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Nutz!「バカめ!」-【琉球新報社説】南洋慰霊の旅再開 島しょ戦の教訓、後世へ
「丸い卵も、切り様で四角。モノも言い様で、角が立つ。」とは、文字通り「モノの言い方/言い様」の話。同じモノでも、言い様で四角にも丸にもなる、と言う喩え。
「心、此処にあらざれば、見るとも見えず。」とは、心の持ち様と「見え方」の関係。コレを更に発展・深化させると、「同じモノでも、心の持ち様で、見え方が異なるどころか、全く見えなくもなり得る。」と、言えそうだ。
さて、殆ど生まれながらの右翼と(多分)自他共に認める私(ZERO)と、アカ新聞下っ端の琉球新報とでは、少なくともある面で相当「心の持ち様」が異なろう。ならば、同じモノでも「見え様が、異なるだろう」とは、十分予想できる、のだが・・・・コイツはチョイと、看過しかねたぞ。
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(1)【琉球新報社説】南洋慰霊の旅再開 島しょ戦の教訓、後世へ
南洋慰霊の旅再開 島しょ戦の教訓、後世へ
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1625843.html
2022年12月3日 05:00
社説
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太平洋戦争時に日米両軍の地上戦が行われた旧南洋群島の県出身戦没者を追悼する「南洋群島慰霊と交流の旅」が3年ぶりに実現した。
軍民混在の島しょ戦が、いかに悲惨な事態を招くのかということをサイパン戦が教えている。その後の沖縄戦で、4人に1人が犠牲になった。サイパンも沖縄も「大日本帝国防衛」の犠牲になった。慰霊の旅というだけではなく、「軍隊は住民を守らない」という教訓を再確認し、非戦を誓う旅でもある。
1944年6月15日から始まったサイパン戦は、7月7日、日本軍の壊滅によって事実上終了した。激しい戦闘に住民が巻き込まれ、残留邦人2万人余のうち8千から1万人が犠牲になったといわれる。その中で沖縄県出身者の犠牲は約6千人に上る。
サイパン戦のさなか陸軍に「女子ども玉砕してもらいたし」(「大塚文郎備忘録」)という意見があった。あるいは「非戦闘員は自害してくれればよいが、やむを得ず敵手に落ちる事もあるも、やむを得ないではないか」(同)との意見も。陸軍はサイパン在の邦人に死を求めていたのだ。
結局、大本営政府連絡会議で「居留邦人に自害を強要することなく軍とともに最後まで闘い、そして敵手に落ちる場合があってもやむを得ない」(同)と決定した。大本営と政府には住民保護の考えはなかった。
日米の激しい戦闘に巻き込まれた民間人は、艦砲射撃と空襲の中を逃げ惑い、次第に北部へ追い詰められた。戦闘の犠牲になったほか、身内同士や仲間同士での殺し合いが続出、北端のマッピ岬から投身する者が相次いだ。米軍に投降しようとして日本軍に殺害された民間人もいた。
サイパン戦終結から5カ月後の44年12月、沖縄に配備された第32軍は「南西諸島警備要領」を県幹部に提示した。柱の一つが沖縄島住民の北部疎開。高級参謀の八原博通は「本要領中、最も注目すべきは、住民を当然敵手に入るべき本島北部に移すことであった」(「沖縄決戦」)と記している。サイパンの事例と同様、32軍にも住民を保護するという考えはない。
第32軍航空参謀の神直道は「住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる」と証言している。
現在、政府が想定する台湾有事が現実になれば最初に戦場になるのは南西諸島だ。自衛隊が配備されている与那国町で11月30日、弾道ミサイルに備えた住民避難訓練が初めて実施された。しかし、ミサイルが飛来する事態になれば、もはや手遅れだ。自衛隊制服組幹部は離島周辺で戦闘が始まった場合「自衛隊に住民を避難させる余力はないだろう」と発言している。
慰霊の旅の再開は、サイパン戦を振り返ることで、住民にとって台湾有事の意味を考える契機になるだろう。
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(2)Nutz!帝国臣民も、帝国陸海軍も、蔑ろにする暴論である。少なくとも、左様な可能性がある事を知れ。
上掲琉球新報に通底するのは、「極悪非道な旧日本軍の為に集団自決を強制された、可哀想な当時の日本国民(特に、沖縄県民)」って図式であり、「沖縄集団自決と同じ構図」である。それが端的に表れているのが、
1> 「軍隊は住民を守らない」という教訓を再認識し、非戦を誓う旅でもある。
の一文であろう。「軍隊は住民を守らない」と言うのは、琉球新報得意のキャッチコピーであり、「社是」とさえ言えそうな「信念」だ。
だが、そんな「信念」を、「異教徒」たる私(ZERO)は持ち合わせていない。否寧ろ、「軍隊は、住民を守るべきだ。」とも考えれば、我が自衛隊三軍がには(相応に、では在るが)「住民を守る」事を期待する。それどころか、琉球新報が憎悪して止まない大日本帝国陸海軍をも(これまた、相応に、ではあるが、)「住民を守る努力はした。」とも思っている。
ま、それだけ、彼我の「心の持ち様」が「異なる」と言うことである。
大体、「沖縄集団自決」もそうだが、「自決を強制される」なんて事は、そうそう出来るモノでは無い。一寸想像してみて欲しい。貴方が銃を突きつけられ、「自決しろ」と脅されたとしよう。貴方は「自決する」だろうか?先ず逃亡を企てるのではないか?唯々諾々と自決すれば確実に死ぬのだから、生きる可能性がある「逃亡」に賭けるだろう。失敗したって「銃で殺される」だけだ。ダメ元で逃げるのではないか?
家族などの「己が命よりも大事なモノ」を盾に取られて「自決しろ」と脅されたら、逃亡することは諦めるかも知れない。(*1)「砂漠の狐」の異名をとるロンメル元帥の服毒自決なんてのは、その例だろう。だがこの場合、「貴方が強制された自決」によって「貴方が己が命よりも大事と考えたモノ」は、(一時的に、かも知れないが)「守られた」筈である。ロンメル元帥の自決によって、その遺族に「ヒトラー暗殺未遂の咎が、及ばなかった。」様に。
言い替えれば、「自決を強制する為に盾に取られたモノは、強制自決時点では守られ、残った、筈である。」
左様に冷静に考えるならば、如何に大日本帝国陸海軍が極悪非道で高圧的であろうとも(*2)、「集団に自決を強制し、殆ど失敗すること無く自決させる。」なんて事は、「人口30万人の南京市で45万人を虐殺してその遺体を始末する」よりは未だ容易かも知れないが、十分に非現実的であることが判ろう。
端的に言えば、「強制された集団自決」などと言うモノは、原語矛盾に近い虚構である。
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- <注記>
- (*1) イヤ、「家族を捨てて己が命を保った」例も、そりゃ在るのだが。曹操とか。
- (*2) 序でに書けば、大日本帝国憲法下では兵役は国民の義務であったから、「極悪非道な大日本帝国陸海軍」の相当部分は、兵役に就いている一般国民だ。