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スゴい寝言-【東京社説】年のはじめに考える 「仁心」を養う法こそ
東京新聞の気違いぶりは、「原発を、太陽光や風力などの再生可能エネルギーで代替することで、二酸化炭素排出量を減らそう。」って主張を社説として堂々と掲げた(即ち、その様に社説担当記者が考え、推敲したデストも賛同した)時点で明々白々ではあるが、下掲社説はまた一段とぶっ飛んでやぁがるなぁ。
【東京社説】年のはじめに考える 「仁心」を養う法こそ
【東京社説】年のはじめに考える 「仁心」を養う法こそ
https://www.tokyo-np.co.jp/article/152637?rct=editorial
2022年1月6日 07時47分
「生類憐(あわれ)みの令」といえば、江戸時代の「天下の悪法」として知られています。でも、本当に悪法だったのでしょうか。
飼い犬が行方不明になったら一生懸命探せ、野良犬にも餌を与えよ?などから始まり、「きりぎりす松虫玉虫の類、慰めにも飼い申すまじき」と、昆虫の飼育までも禁じたお達しです。
五代将軍・徳川綱吉が一六八五(貞享二)年から、亡くなるまでの二十四年間に出した法令の総称です。さみだれ式に百三十五回も出されたようです。熊や猪(いのしし)は追い払え、金魚は藤沢(神奈川県)遊行寺の池に放て…。そんなお触れもあります。
この法令を研究した東京工業大教授の山室恭子氏が著した「黄門さまと犬公方」によれば、意外にも処罰件数は二十四年間で六十九件だけだそうです。下級武士への処罰が圧倒的に多く四十六件。町人は十五件、百姓(農民)は六件にすぎなかったようです。
◆生類憐みで慈悲心を
死刑は十三件、流刑は十二件にとどまり、江戸からの追放が中心だったとか…。これも二十四年間の数字です。江戸中期の学者・新井白石の「折たく柴の記」にある「此事によりて罪かうぶれるもの、何十万といふ数をしらず」などの記述はどうやら眉唾もののようです。
「取り締まりはごくゆるやかであった。たまさか罰せられるのは幕府の身内が主で(中略)死罪になるのはよほど悪質なケースか、もしくは見せしめに利用される場合に限られていた」(前掲書)
法令の目的は「仁心の涵養(かんよう)」です。当時の史料にも記されています。人々の心の中に慈悲の心を養うことで世の中を治めようとしたと山室氏は考察します。
実際に綱吉は困窮者の援助も行います。自ら「論語」や「中庸」など中国古典の講義を続けたことにも表れています。いわば理想高き教養人だったわけです。
背景があります。戦国時代から江戸時代になっても殺伐たる空気に満ちていました。主人が家来を手討ちにしたり、刀の切れ味をみるため人を切ったり…。人々の話題も合戦話や刀のうんちく…。
そんな世の中の改革が目的だったといいます。綱吉が亡くなったのは一七〇九年。その十三年後に書かれた古老の本には「近年は、悪事を働く者がおらぬのか、あるいは主人が慈悲深くなったのか、とんとなくなってしまったことよ」と記されます。若者の話題も浄瑠璃、三味線、役者の評判といった具合で、武道の話など全く消えてしまったというのです。
◆9条も民心を変えた
「仁心の涵養」という「生類憐みの令」の目的は十分に達せられたとも評価できそうです。ならば悪法どころか、民衆の心まで慈悲に変えた立派な法令ではありませんか。江戸時代が約二百五十年も平和な時代であり続けたこととも、無縁ではないでしょう。
さて、今年は終戦から七十七年になります。明治元年から終戦までも、ぴったり七十七年です。
明治からは富国強兵の号令のもとに軍事力を高め、ほぼ間断なく内戦や外国との戦争に明け暮れた「戦争の時代」です。昭和前期の子どもたちも、戦闘機や軍艦に乗ることにあこがれた「軍国少年」として育ちました。
戦後はむろん「平和の時代」です。もちろん日本国憲法九条が「戦争の放棄」を定めているためです。仮に好戦的な為政者が現れていたとしても、九条に手足を縛られ、戦争に踏み出せなかったでしょう。九条はまぎれもなく、戦争の時代を転換させ、戦後七十七年間を平和に保ちました。国民の心も平和主義を尊んでいます。
これも「仁心の涵養」なのではないでしょうか。若者たちも勉学や音楽や映画、スポーツなどに励む心を養って育ちます。何やら江戸時代の古老が「若者の話題は歌舞音曲ばかり」と記したことと二重写しですね。
ところが、昨今、憲法に縛られているはずの為政者たちが口々に「改憲」を言うようになりました。鎖を自らほどこうとするかのように…。当然ながら軍事も含まれます。まるで「戦争の時代」まがいの勇ましい議論もあります。
近隣国の脅威を叫び、防衛費を積み上げ、敵基地攻撃論などを訴えています。狙いの焦点は、もちろん「九条改憲」でしょう。
◆歴史を転換する恐れ
昨年の衆院選に続き、今年夏の参院選でも改憲勢力が三分の二を維持すれば、一気に改憲ムードも加速する可能性があります。
終戦をはさみ、歴史のコンパスで「七十七年」の目盛りを回せば、今年は転換点になる恐れがあります。私たちに選択を迫る年になる、それを自覚したいものです。
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憲法変えちゃぁいけない教徒
