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長崎平和式典における長崎市長の「福島原発事故復興応援」を糾弾する!
一般論から言うと、「復興応援」ってのは、糾弾されるようなモノでは無い。褒められることはあっても、責められる様なことは、先ず無かろう。
「ナニを復興するか」によっては、その限りでは無いかも知れない。だが、「福島原発事故復興」自体を非難するのは、余程の変人へそ曲がり、イヤ、鬼人か狂人の類いで無い限り、ありそうには無い。私(ZERO)自身はと言えば、「相当な変人」ではあるかも知れないが、当人は「鬼人でも狂人でもない」つもりである。無論、「福島原発事故復興」も、「正当正常な復興対象」と私(ZERO)自身認めており、その復興を応援する気持ちに於いて、おさおさ人後に落ちる気はない。
だが、そんな「正当正常な復興対象に対する復興応援」と雖も、時と場合に依ろう。私(ZERO)がタイトルにした通り「長崎市長を糾弾する」のは、「長崎市長の福島原発事故復興応援」が、「福島原発事故復興を阻害する」可能性がある、と考えるから、だ。
ここまで書けば、勘の良い読者や、私(ZERO)と「ハナっから同意見」の方には「ナニを言わんとしているか」は殆ど自明であろう。だが、そんな読者は極少数であろうから、最初から説明するとしよう。
去る8月9日。長崎が人類史上2番目の核攻撃を受け、原子爆弾が投下されたこの日に「長崎平和式典」なるモノが開かれた。此処で長崎市長がスピーチするのは毎年恒例の行事で、こんな日のこんな式典であるから、そのスピーチが「核兵器廃絶の願い」だの「核なき世界への努力」だのに満ち溢れているのも毎年恒例のこと、らしい。同じ式典でスピーチした日本国首相・菅義偉氏も、被爆者体表も、この点は同じであった。
タダ、長崎市長はそのスピーチの中で、(コレも、ひょっとすると「東日本大震災=福島原発事故以来」なのかも知れないが、)「福島原発事故復興応援」にも触れていた。
で、私(ZERO)は、「長崎市長が長崎平和式典のスピーチで、”福島原発事故復興応援”した」と言うことが、気に入らず、糾弾している。(タイトルにした通り、だ。)何故ならば、かかる場でのスピーチでかかる「復興応援」をすることは、「福島原発事故を、長崎への原爆投下と同列に扱い、イメージをダブらせているから」であり、それは「福島原発事故復興応援」どころか、福島差別及び福島原発事故に対する風評を助長し、「福島原発事故復興」を妨げる公算大だから、である。
なるほど両者には「放射能汚染」という「共通項」がある、かも知れない。否、左様な「共通項」があるからこそ、尚のこと、「一発一夜で熱線・爆風・一次放射線で万単位の人名を奪った」原爆投下と、「放射線による直接の死者はタダの一人も居ない」福島原発事故とを、同等・同列に扱うなど、許されるべきではない。
長崎市長の「福島原発事故復興応援」は、ヒョッとして「善意に基づく」のかも知れない。だが、善意に基づこうが、悪意に満ちていようが、「福島原発事故と長崎原爆投下とを、同列に置き同等に扱う」事は、福島原発事故による「放射能」に対する風評被害を助長拡大する公算大と、すべきである。
而して、福島原発事故に対する復興の最大の障害物は、「福島原発事故の風評被害」であり、その背景を為す「福島差別」「被災地差別」である。
故に、タイトルにした通りだ。長崎市長が長崎平和式典に於いて行った「福島原発事故復興応援」を、糾弾する。それは、福島原発事故と長崎原爆投下を同一視し同列に置くモノであり、福島差別・被災地差別を助長拡大するモノであり、福島に対する風評被害を助長する公算大である。
表面・皮相的に・字面の上では「福島原発事故復興応援」ではあるが、その実は「福島に対する風評被害」を拡大し、福島原発事故復興を妨げる公算大である。従って、糾弾されて然るべき、であろう。