• 思い切り、「単眼近視」が、何を言う。-【琉球新報社説】「ゲン」「福竜丸」削除 複眼的に被爆を伝えたい


 「善を為そうとして不善を為し、不善を為そうとして善を為す。それが、人というモノじゃよ。」

とは、何度か引用している池波正太郎の小説「剣客商売」主人公・秋山小平の名科白。この名科白に準えるならば、

 「"差別反対"を主張して差別を為し、”多様性”を訴えて異論は認めない。」ってのが、「人というモノ」かも知れないが・・・私(ZERO)は秋山小平ほどには「人間が出来て」は居ない(*1)。

 「”差別反対”を主張して差別を為す”差別反対論者”」も、
 「”多様性”を訴えて異論を認めない”多様性支持者”」も、


私(ZERO)に言わせれば、思考停止と知的退廃の現れであり、賛同どころか軽侮の対象でしか無い。平たく言えば、「頭がおかしい」としか、思えない。

 下掲する琉球新報社説なんてのも、その一例だ。

  • <注記>
  • (*1) イヤ、「人間の出来」という点では、秋山小平は「化け物」だぞ。幾ら小説の主人公でアリ、ある種の「理想的存在」であろうとも。 


 

  • (1)【琉球新報社説】「ゲン」「福竜丸」削除 複眼的に被爆を伝えたい

「ゲン」「福竜丸」削除 複眼的に被爆を伝えたい

 

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1672664.html

 

 

2023年3月6日 05:00

社説

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 多様化する社会でも普遍的な価値を持つものがある。沖縄戦や広島・長崎での被爆体験の継承がそうだ。歴史に学び、平和な社会を築くために必要不可欠なものである。

 

 広島市教育委員会が市立小中高校を対象にした平和教育プログラムから漫画「はだしのゲン」、米国のビキニ水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」の記述を削除する。全国から疑問の声が上がっている。

 教材として「被爆の実相に迫りにくい」という理由だ。だが「ヒロシマ」の象徴ともいえる「ゲン」、日本の反核運動が高まるきっかけとなった福竜丸事件を削除して、多様な学びが保障できるだろうか。複眼的な視点を提供することが教育行政の役割である。広島市教委に再考を求めたい。

 記述が削除されるのは、広島市教委が2013年度から始めたプログラムに使う教材「ひろしま平和ノート」だ。19年度から大学教授らが改訂の必要性を議論した。

 広島市教委が公開した改訂内容一覧によると、小学校3年の単元にある「ゲン」に関しては漫画の一部だけでは被爆の実相に迫りにくいことや、母親のために他人の家からコイを盗む場面が「誤解を与える」などとしている。

 中学では「福竜丸が被爆した記述のみに留まり、実相を確実に継承する学習内容となっていない」とも指摘した。

 ひろしま平和ノートの特色は発達段階に応じて小学校1~3年、同4~6年、中学、高校と分け、単なる資料集としてだけでなく児童生徒が学びを振り返る記述欄などを設けたことにある。

 教師が「平和ノート」の内容を伝える一方通行の授業に終わらせず、学んだことを子どもたちが自分の中で消化し、未来を築く社会の一員と意識することを目指している。

 小学校低学年の児童が漫画を入り口に原爆を学び、中学生が福竜丸事件から核兵器の脅威を知りたいと考えるのは自然なことだ。削除すれば、学びを深めるきっかけを失う可能性がある。それではプログラムの目的からも逸脱する。

 そもそも広島市教委の平和教育プログラムが始まったのは11年の調査で原爆投下の年日時を正確に答えられた小学生が33%しかいなかったという危機感が出発点にある。

 県内でも22年度の県立高校入試で沖縄の日本復帰の年月日を問う問題の正答率が28%にとどまった。歴史の継承は広島、沖縄に限らず大きな課題となっている。

 県内では沖縄歴史教育研究会が高校の副読本、名護市教委が小中学校向けの沖縄戦ガイドブックを独自につくり、南城市教委は証言者の体験を活用した教材開発を進める。

 証言者が少なくなり、戦後生まれの教諭が実相を伝えるのは確かに難しい。だからこそ教育現場に求められるのは歴史を継承するための教材の充実だ。「伝わりにくい」から削除するのでなく「伝える」ための努力こそが必要だ。

 