「憲法変えちゃぁいけない教」と言うのは、私(ZERO)が作った造語、の心算だ。元ネタはあるから、他でも誰かが思い付き、使っているかも知れない。
元ネタとなったのは、いしいひさいちの漫画に登場した「借金返しちゃいけない教」だ。「返しちゃいけない。返せない。返さぬ者は、救われる。」というお題目だか呪文だかと共に登場する。平たく言って「借金を踏み倒すための口実」なんだが、主人公(だったと思う)はこの「借金返しちゃいけない教に入信した。」として、「宗教上の理由により、借りた金は返せない。」と主張する。なかなかシュールなギャグだが、秀逸でもあるので良く覚えている。
で、これに準えるならば、「憲法変えちゃぁいけない教」とは、「(日本国憲法を)変えちゃいけない。変えられない。変えない者は救われる。」と呪文を唱えており、「日本国憲法は、今のままで良い/今のままが良い(=変えちゃぁいけない)。」と言う主義主張のこと、である。
別に左様に主張しているだけならば、私(ZERO)だって「憲法変えちゃぁいけない教」などと揶揄したりはしないんだが、「日本国憲法は、今のままで良い/今のままが良い理由/根拠」を全く説明しないか、説明したとしてもオッペケペーで、とても「常人には受け容れがたい」と思える/感じるからこそ、「胡散臭い新興宗教(と言うより、”邪教”に近いな。)」に準えて「憲法変えちゃぁいけない教」と呼び、左様な「ロクな根拠/理由も示さずに、タダ”日本国憲法を変えるな”と主張する者」を「憲法変えちゃぁいけない教徒」と揶揄し、嘲笑し、ある意味「罵倒」さえしているのである。
だが一方で、異論異説は「己が思考の水平線を拡張する格好の機会」となる可能性がある。「憲法変えちゃぁいけない教徒」と揶揄し、嘲笑し、「罵倒」さえしても、「一体何がソンナろくでもない邪教(*1)を信じさせたのか?」には、少なからず興味がある。上掲東京社説には、その一端が垣間見える、様である。
即ち、「日本人の道徳教育、更には道徳の根源としての、日本国憲法(特に憲法9条)」という、思想ないし発想が、上掲東京社説には、ある。
有り体に言って、「驚天動地」と言う程では無いが、少なからず「驚かされる」思想/発想である。
上掲社説のタイトルからして「「仁心」を養う法」等と抜かしているのだから、十分予想できた事ではある。また、以前東京新聞はじめとして各紙が「教育勅語批判」に地道を上げていた頃、憲法学者の誰やらが「教育勅語は(日本国)憲法違反だ」と非難する序でに「自分の道徳は合憲だ」と訳のわからないこと抜かしていたのも覚えていたから、世の中には「己が道徳・良心を、日本国憲法を基準に判断・判定する」って輩が居る、とは知っていた。だから、「驚天動地と言う程では無い」のである。
だがその一方で、「己が道徳・良心を、日本国憲法を基準に判断・判定する」って輩の「(日本国)憲法観」には、あらためて驚かされる。私(ZERO)の様な「異教徒」に言わせれば、「たかが憲法」である。Constitutionってぐらいだから「国の形」を定めるモノではあり、「法律の親分」ではあろうが、「たかが憲法」如きが「国民の形・良心・倫理・道徳」を、掣肘してたまるモノかよ。
仮にどんなに高尚高邁な道徳的理念が「憲法」として具現化していたとしても、それによって「国民の形・良心・倫理・道徳」を掣肘するというのは、凄まじい「内面の自由の国家統制」である。それこそ、小説「1984」の真理省張りの強権強制政治体制にほかなるまい。
況んや、上掲東京社説が縷々述べる通り「「仁心」を養う法」なるモノは、あ・の・「憲法9条」であり、更には「平和を愛する諸国民」などと言うファンタジーに我が国の安全を依存してしまう「日本国憲法前文」である。キレイゴトで言えば「平和主義」とも言えるのかも知れないが、有り体に言って良いところ「平和ボケ」であり、端的に言えば「敗北主義」にして「外患誘致」の「売国行為」に他ならない。「国家的自殺・自滅主義」とも言い得よう。そう言う願望や欲望がある種の人間にあるのは事実だろうが、そう言うのは普通「気違い」と言う。本記事のタイトルを「スゴい寝言」としたのは、かかる「国家的自殺・自滅主義」を「日本人の道徳とし、国家統制しよう」と言う、凄まじい主張であるから、だ。
有り体に言って、「話にならない」。
日本国憲法前文や憲法9条に顕著な「平和主義」なるモノが、戦後日本人に与えた影響というのは認めなければなるまい。その意味で、「戦後日本人の”仁心”は、ある程度日本国憲法に育てられてしまった。」と言うことも、出来そうではある。
だが、それ故にこそ、憲法9条及び日本国憲法前文は「変えるべき」なのである。事実・現実として我が国の国家の安全保障が自衛隊に代表される軍事力によって居ることを明確に認識すると共に、「国の形を定めるモノ」としての憲法に反映すべき、なのである。
言い替えるならば、上掲東京新聞社説に顕著に現れている「日本国憲法の“平和主義”が、日本人の道徳であるべき」という主張こそが、正に、日本国憲法を、特にその「平和主義」的なるモノを、変えるべきであり、打破すべきである、事を示しているのである。
何故、と問われるならば、国家の安全保障の根幹は軍事力にあり、戦後80年近くに及び我が国の平和を維持し保持し支えてきたのは、「日本国憲法の平和主義」などというお為ごかしのお題目ではなく、自衛隊三軍と日米安保条約だから、である。
- <注記>
- (*1) 私(ZERO)から見ての。