• 「分断」とは、笑止なり。-【朝日社説】「国葬」の検証 分断の禍根 浮き彫りに

 時々思うのだが、マスコミや新聞各社や左翼だの「人権派」だの(の一部?)は、思想/信条の自由だとか、表現/言論の自由だとかを、相当に恣意的に解釈してるンじゃぁ無かろうか?即ち、「都合の良いときだけ、思想/信条の自由や表現/言論の自由を主張するが、不都合なときにはそれらを軽視乃至無視、更には蹂躙して平気の平左という、ダブルスタンダードではないか?

 ジェンダーフリーだの同性婚だの夫婦別姓だのを主張する時は、「性の多様性」を強調礼賛絶賛する。性そのものは「ある種の嗜好ないし性癖」と言えそうだが、「ジェンダーフリー/同性婚/夫婦別姓賛成」は「思想/信条」の一つである。安倍元首相国葬に対しても、「内心の自由(これは、思想/信条の自由の一環だ)」を振りかざして反対していた、よな。

 で、左様に「好都合な思想/信条の自由」を主張していた朝日新聞が、報道機関(の筈)として「表現/言論の自由」の擁護者にして受益者である(筈の)朝日新聞が、こんな社説を掲げてやぁがる。

  • (1)【朝日社説】「国葬」の検証 分断の禍根 浮き彫りに

 

 

https://www.asahi.com/articles/DA3S15503258.html?iref=pc_rensai_long_16_article

 

2022年12月16日 5時00分

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写真・図版

安倍元首相の「国葬」=2022年9月27日、東京都千代田区の日本武道館、代表撮影

 

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 安倍元首相の「国葬」が世論の分断を招いたという基本認識は共有した。しかし、その法的根拠や政府の説明に対する評価、今後に向けた対象者のルール化などについては、様々な意見の羅列にとどまった。政治家を国葬で弔うことがはらむ、根本的な問題点が改めて浮き彫りになったといえる。

 

 衆院の議院運営委員会に設置され、安倍氏の国葬を検証していた与野党の代表者による協議会が、臨時国会の最終日に報告書を公表した。計5回にわたり、政府の説明や有識者の見解を非公開で聴き、意見交換をした概要をまとめた。

 

 冒頭、「基本的な認識」として、国葬は戦後、慣例の積み重ねがなく、国民の間で共通認識が醸成されていなかったことが、「世論の分断」につながったと総括した。

 

 確かに、首相経験者の国葬は55年前の吉田茂以来だった。しかし、賛否が二分されたのは、安倍氏の在任期間が憲政史上最長の8年8カ月に及ぶ一方で、その実績に対する評価が割れていたことの反映に他ならない。安倍氏の政治手法や、森友・加計・桜を見る会といった「負の遺産」に対する批判があったことも忘れてはならない。

 

 「国民の幅広い理解」を得るために、「国会による何らかの適切な関与が必要」という点では、おおむね一致したが、具体的な方法をめぐってはバラバラで、集約には程遠かった。

 

 国会の承認を要件とすべきだとの意見に対しては、故人の評価をめぐる議論が政治問題化するなどの懸念が示され、委員会などへの報告にとどめる、両院議長への報告・相談を経るなどの案も出たという。

 

 対象者の基準づくりについても、賛否が分かれた。国民の理解に資するという一方で、事前に設定するのは難しく、時の内閣が責任をもって判断すべきだとの両論が併記された。

 

 結局のところ、政治家の功績に対する評価は一様でなく、党派性が避けられないという問題に行きつく。報告書には、「政治家の国葬は認められない」「他の形式で故人を偲(しの)ぶ方法もある」との意見も記録されているが、そもそも国葬を行う目的は何か、政治家はふさわしいのかという大本の議論を避けたと言わざるを得ない。

 

 国会と並行して進めていた政府の検証結果はまだ出ていない。岸田首相は「一定のルール」を設ける意向を表明しているが、手順さえ定めれば問題が解消されるわけではない。独断で国葬を決めた深い反省に立って、国民の分断を二度と繰り返さない方策を打ち出せるかが問われる。

