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結果平等は、普通は不公平である。-【朝日社説】女性の政治参加 均等法の理念 具現化を
> 機会均等(きかいきんとう)、Equal opportunity)とは、
> 全ての人々が同様に扱われるべきであるという観念で、
> 特に人為的な障壁・先入観・嗜好などを「明らかに合理的と見なされているもの」以外全てを取り除くべきであるというものである。
> 機会平等ともいう。 @Weblio
等と、ネットで検索すると引っかかってくるが、この定義では「機会平等」と「結果平等」の差違が「明確にならない」と、私(ZERO)には思われる。
なので、この二つの用語の定義としては「一般的ではない」かも知れないが、私(ZERO)なりの理解・解釈で「結果平等」と「機会平等」を説明しよう。
例えば、大学入試。まあ具体例として東大入試を考えたとしよう。現状の東大合格者は、男女比で言うと「男の方が多い」事は間違いなさそうだ。
で、この「男の方が多い東大合格者」という状態を「男女不平等である」と断じ、「東大合格者を、男女同数としよう」と言うのが「結果平等」。東大入試の結果である東大合格者を男女「平等」にしようという考え方だから、「結果平等」だ。
これに対し、「東大入試に男女の分け隔てはなく、同じ試験問題で同じ基準で合否を決めているのだから、”平等”だ。」と考えるのが「機会平等」。東大入試という「機会」に対し男女の区別はないから「平等」と考えるから「機会平等」だ。言うまでも無かろうが、現行の東大入試では「機会平等」は確保されている、ものと私(ZERO)は理解している。
そんな「機会平等」と「結果平等」の相違を念頭に置きながら、下掲する朝日社説を読んでみたんだが・・・
【朝日社説】女性の政治参加 均等法の理念 具現化を
女性の政治参加 均等法の理念 具現化を
https://www.asahi.com/articles/DA3S15187735.html?iref=pc_rensai_long_16_article
2022年1月29日 5時00分
国会、地方議会ともに、日本の女性議員の割合は極めて低い。選挙で男女の候補者の数を、できる限り均等にすることをめざした候補者男女均等法が施行されて4年近くになろうというのに、目立った状況の改善はみられない。
女性候補の擁立に消極的な政党の責任が重いことは言うまでもない。と同時に、女性が政治参加に二の足を踏むような環境を抜本的に改めることが欠かせない。ようやく政府が乗り出したハラスメント防止の取り組みもそのひとつだ。実効性のある対策につなげてほしい。
昨年6月の均等法改正で、国や自治体は、議員活動と妊娠・出産・育児などの家庭生活の両立を支援する体制づくりを行うとされた。ハラスメントについても、研修の実施や相談体制の整備が求められた。政府は専門家らによる検討会を設置し、今春に向けて、研修用のビデオ教材づくりを始めた。
作業に先立ち、内閣府が全国の地方議員から集めたハラスメントの事例は約1300件。内訳はパワハラ68・4%、セクハラ22・9%、マタハラ(妊娠・出産をめぐる嫌がらせ)1・4%など。改めてこの問題の深刻さを浮き彫りにした。
被害を受けたのは、有権者からが53・5%で、同僚である議員からの46・5%を上回った。「投票するからと交際を強要された」「ポスターにわいせつな内容を書き込まれた」「個人情報をSNS上に無断で公開された」などの声が寄せられた。議員向けの研修だけではなく、有権者の意識改革にも知恵を絞らないといけない。
自治体職員や議員を対象にしたハラスメント防止条例を制定する自治体もでている。こうした先行事例も参考にしたい。
均等法施行後、3度目の国政選挙となる参院選が半年後に控える。昨秋の衆院選では、女性候補の割合は17・7%と、前回とほとんど変わらなかった。当選したのは45人で、全体に占める割合は9・7%と10%を割り込んだ。次の参院選での各党の取り組みが厳しく問われる。
立憲民主党の泉健太代表は、比例区も含めて可能な限り「女性候補5割」をめざすといい、共産党の公認候補は現時点で約65%が女性になっている。しかし、自民党の動きは鈍い。
社説は一案として、各党が足並みをそろえて、比例区の候補者を男女同数にしてはと提案した。名簿に順位がなく、個人名での得票順に当選が決まるので、党内合意を得やすいだろうと考えてのことだ。全会一致の議員立法で決めた法律である。このまま均等法の形骸化を許してはならない。