  • (2)「反戦教育」は、「平和教育」ではない。それは、「平和には殆ど資さない」から。

 現在、「平和教育」の美名の下で行われるのは、上掲琉球新報社説にある通り、「反戦教育」でしかなく、「戦争が悲惨で残虐であること」しか教えず、「戦争を忌避させる」効果ぐらいしか、期待できない。
 
 歴史上には数多の戦争が既にあり、今もあり、今後も当然「ある」と考えるべきであるが、「悲惨で残虐であるが故に、始まらなかった戦争」と言うのは、米ソ超大国同士(当時)の熱核弾頭ミサイル撃ち合いである「熱戦(冷戦の対語としての)」ぐらいしか、私(ZERO)は知らない。

 大抵の戦争は、ある程度の「悲惨さ、残虐さが、予想される」のであり、「悲惨さ、残虐さが予想される戦争でも、敢えて惹起され、勃発する」と言うのが、大半の戦争だ。例えば、今次のウクライナ侵略戦争に対し、「ウクライナがサッサとロシアに降伏してしまった」ならば、今のウクライナ戦争のような悲惨さ・残虐さは回避できただろう。だが、ウクライナは、ある程度の悲惨さ・残虐さを覚悟の上で、徹底抗戦する事を、決めたのである。

 更には、「悲惨で、残虐であるが故に、惹起される戦争」があることも、無視し得ない。例えば宗教戦争や民族戦争である。こう言う種類の戦争は、「異教徒や異民族を、可能な限り多く、可能な限り残虐に殺すこと」が「神の御心に適う」事さえあるのだから、「悲惨で、残虐であるが故に、惹起される戦争」となりうる。

 であるならば、「戦争の悲惨さ、残虐さを教える」事を、「平和教育」などと呼ぶのは、ある種の自己満足であり、自己陶酔に近い。先述の通り、「戦争の悲惨さ、残虐さを教える」事で、宗教戦争や民族戦争を、「惹起する」所までは行かずとも、「近づける」効果は、あり得るだろう。
 
 故に、言うのである。「反戦教育」を「平和教育」などと称するのは、「単眼近視」的である、と。

 斯様な次第であるから、そもそも私(ZERO)は「平和教育」自体を、信用していない。先述の通り、それは「戦争や戦争に関するモノを忌避する」効果ぐらいは期待しうるかも知れないが、「戦争を回避し、平和を維持する」上では、全くと言って良いぐらいに「役に立たない」。

 上掲琉球新報社説は、「地上核実験による第5福竜丸の被爆」と、漫画「はだしのゲン」を、「複眼的に被爆を伝える」教材として「維持しろ」と主張しているが、どちらも「戦争の悲惨さ」の延長線上にある「放射線被曝の悲惨さ」を教える教材であり、「複眼的」どころか、タイトルにしたとおり、「単眼近眼」的な「被爆の伝え方」でしかない。

 ああ、これは、「視点の違い」とも、言い得ような。上掲琉球新報社説は、「被爆が如何に悲惨であるかを伝える」事に重きを置いて居る・・・と言うよりは、ほぼ「悲惨さを伝える」事が自己目的化している。「戦争の悲惨さ、残虐さを伝える」事が「平和教育である」と盲信出来てしまえるぐらいだから、「悲惨さ・残虐さを伝える」事が出来れば「良い」と考え、その為の手段が「漫画=はだしのゲン」や「第5福竜丸の被爆」など「多彩である」事を以て「複眼的」と「考えてしまう/思い込んでしまう」。正に左様に考えることが、単眼的でもあれば、近視眼的でもある事に、気づきもしない。

 とーこーろーがー、「平和教育」を「平和に資する人材を育てる」モノと考えるならば(*1)、「戦争の悲惨さ、残虐さ」だけを教えても、ほぼ役に立たない。前述の通り宗教戦争や民族戦争が、「戦争の悲惨さ、残虐さ」を、許容どころか歓迎し、往々にして増幅・強化する事実を、「全く見ようともしない」。

 何が、「複眼的に被爆を伝えたい」だよ。寝惚けるな。

  • <注記>
  • (*1)「未来を築く社会の一員と意識することを目指している」との、上掲琉球新報社説のフレーズは、「平和に資する人材を育てる」の意味だと、解釈できる。
  •  「戦争の悲惨さ、残虐さを教え、戦争を忌避させれば、平和に役立つ」と思っているのだから、実におめでたい限りだ。