 

  • (2)アレが、問題視する様な「国民の分断」かよ。

 第一に、「安倍元首相国葬を巡る賛否両論」が「国論の分断」とするならば、その「分断」を再三煽り倒したのは、朝日はじめとするアカ新聞共であり、「国葬反対派」である。日本政府は安倍元首相国葬を決定し、これに私はじめとする国葬賛成派は賛同しているのだから、「国論を分断」する/できるのは、「国葬反対派」しか、あり得ない。
 で、再三「分断」を煽り倒して、何が今更「分断の禍根」だよ。マッチポンプも大概にしやがれ。

 第二に、「安倍元首相国葬を巡る賛否両論」は、果たして「国論の分断」として、問題視されるべきモノか?と言う、多大なる疑問・・・・・・と言うよりは、問題視なんかするか!ボケェェェッ!!」と言う、(かなり独断的であることを承知しつつの)断定・断言である。

 大体、この世の森羅万象ありとあらゆるモノには、賛否両論在って当然。無ければ奇蹟というもんだ。
 世界平和」とか「核兵器廃絶」とかの、「万民が賛同しそうで、異論は滅多に出なさそう」なモノであっても、反対論・否定論は「必ずある」と、私(ZERO)は主張するぞ。如何に王道正道を歩む綺麗事であっても、「反対論・否定論は、在る。」と考える事こそ正に「多様性を認める」と言うこと。邪悪な者や奇人変人やへそ曲がりまで、含めてこその「多様性」である。犯罪は取り締まり処罰されるべきだが、「邪悪である」だけでは、未遂罪にすら問われるべきでは無かろう。法律は、行動を律し罰するモノであって、思想を罰するモノでは無い(*1)。

 例えば、世界平和なんてのは、「万人が賛同し、反対する者は滅多に居そうにない」お題目だが、滅多には居ないが、(実は)反対する者は、居る。のである。だからこそ「戦争は始まるし、厳然として”ある”」。中共は台湾併合に武力行使する可能性を明言しているし、ロシアのプーチンはウクライナへ武力侵攻している。中共やプーチンが「世界平和」に、少なくとも「無条件で賛同しない」事は、明らかだろう。
 

 ま、中共の習近平やロシアのプーチンの内心・信条は「不明」であるから「世界平和」と何らかの折り合いを付けるなり詭弁を弄したりしていても、その「折り合い」や「詭弁」は、我々には判らない。そこへ行くと、小説「帰って来たヒトラー」の主人公・アドルフ・ヒトラーの内心は、小説だけに明白だ。この小説でアドルフ・ヒトラーは、20年に1度ぐらい、戦争がある方が良い。との説を唱えている。社会の緊張感維持とか、国家意識・国防意識の低下防止と言った利点がある、って事らしい。ある種の「暴論(*2)」ではあるが、「左様な考えを持つ者は、居る。」とは、認めるべきだ。

 「安倍元首相国葬」は「世界平和」ほどの圧倒的支持は得なかった、とは言えよう。だからこそ「賛否両論」である。だが、賛否双方のデモは在ったものの、賛否両派のデモ隊が武力衝突したと言う話も聞かなければ、一部なりとも暴徒と化したって話も聞かない。「平和的な賛否双方のデモがある」と言うのは、「言論・表現の自由と民主主義の健全な発露」であり、歓迎こそすれども、忌避すべきモノでも嫌悪すべきものでもあるまい。
 
 否、それどころか。「安倍元首相国葬の賛否両論」を「国民/国論の分断」と断定し、「国民/国論は、分断されるべきではない」=「国民/国論は、一つであるべきだって主張は、恐るべき「思想/信条の統一論」であり、正真正銘掛け値無しの「思想/信条の自由侵害」でもある。なぁにしろ朝日新聞は、上掲社説で「安倍元首相国葬を巡る賛否両論」を「分断の禍根と断定断言しているのだ。その背景にあるのは、恐らくは安倍元首相国葬は、一体一致した国民の猛反対で粉砕されるべきだった。」という、「60年安保反対闘争で叶わなかった、見果てぬ夢」であろう。

 Nutz!