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「女性候補5割」は、「機会平等/機会均等」ではなかろう。
冒頭の東大入試の譬えを続けるならば、現行の東大入試は「機会平等」ではあろう。コレを「結果平等=東大合格者男女同数」にしようとすると、「必然的に合格点に男女格差が生じる」事になる。同じ試験を受け、同じ点数を取っても、「男だったから合格し、女だったから不合格になる」或いはその逆って現象が起きる。コレを「公平」と呼べてしまえる奴ぁ、頭のネジが2,3本どっかへ行っているのに違いない。
なればこそ、タイトルにした通り、「結果平等は、普通は不公平である」。従って通常「平等」として目指すべきは、「結果平等」ではなく、「機会平等」なのである。
上掲朝日社説にある、立憲民主党の掲げる目標「女性候補5割」と言うのは、先の東大入試に例えるならば「東大受験生を男女同数とする」事に喩えられ様。コレは一見「機会平等」の様に見えるが、良く考えるとそうではない。
何故ならば、直接の東大入試である二次試験を受験するには、一次試験(今で言う共通テスト)で「足切り」と呼ばれる一定の成績に達しなければならないのだが、「東大受験生を男女同数とする」事は、必然的に「足切り基準に男女格差が生じる」事になる。従って「東大受験生を男女同数とする」のもやはり「一次試験の結果平等」を求めることになる。
無論、この譬えで言うならば、「東大受験資格を一次試験結果ではなく、ランダムにくじ引きで決める」事で「一次試験の結果平等」であることを回避する事は出来よう。それでも、男女の東大志望者が同数で無い限りは、「東大受験資格を得る確率に男女格差が生じる」事になり、「足切り合格の結果平等」を求めていることに変わりは無い。無論、問題は、「結果平等を求めている」事ではなく、「足切り合格の結果平等」を「(許容範囲の)公平と見なせるか」である。「男子東大志望者は8割の確率で東大受験出来るが、女子東大志望者は9割受験出来る」というような状況を「(許容範囲の)公平」と考える者は、「一次試験の結果平等を公平と考える」者よりは多そうだが、やはり普通に考えれば、不公平だろう。
翻って、立憲民主党が目指すとした「女性候補5割」を考えると、「立憲民主党公認候補となる」のは試験の点数では無く、「そもそも相当に恣意的基準」でありそうなので、「不公平感は希薄」と言えそうだ。
だが、「女性候補5割」を達成するために、「女性でありさえすれば良い候補」が発生することは想像に難くなく、普通に考えれば(やはり)「不公平」になろう。
まあ、これが「立憲民主党公認候補」であるから、希望者も少なそうであり、「不公平感はさらに希薄になる」のだが、上掲朝日社説は立憲民主党以外の与党・自民党公認候補まで「候補者男女均等法」なるモノを盾に「女性候補を増やせ」と迫っている。
1> 選挙で男女の候補者の数を、できる限り均等にすることを目指した候補者男女均等法
だそうであるから、この「候補者男女均等法」なるモノからして、「結果平等」を目指すモノであり、男性候補の多い現状に対しては「女性でありさえすれば良い候補」を推奨している。「天下の悪法」と言うべきでは無かろうか。
左様な「結果平等を求める、候補者男女均等法の理念」が、形骸化している現状こそ、「正しい在り方」と言うべきであろう。
大体、
2> 共産党の候補者は現時点で65%が女性になっている。
と言うのを、賞賛とは言わぬまでも「候補者男女均等法の観点から肯定」出来てしまう上掲朝日社説の正気を疑うね。「選挙で男女の候補者の数を、できる限り均等にする」事を目指すならば、「共産党候補の65%が女性であり、男性候補は女性候補の約半分」という現状は、「男性差別」であろうが。
さらに言えば、立憲民主党の「女性候補5割」目標というのは、「立憲民主党の共産党化の一環」とも考えられ、どちらも「女性候補であることを選挙の売り物にしようという選挙戦術」と考えられる。
まあ、立憲民主党が共産党化しようが、女性候補であることを売り物の選挙戦術をとろうが、大した問題ではない。
だが、上掲朝日社説が声高に叫ぶ(そのくせ、前述の通り「共産党候補の”男女格差”=男性差別」はスルーどころか肯定出来てしまうんだが。)「候補者男女同数」という「結果平等」は、不公平であり、それを求める「理念」を包含する候補者男女均等法は、天下の悪法である。