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平和教育には、少なくとも初歩的な軍事教育が不可欠である。【強く断言】
「平和」の反対語が「戦争」である事に、異を唱える人は・・・「居ない」とは断言しがたいが、少なかろう(*1)。
であるならば、「平和教育」と「軍事教育」は「反対語である」と思われても「無理は無い」・・・と言うか、「反対語である」と考える人が世の中の過半数かも知れない。だがそれは、根源的に「間違っている」と、私(ZERO)は主張する。それ故の、斯様な「鬼面人を驚かすような」タイトルなのである。
「平和教育=戦争の悲惨さを教えること」と定義するならば、斯様な定義に基づく「平和教育」は、軍事忌避につながるから、「軍事教育とは相反する」事となり、「斯様な定義に基づく”平和教育(=戦争の悲惨さを教えること)”と、軍事教育は、反対語である」と言えそうだ。
だが、敢えて問おうでは無いか。「平和教育=戦争の悲惨さを教えること」と言う定義は、正しいのか?異論異存異議は、ないのか?
言い方を変えれば、「戦争の悲惨さを教えること」は「平和教育の目的」であろうか?それは、一手段、それもかなり低レベルの一手段、なのでは無いか?言うまでも無かろうが、この疑問・疑義は、「既存の平和教育」の大半(ひょっとすると、全部)に対し、その存在理由を問うているのだ。「戦争の悲惨さを教えること」は「平和教育の目的」と、どれ程一致合致しているのか?と。
もっと言うならば、「平和教育の目的は、ナンだ?」という問いかけであり、疑問である。疑義である、とも言い得よう。
「平和教育の目的」は、「平和」即ち「平和の維持・推進に資すること」であり、「平和の維持・推進に資する人材を涵養すること」ではないのか?その「平和教育」を受けた者が、「平和の維持・推進に資する」可能性が高まるように、知識を授け、訓練を施す事こそ、「平和教育の目的」ではなかろうか。
であるならば、「平和教育」とは、単なる反戦・軍事忌避・「戦争の悲惨さを伝え広める」だけでは済まない、筈だ。それらは「平和を維持・推進する動機付け/動機強化」程度の効果はあるかも知れないが、直接「平和を維持・推進する」モノでは無い。
本当に、真剣に、現実的に、リアルに、「平和を維持・推進する」気があるならば、戦争の知識/軍事知識は、不可欠である。「何故、戦争になるのか?」「何が戦争に至る要因なのか?」を考えも理解もせずに、「平和を維持・推進する」なぞ、戯言以外の何物でもあるまい。
有史以来、数多の戦争を人類は経験して来た。その戦争の大半は「悲惨な戦争」である・・・と言うより、「悲惨で無い戦争」なんて「一体、幾つあるか?」って位に「戦争の悲惨率」は高い。言い替えるならば、「戦争の悲惨さを訴え、想起させ、強調する」だけでは「戦争を抑止し、平和を維持/推進する」には、全く不足だ、と言うことを、史実は示している。
私(ZERO)に言わせるならば、「戦争の悲惨さを訴え、想起させ、強調する」だけでは、「戦争を抑止し、平和を維持/推進する」上では、「的外れのトンチンカン」に近い。大抵の戦争は、「ある程度の悲惨さを予想し予測し覚悟の上で開戦する」のである。
左様なことは、ある程度の戦争や政治、軍事や戦史の知識が無ければ、理解できまい。「戦争の悲惨さを教えるだけ」の従来従前の「平和教育」では、「戦争は悲惨だから、戦争の悲惨さを訴えれば、平和になる」と考えるような平和ボケのお花畑平和主義者しか出来上がるまい。(*2)左様な「お花畑平和主義者」を量産したところで、「平和の維持・推進」には、殆ど役に立たない。
故に・・・タイトルにした通りだ。本当に本気で「平和教育」をするならば、「戦争の悲惨さ」を教えるだけでは全く足らない。初歩的ではあるかも知れないが、軍事教育が不可欠である、筈だ。
逆に言えば、軍事教育を忌避し拒絶する「平和教育」なんてのは、本来本義的に「平和教育」と呼ぶに価しない、のである。
<注記>- (*1) 「異を唱える」方のご意見は、是非とも拝聴したいな。ひょっとすると「唯の気違い」かも知れないが、ひょっとすると「思考の地平線を広げる」可能性がある、かも知れない。
- (*2) 無論、如何なる教育も100%完全無欠な教育効果を上げる訳では無いから、戦後平和教育を受けつつも、私(ZERO)の様な立派な「殆ど生まれながらの右翼」も存在しうる、と我が身で立証してはいるのだが。