• 渡辺昇一著「渡辺昇一の『日本語の心』」的視点から見たSakkijarven Polkka歌詞和訳

 最近再読したのが、タイトルにも取った渡辺昇一著「渡辺昇一の『日本語の心』」である。渡辺昇一って人は、本職は上智大学の英文学者、だと思うのだが、(多分)英文学者として依りも論説や評論で知られた人。戦前生まれの戦中育ち、大東亜戦争の頃は確か小学生だったお方。その「年代」故もあってか「右翼的」であり保守的な論説が多い。中韓やら朝日はじめとする左翼辺りから敵視されることも多かった様だが、「中韓や左翼に敵視される」と言うことは「殆ど生まれながらの右翼」たる私(ZERO)に言わせれば、「実に名誉なこと」である。

 そんな「実に名誉な」渡辺昇一氏が、この著作で説いているのは大きくは二つ。

①古来日本人には「和歌の前の平等」という意識が広くあった。 


②和歌は基本的に大和言葉のみで出来ており、それ故に日本人の知より情に訴え、魂に触れる。大和言葉には、そのような力がある。

 何れの説も左翼辺りが大騒ぎしそうな説、ではある。だからこそ「説得力があり、納得できる」って部分も相当にある。

 だが、此処で焦点を当てたいのは上記②の方「大和言葉の価値・真価」である。渡辺昇一氏はその実例を、万葉集や古今集のような古典と共に最近(当時)の流行歌の歌詞を引用し、実証してくれている。

 で、だ。以前の記事でご紹介したフィンランド民謡Sakkijarven Polkkaサッキヤルベンポルカを私(ZERO)は大変気に入っており、特にそのChaChaMARUさんによる歌詞翻訳には「シビれている(死語?)」と言っても良いぐらいだ。かなりの早口でないと間に合わない歌詞は「歌いづらい」ものがあるが(*1)、我が琴線に触れたのはその歌詞による部分が相当にある。無論、旋律だけでも哀愁切々たるモノがあるのだが。

 そこで、故・渡辺昇一氏に改め敬意を表し、ご冥福を祈り(*2)つつ、ChaChaMARUさん翻訳のSakkijarven Polkkaを、「渡辺昇一の『日本語の心』」的視点から考察してみようと思う。

  • <注記>
  • (*1) 私が以前の記事でConquerorの歌詞を和訳した際は、それ故に、和訳と日本語歌詞とを分けて、後者を後から考えた・・・が、ブッチャケ、和訳の歌詞の方が、私自身気に入っている。 
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  • (*2) 死後結構たっているから、喩え怨霊悪霊と化していた場合も、沈静化している頃、かも知れないが。 

 

 

 

 

サッキヤルネン・ポルカSakkijarven Polkka フィンランド民謡

    (赤字は外来語/漢語)

 

 ああ、美しきカレリヤよ。今でもまた沸き上がる

 さあ心から爪弾けよ Sakkijarven Polkka

 ポルカで昔を思い出す。不思議な思い出胸を刺す。

 さあアコーディオンを奏でたれ。Sakkijarven Polkka

 

 老いも若きも踊り出す。ポルカに比ぶるものは無し。

 流離い(さすらい)人になろうとも、Sakkijarven Polkka

 漣(さざなみ)ぞ湖に、松の梢(こづえ)とどよめきて

 聞こえんカレリアの息吹(いぶき) Sakkijarven Polkka

 

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。鮮麗(せんれい)なるポルカの音。

 馬は悲しく歯噛みたがる。頭ばっかりデカいから。

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。歓喜で短夜(みじかよ)満たそうぞ。

 Sakkijarviは奪われたるも、残されたるぞ、ポルカ

 

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。鮮麗U(せんれい)なるポルカの音。

 馬は悲しく歯噛みたがる。頭ばっかりデカいから。

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。歓喜で短夜(みじかよ)満たそうぞ。

 Sakkijarviは奪われたるも、残されたるぞ、ポルカ

 

2番

 懐かしきあの岸辺。流離い(さすらい)人も慰むる。

 侘しき旋律聞こえたもうSakkijarven Polkka

 其れ唯のポルカに非ず(あらず)して、その思い出はかの標(しるべ)

