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森・五輪組織委会長の辞任を巡る各紙社説から、「差別」を考える。
先行記事「森元首相の「女性蔑視発言」を考えよう。」にて私(ZERO)は、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。」という森・五輪組織委会長発言を「女性差別」と断定する各紙社説を取り上げ、左様断定する数多の方々に、以下の問いを発した。
【Q1】 とある、相応に有名な女性が、「男性がたくさん居る会議は、時間がかかる。」と発言したとする。この発言は「男性差別である」。Yes or No?
【Q2】「女性がたくさん居る会議は、時間がかかる」と言うのは、統計的ないし経験的事実と反する。Yes(反する) or No(反しない)
【Q3】(【Q2】で「Yes(反する)】と答えた方へ)「女性がたくさん居る会議は、時間がかかる、と言うことは無い」という統計的ないし経験的事実が(自分には)ある。Yes or No?
【Q4】 森元首相の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。」という発言を「女性差別」と断定し非難するためには、上記【Q1】から【Q3】全てにYESと応える必要がある。Yes or No?
森・五輪組織委会長の発言を「女性差別」と非難するヤツバラが上記の問いにどう答えるか知らないが(個人的には、知りたいが、多分、「真面に答えようとしないだろう。」と、予想している。)、その後に森・元首相は五輪組織委会長を辞任させられた。
でまあ、アカ新聞どもは大喜びで、下掲のような社説を掲げている。
①【朝日社説】森会長辞任 目を覆うばかりの混迷
②【毎日社説】森会長辞任と後継人事 旧弊を改めていく契機に
③【東京社説】森会長辞任へ 遅きに失した判断…自浄作用を発揮できなかった周囲の責任も
④【琉球新報社説】森会長が辞意 組織のうみを出し切れ
⑤【沖縄タイムス社説】[森氏後継人事混迷] 透明性の確保が前提だ
①【朝日社説】森会長辞任 目を覆うばかりの混迷
https://www.asahi.com/articles/DA3S14798710.html?iref=pc_rensai_long_16_article
2021年2月13日 5時00分
東京五輪・パラリンピック大会組織委の評議員会と理事会の合同懇談会で、辞任を表明する森喜朗会長=2021年2月12日午後3時6分、東京都中央区、代表撮影
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女性を蔑視した発言の責任をとって、きのう森喜朗氏が東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を辞任した。女性の存在をおとしめ、五輪のイメージを失墜させた責任の重さを考えれば当然であり、遅きに失したと言わざるを得ない。
驚きあきれたのは、辞意を表明する前日に、組織委の評議員である川淵三郎・日本サッカー協会相談役に会い、後任会長に就くよう要請したことだ。大きな汚点を残して退場する者が、後継者を指名する。およそ理解を得られる話ではない。
これを受け入れ、森氏に相談役として組織委に残るよう求めた川淵氏ともども、ふつうの市民の常識や感覚とのギャップは目を覆うばかりだ。
森氏の発言のどこに問題があったかを組織委として総括し、その克服に向けてトップに求められる資質や能力を議論したうえで、定款に書かれているルールに基づき適任者を選出する。それが再出発のための大前提だったのに、2人の旧態依然とした発想と行動が人々の不信をさらに深めてしまった。
密室人事の異様さはさっそく国会で取りあげられた。新聞・テレビやネットでも批判の声があがり、川淵新会長案は一晩で立ち消えになった。ただでさえコロナ禍で開催に暗雲が漂うなか、これでは五輪への共感を呼び起こすどころではない。
問われるべきは森、川淵両氏だけではない。
辞任表明に続き、組織委の評議員会と理事会の合同懇談会があった。後任会長の選考方法などを協議したというが、会長らを解任する権限を持ち、組織委のガバナンスを担うこの二つの機関が正常に機能していれば、ここまで混迷が長引き、深刻化することはなかったはずだ。