 弊ブログを些かでも読まれれば明白であろうが、私(ZERO)は安倍元首相国葬に賛同し、これを賞賛さえしている。しかしながら、「我が国の国論・国民は、安倍元首相国葬賛成で一致団結して、異論・反対は認めない」なんて事は、毛頭考えて居ない。「我が国民が挙って安倍元首相を国葬で送ってくれれば、嬉しい。」という気持ちが、「無い」と言ったら嘘にはなるが、「そうあるべきだ。」とする主張には、(恐らくは、朝日新聞はじめとする「安倍元首相国葬反対派」以上に)反発し、反対する。

 日本国国葬の是非を決めるのは、日本国政府であり、日本国政府でしかない。吉田茂国葬も安倍晋三国葬も左様に実施された。
 それぞれの国葬に対して「国民の賛否が分かれた」とて、賛否両国民が武力衝突して内戦でも始めない限り、大した問題ではない。精々が、「日本国政府の支持率が落ちる」ぐらいのモノであり、「賛否が分かれる」のは「民主主義と言論の自由が健在である証左」でもある。
 
 賛否が分かれるのは、国民/国論の分断であり、許されない。と言う主張は、思想信条の自由と言論表現の自由の侵害であり、実に非民主的な全体主義である。

 賛否が分かれる様な国葬は、実施すべきではない。の方が、未だ尤もらしいが、有り体に言って「事なかれ主義」の「日和見のススメ」だ。実にみっともなくも女々しい、「卑怯者の主張」である。
 
 国民の全面的賛同が得られるに越したことはないが、得られなくてもその権限内で粛々と国葬を行うのも、また、政府の仕事の一つだろう。

 で、だ。読者諸兄に是非とも想起願いたいんだが、朝日新聞はじめとするアカ新聞どもと、少なくとも日本共産党は、安倍元首相国葬に対して「内心の自由を侵害する」として反対していた。特に共産党なんざぁ、安倍元首相国葬当日に、国葬会場からさして遠くない都内で「反対集会」を実施し、国葬での黙祷の時間に合わせて叫んだり楽器を鳴らしたりして「反対表明」し、それだけの「言論の自由」と「表現の自由」を自ら立証実証しながら、「国葬は、内心の自由を侵害する」と反対を叫んでいた。
 その「内心の自由を侵害するから(*3)、安倍元首相国葬反対」を主張していた朝日新聞が、上掲社説では「安倍元首相国葬は、国民/国論を分断した」と非難し、「国民/国論の統一・統合・画一化」を、主張しているのである。

 これを、ダブルスタンダードと言わずして、何と言おうか?せいぜいの所、「二重思考」としか、私(ZERO)には思えない。何か言い訳なり弁明なりの余地があるだろうか?

 「弁明の余地があった」としても、私(ZERO)には全く理解できない。上掲朝日社説を公言公開出来てしまう朝日新聞は、民主主義と思想・信条・言論・表現の自由の敵であり、且つダブルスタンダードないし二重思考を平気で適用している、としか、思えない。

 早い話が、朝日は矢っ張り、「我が敵」と言うことだ。
 

  • <注記>
  • (*1) 「思想警察」ったら、「真理省」共々、ジョージ・オーウエルが小説「1984」で描き出したデストピアのキーアイテムだ。 
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  • (*2) 何しろ、ドイツ第3帝国総統であるアドルフ・ヒトラーだからねぇ。寺沢武一の漫画「コブラ」では、「射程距離千光年のレーザー砲衛星(って事は、最大射程で弾着するのは千年後・・・)を大量同時配備して、全宇宙を支配しようと目論だ(で、危うく成功しそうになった。)、アドルフ・ヒトラーだ。
  •  一方で、漫画「最後のレストラン」のアドルフ・ヒトラーは、エキセントリックなところはあるが、徹頭徹尾「善意の人」として描かれている。これはこれで、かなり画期的だと思うぞ。 
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  • (*3) 反対理由は、こればかりではないが。