 それ麗しきカレリアぞ。Sakkijarven Polkka

 

 老いも若きも踊り出す。ポルカに比ぶるモノは無し。

 流離い人になろうとも、Sakkijarven Polkka

 漣(さざなみ)ぞ湖に、松の梢とどよめきて

 聞こえんカレリアの息吹(いぶき) Sakkijarven Polkka

 

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。鮮麗(せんれい)なるポルカの音。

 馬は悲しく歯噛みたがる。頭ばっかりデカいから。

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。歓喜で短夜(みぢかよ)満たそうぞ。

 Sakkijarviは奪われたるも、残されたるぞ、ポルカ

 

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。鮮麗(せんれい)なるポルカの音。

 馬は悲しく歯噛みたがる。頭ばっかりデカいから。

 さあさあ乙女よ、私と踊ろう。歓喜で短夜満たそうぞ。

 Sakkijarviは奪われたるも、残されたるぞ、ポルカ。

  

3番

 懐かしきあの岸辺。流離い(さすらい)人も慰むる。

 侘しき旋律聞こえたもうSakkijarven Polkka

 其れ唯のポルカに非ずして、その思い出はかの標(しるべ)

 それ麗しきカレリアぞ。Sakkijarven Polkka


  • 分析、ChaChaMARUさんによるさんによる翻訳歌詞 Sakkijarven Polkka

 さて「大和言葉の真価」を考えるには、「大和言葉」を明確にしなければなるまい。渡辺昇一氏は当該著作で「大和言葉」を「古来から日本人が使い続け、洗練してきた言葉」としながらも、新たな語彙や概念も排斥せず、例えば漢字表記でも「音読みは外来語=支邦語だが、訓読みは大和言葉」とする、一寸大胆とも思える定義をしている(*1)。その定義に従って、上掲和訳を見ると・・・
  
 <1>外来語 ポルカ、アコーディオン、カレリア、Sakkijarven Polkka、Sakkijarvi  で5語。 固有名詞でないのは前2者のみで、繰り返されるのは「ポルカ」の方だけ。

 <2>漢語(音読みの漢字表記) 鮮麗なる、不思議、歓喜、旋律 で4語。

 「基本は大和言葉」であることは、間違いない。繰り返されている「大和言葉でない言葉」は、固有名詞「カレリア」、「Sakkijarven Polkka」、「Sakkijarvi」と「ポルカ」だけ。何度も繰り返されるリフレイン部分も含めて「基本は大和言葉」なのである。
 
 例えば、私が最も感銘を受けたフレーズは、「

> Sakkijarviは奪われたるも、残されたるぞ、ポルカ。

なのであるが、此処では固有名詞のSakkijarviとポルカが外来語なだけで、漢語はなく、全体4語(*2)のフレーズの半分、2語(*3)>は大和言葉である。

 ChaChaMARUさんの手による翻訳が「大半大和言葉であるが故に、私(ZERO)が感銘を受けた」とは、断定断言しがたいだろう。その因果関係は、証されていない。

 だが、「私(ZERO)が感銘を受けたChaChaMARUさんの手によるSakkijarven Polka翻訳が、大半大和言葉であった」とは、断定断言出来る。

 で、この事は、渡辺昇一氏の主張・上掲②「大和言葉の真価」を、「裏付ける」とまでは言わずとも、「補強し傍証する」モノである、とは思うが、如何だろうか。

 

  • <注記>
  • (*1) この伝で言うならば、将来的には「アルファベット表記は外来語だが、片仮名表記は大和言葉」と言うことにもなりかねない。
  •  まあ、「サラリーマン」とか、「ベア(Base Upの略)」とか、「コスパ(Cost/Performanceの略)」等の「和製英語」ってのもあるから、将来的には左様な「大和言葉の拡張」も、あり得る、とは思うが。 
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  • (*2) 「Sakkijarvi」「奪われたる」「残されたる」「ポルカ」後は助詞 
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  • (*3) 「奪われたる」「残されたる」