森氏は蔑視発言の中で、「わきまえる」女性をたたえ、議論が長引かない組織委のような会議を良しとする考えを示した。行き着いた先がこの事態であることを、評議員・理事らは心しなければならない。
今回の問題は、男女格差の解消が遅々として進まない日本の現実を浮き彫りにした。
昨年末に決まった男女共同参画基本計画にも、女性の社会進出に本気で取り組むつもりがあるとは思えぬ政府の姿勢が、随所に表れている。森発言に真摯(しんし)に対処しようとしなかった菅首相をはじめとする政権幹部は、自分たちの価値観が、世の中、そして国際標準からいかにずれているかを認識すべきだ。
森発言は「国益にとって芳しいものではない」と首相が真に思うのであれば、やるべきことがたくさんあるはずだ。森氏が辞任して済む話ではない。
②【毎日社説】森会長辞任と後継人事 旧弊を改めていく契機に
毎日新聞2021年2月13日 東京朝刊
女性蔑視発言をした東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が辞任した。
女性の尊厳を傷つけた責任は重い。あらゆる差別を禁じた五輪憲章や「多様性と調和」を掲げる大会の理念にも反する。辞任は当然であり、遅すぎる判断だ。
組織委の評議員と理事を集めたきのうの緊急会合で、森氏は「大会の諸準備に私がいると妨げになる」と辞任の理由を述べた。
だが、問題になった「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」などの発言について、「解釈の仕方だ。意図的な報道もあった」と話した。事の本質を理解しているとは思えない。
事態動かした市民の声
辞任に追い込んだのは、市民の声である。
森氏は謝罪と発言撤回のみで済ませ、辞任を否定していた。組織委や国際オリンピック委員会(IOC)も当初は続投を容認し、自浄能力を欠いた。
しかし、インターネット上では「#わきまえない女」などのハッシュタグをつけた投稿で抗議の声が広がった。
ボランティアや聖火ランナーの辞退が相次ぎ、組織委や東京都へのメールや電話での抗議はやまなかった。最後はスポンサーやIOCまでもが見切りをつけた。
東京大会は、男女平等の実現を含む「SDGs(持続可能な開発目標)」への貢献を掲げている。森氏の発言は、主催者のトップとして明らかに理念をないがしろにしたものだ。
問題は組織委だけにとどまらない。森氏の発言をめぐる一連の出来事は、異論に耳を貸さず、内輪の論理で動くことが多い日本社会の古い体質をもあぶり出した。
男性中心の組織で、波風を立てず、問題が起きても目先の安定を優先する傾向が強い。その一端が明らかになった。
この問題をきっかけに、日本社会の旧弊が改められ、多様な意見や立場の違う人々を尊重する共生への意識が高まることが期待される。五輪やパラリンピックは、そうした価値観を世界の人々と共有する場でもある。
そもそも、森氏というトップの下でなぜ組織委が運営されてきたのかを検証する必要もある。
森氏が日本体育協会(現・日本スポーツ協会)と日本ラグビー協会の会長に就任したのは、2005年のことだ。
バブル崩壊後、民間資金に頼れなくなったスポーツ界は財政的に困り、選手強化を進めるうえで国からの補助金を当てにした。
そんな中で政治家たちが地歩を占めていった。中でも森氏は、スポーツを管轄する文部行政に影響力を持つ自民党「文教族」の重鎮だった。
その結果、物言えぬ閉鎖的な雰囲気が生まれた。非民主的で透明性を欠いた運営も目に付くようになった。
招致活動では裏金を使って票を集めた疑惑が浮上し、招致委員会の理事長を務めた日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長が会長の座を退いた。
代わりにJOC会長に就いた山下泰裕氏は理事会を非公開にして、議論を密室化した。
新型コロナウイルスの感染拡大をめぐる大会の延期は、政治の思惑も絡んで安倍晋三前首相が主導し、森氏ら一部のトップだけで決まった。
密室人事は許されない
安倍政権の意を受けて元首相の森氏が会長に就任したのは、スポーツへの政治介入そのものだった。にもかかわらず、森氏の問題が起きると、菅義偉首相は深入りを避けた。
