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無駄とは言わぬが、無理だろう【強く断言】。ー【東京社説】冤罪の根絶へ 再審法の見直しを急げ
世の中には、「絶対に出来そうに無い事を、他者には”やれ”と命じる、傲岸不遜な者」が居る。「”やれ”と命じる相手」は、大抵政府か為政者。そりゃ政府や為政者は権力者だから、「やれること」は普通の人よりは多かろうが、それでも「出来ないこと」は当然ある。
東京新聞が社説で唱えた「原発を、太陽光や風力などの自然エネルギーで代替して、二酸化炭素排出量を減らせ。」なんてのは、その典型例だ。原発も、太陽国や風力等の自然エネルギーも、発電に当たって二酸化炭素を出さないのだから、どちらをどんな割合でどう代用/代替しようが、二酸化炭素排出量には無関係。増えもしなけりゃ減りもしない。一寸考えれば、判ることだ。ま、考えない奴は考えないから、コロッと騙されるんだろうな。
それを言うならば、「脱原発と脱炭素の同時実現」なんてのも、似たような「出来ないこと」なんだが・・・「政府/為政者に無理難題をふっかける」のは、「政権/為政者を批判するネタに困らないため」の布石かね?
モリカケ桜の「出来損ないスキャンダル追及」から類推すると、「政府/為政者を批判するネタとするための、無理難題」って可能性は、高そうだな。
で、下掲東京新聞社説が政府/為政者にふっかっける無理難題は、「冤罪根絶」である。
【東京社説】冤罪の根絶へ 再審法の見直しを急げ
冤罪の根絶へ 再審法の見直しを急げ
https://www.tokyo-np.co.jp/article/193010?rct=editorial
2022年8月1日 07時58分
冤罪(えんざい)は国家の犯罪だ。近年「再審無罪」判決が相次ぐ一方、再審開始はいまだ容易に認められない「開かずの扉」でもある。問題の多い「再審法」を大幅に見直し、人権侵害を防がねばならない。
再審法とは刑事訴訟法にある再審規定を指す。五百超の条文がある同法のうち、再審規定はわずか十九にとどまり、七十年以上も改正されていない。あまりに不十分な規定ゆえに、再審開始の大きな妨げになっている。
例えば今年六月に鹿児島地裁が再審開始を認めなかった「大崎事件」。一九七九年、鹿児島県大崎町で男性の遺体が発見され、殺人罪などで服役した原口アヤ子さんが無実を訴えている事件である。
過去に弁護側が証拠開示を求めても裁判所は門前払いにしたり、裁判所が開示を勧告しても検察側は応じなかったりした。再審法には証拠開示の定めがなく、裁判所の勧告があっても検察側に応じる義務がないためだ。
仮に裁判所が再審を認めても検察側が「抗告」すれば、再審の裁判は開かないままとなる。
担当する裁判官の「さじ加減」が働く余地が大きいことから、「再審格差」として問題視される。同時に、検察の権限が強過ぎることも意味する。
通常の刑事裁判とは違い、裁判で最も大事な手続きの公正さが制度的に担保されていないともいえる。いくら無実を訴えても、「法」でなく、「人」の裁量で再審の扉の開閉が決まりかねない。
全面的な証拠開示の制度化と、再審開始決定に対する検察による不服申し立ての禁止については、優先的に実現する必要がある。
冤罪被害者は高齢に達していることも多く、速やかな救済は時間との勝負でもある。
東京電力女性社員殺害事件や足利事件、東住吉事件、湖東病院事件=写真=など、相次ぐ「再審無罪」の判決は、無実にもかかわらず罪を背負い、服役する人々が今も存在することをうかがわせる。
適正手続きの保障を最優先にして再審法を見直さない限り、忌むべき冤罪は根絶できない。速やかな検討を求める。
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所で、「冤罪の冤罪」は。どう防ぐんだね?
「冤罪は、国家の犯罪」とは、少なくとも一面の真理ではあろう。「冤罪は、あってはならない」って主張も、異を唱えるのは難しそうではあり、「衆目の一致するところ」とも言えそうだ。
だが、
1> 適正手続きの保障を最優先にして再審法を見直さない限り、忌むべき冤罪は根絶できない。
と言うのは、根源的に「明らかな間違い」である。断言する。何故ならば、「冤罪の根絶」なんてのは、理想ではあるかも知れないが、決して、絶対に、実現しないだろうから、である。
ある時点、ある法体制を以て、「冤罪は根絶した。」と、宣言することは出来るだろう。「再審法見直し」時点で左様な宣言を出すことも良かろうさ。だがそれは、先ず確実に、「宣言だけ」に止まり、自己満足と言うよりは、自己陶酔に近い。
断言しよう。人が人である限り、人は神ではないのだから、「冤罪が無くなる」なんて事は、無い。従って、「冤罪の根絶」なんてのは、虚偽、絵空事だ。
あ、「人では無く、AI(人工知能)等の機械が判決を下せば、冤罪は無くなる」とか思うなよ。幾ら機械でもAIでも、人間の作ったモノに、完全無欠完璧無瑕疵なんて、あるものじゃぁ無い。ひょっとしたら「人間が判決を下すよりも、冤罪を減らせる」可能性はないでも無かろうが、それも随分先の話。当面の間は、「人間が判断するよりも、冤罪が多い」ことは、賭けても良いぐらいだ。
左様、「冤罪を減らす」事ならば、可能だ。「再審法を見直して、再審になりやすくする。」と言う、上掲東京社説絶賛の方法は、「冤罪を減らす」一つの方法、ではあろう。
だが、思い出すべきだな。「冤罪を減らす方法」は、同時に、「冤罪の冤罪を増やす方法」でもあることを。
「冤罪の冤罪」って、意味はわかるよな。「冤罪だと判断され、無罪となりました。しかし実は真犯人で、罰せられるべき犯罪者が、無罪放免になってしまいました。」って状態。何しろ、裁判も再審も神ならぬ身の人が為すこと故、誤りはあって当然。無ければ奇蹟。なればこそ、冤罪もあるのだし、「冤罪の冤罪」も、当然ある。
諄いようだが説明すると、「冤罪を減らす」方法、例えば「再審をやりやすくする」と言うことは、「冤罪と判定され、無罪放免される人が増える」と言うことだ。故に「冤罪の冤罪」も、当然増える。
無論。現行の「厳しい再審法」の元で、「冤罪と判定され、無罪となった」人の中にも、「冤罪の冤罪であり、実は真犯人」という人も、居て当然。居なけりゃ奇蹟だ。
冤罪は確かに「忌むべき国家としての犯罪:であろうさ。だが同時に「冤罪の冤罪」も「忌むべき国家としての犯罪」である。従って、世の多くの事象と同様に、「冤罪を減らす」というのも「バランスの問題」であり、「再審法の厳しさ」もまた、然り、なのである。
所が、「冤罪を根絶しろ」とか、素面で抜かせてしまうヤツバラには、そんな「バランス感覚」なんて、そもそも概念からして有していそうに無いから、実のある「再審法見直し議論」なんて、全く期待できないのである。
試しに、上掲東京新聞社説を書いた記者に、訊ねてみたいモノだな。「再審法を見直して再審しやすくすることで、冤罪を減らそう、ッて主張は、判った。で、”冤罪の冤罪” は、どう防ぐんだね?」と。