*1) 米国=アメリカ合衆国って国が、その由緒来歴が故であろうか、妙に「理想主義に走る」事が偶にあり、「禁酒法」ってのがその典型例である、と、私(ZERO)は考えて居る。
- (*2) 且つ、そんな規制が厳格に守られない限り。
-
(4) 「選択的夫婦別姓」は、現世利益・現世代利益のみを求めた、近視眼的利己主義の産物である
家族制度とか、家系と言ったモノが意味を持たない様な新興国や、全ての伝統を否定した革命で成立したような国(コレもある種の「新興国」だ。)ならば、「夫婦別姓」を導入しても、問題は小さいだろう。
だが、我が国は、日本は、その歴史を遡ると「有史以前」の「神代の昔」まで遡ってしまうような、歴史と伝統の塊みたいな国だ。家系にしたって、皇室なんざぁその家系を「神代の昔」まで遡れてしまう。下手な国・・・否、大抵の国は裸足で逃げ出すような古来の伝統である。
即ち、我が国は、「世界で一番、”夫婦別姓"制度を採用してはならない国」なのである。
さ、あらばこそ、「GHQの精神的末裔」共やら「実は儒教主義だが、儒教的伝統には欠けている」某国やら某国やらからすれば、我が国に「選択的夫婦別姓」を導入させたくて仕方ないのだろう・・・と、邪推も巡ろうってモノだ。
左様な陰謀論の正否は兎も角、我が国が「選択的夫婦別姓」をもし導入するとするならば、世界でも一番最後であるべきであろうよ。