後継人事でも古い体質が露呈した。森氏は気脈を通じた元日本サッカー協会会長の川淵三郎氏に後任会長への就任を要請した。
しかし、問題を起こして辞める森氏が正式な手続きも踏まず、「密室」で次の会長を決めることなど許されるはずはない。
会長は理事の互選で選ばれる。このルールを無視した手法に異議を唱える声があることを察知し、川淵氏は一転、受諾を撤回した。後任選びは白紙に戻った。
組織委では透明性が不可欠だとして、アスリートを含めたメンバーで新会長の候補者検討委員会を設置するという。民主的で公正な手続きが欠かせない。
会長の交代だけで済む話ではない。組織委はこの問題を立て直しにつなげなければならない。
③【東京社説】森会長辞任へ 遅きに失した判断…自浄作用を発揮できなかった周囲の責任も
https://www.tokyo-np.co.jp/article/85497?rct=editorial2021年2月12日 08時03分
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が辞意を固めた。女性蔑視発言での引責だが、遅きに失した判断だ。開幕まで時間が限られる中、一層の緊張感が必要な再出発となる。
「理事会での森会長の処遇の検討を求めます」(元陸上選手の為末大さん)
「He must go(彼は去るべきだ)」(米NBC)
女性蔑視発言から一週間、森氏への批判は国内外で日増しに高まった。一度は続投を表明した森氏自身も、民意とのズレや国際感覚の欠如をかみしめたことだろう。大会の最高責任者としては失格であり、辞任は当然だ。
辞任のきっかけとなったのは、競技団体の女性理事の任用拡大を巡り「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べたことだ。女性蔑視と批判され、翌日に謝罪して発言を撤回したものの、任用拡大には後ろ向きの姿勢を崩さなかった。
女性の性被害を告発する「#Me Too」運動の広がりなどを受け、社会が女性の声を受け止めようとしている。国連は持続可能な開発目標(SDGs)で「ジェンダーの平等」を打ち出し、国際オリンピック委員会(IOC)も五輪憲章で性差別を禁じている。
森氏の発言は女性蔑視にとどまらず、開かれた場での議論を尊ぶ民主的なルールに反する内容でもあり、二重に許されなかった。
そんな森氏を組織委幹部が慰留し、会長選定権限を持つ理事からも辞任を求める声が出なかった。自浄作用を発揮できなかった周囲の責任も問われるべきだ。
続投シナリオを崩壊させたのはインターネット上の署名活動や大会ボランティア、聖火リレー走者の参加辞退など個人が上げた「ノー」の声だった。
大会スポンサーの経済界からも批判が高まり、当初は火消しに回ったIOCも「発言は完全に不適切」との声明を出す事態に追い込まれた。
この間、大会のイメージがどれほど損なわれたことか。再び国民の期待を高め、選手らの気持ちをまとめ上げるのは容易ではない。
後任には川淵三郎氏が挙がる。サッカーJリーグの初代チェアマンの手腕が評価され、組織委では評議員を務めていた。
川淵氏は信頼回復を急ぐとともに、新型コロナウイルス感染拡大の中、現実に即した大会の在り方を早急に打ち出す必要がある。
④【琉球新報社説】森会長が辞意 組織のうみを出し切れ
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1270673.html
2021年2月12日 06:01
社説
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女性蔑視発言で国内外から批判を浴びる東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が、辞意を固めた。辞任を求める世論の高まりに押し切られた形で、12日の組織委で表明するという。
本来であれば発言を撤回するとした時点で、責任を取って辞任すべきだったはずだ。遅きに失している。ジェンダー平等や個人の自由への意識が低い国として、国際社会における日本の地位を低下させた責任も重大だ。
東京五輪の運営やスポーツ界が信頼を取り戻すためには、大会組織委の会長を替えるだけでは十分ではない。ましてや組織に残り影響力を行使するなどもってのほかだ。男性中心や上意下達がはびこる組織のうみを出し切り、多様性と透明性の尊重を国民に示していく改革が必要だ。
森氏は3日の日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「組織委の女性はわきまえている」などと発言した。性別とは関係ないレッテル貼りで偏見や差別を増長させることに加え、自由な意見を言わせない言論封殺という問題もはらんでいる。
多様性を重んじる現代社会にあって時代錯誤も甚だしい。失言を繰り返す森氏に、五輪を率いていく資質がないのは当然だ。だが、問題は森氏個人だけではない。
今回の発言は、スポーツ界に巣くうパワハラ的な体質を表出させたともいえる。大学アメリカンフットボールの悪質タックル問題のように、閉鎖的な組織内の暴力やセクハラが問題になってきた。
森氏の発言にアスリートからも厳しい批判の声が上がる中で、組織委やJOCの自浄作用は働かなかった。異論を排して意思決定を進めるトップの振る舞いを、組織が容認してきたことを自覚し、本来の理念に立ち返ることだ。
五輪憲章はあらゆる差別を禁じており、中でも男女平等の理念は大きな柱の一つだ。
国際オリンピック委員会(IOC)は9日に、森氏の発言を「完全に不適切だ」とする声明を発表した。当然の見解だ。だが、一時は「この問題は決着した」と不問に付しており、不可解さが残る。
東京五輪の開催には、IOCのバッハ会長と緊密な関係を築く森氏の存在が不可欠と言われてきた。一方で、五輪の運営は複雑な利害が絡み合い、招致活動における不透明な金の流れなどの問題も指摘される。国民の信用を取り戻し開催に向かうならば、透明性と情報開示が必要だ。
政府与党は事態の沈静化を図ろうとし、菅義偉首相が森氏に辞任を求めることはなかった。五輪ボランティアの辞退続出にも、自民党の二階俊博幹事長は「辞めたいなら新たに募集する」と意に介さず、火に油を注いだ。
時代錯誤の認識を擁護してきた政治の体質こそ、厳しく問わなければならない。
⑤【沖縄タイムス社説】[森氏後継人事混迷] 透明性の確保が前提だ
2021年2月13日 07:57
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/706771
日本が性差別の解消に後ろ向きであることを世界に印象づけ、批判の高まりに追い込まれた末の辞任となった。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が自らの女性蔑視発言の責任を取り辞任を表明した。
組織委の理事会と評議員会の合同懇談会の場で「私がいることが五輪開催の準備の妨げになってはいけない」と述べ、陳謝した。
問題となった森氏の発言は、いかなる差別も認めないとする五輪憲章の根本原則にも、大会が掲げる「多様性と調和」のコンセプトにも明らかに反する。
辞任は当然であり、むしろ遅すぎた。トップとしての資質にノーを突き付けられ、森氏個人のみならず組織委への信用をも失墜させたからだ。
あぜんとさせられたのは森氏の後任選定を巡る動きだ。当事者として引責辞任する森氏が、自身の後任を「指名」し、本人同士で調整が進められていたのである。
指名通りになれば森氏が相談役に就任し、組織への影響力が残る可能性もあった。それでは何のための辞任なのか分からない。
選定過程が不透明だと政府の指摘を受け白紙に戻ったが、当然だ。密室での人選は、公益財団法人である組織委を私物化するものである。社会の理解は得られない。
政府の対応も後手に回っている。菅義偉首相は、発言を「国益にとって芳しくない」と断じながら、組織委の人事は動かせない、と静観していた。指導力の欠如が混乱に拍車をかけた。
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「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」など一連の発言があったのは、3日の日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会の席上だった。
ジェンダー平等の観点から、スポーツ界を含め、あらゆる分野で意思決定層に女性が増えることが求められている。その潮流を否定的にとらえた森氏の発言に対し、社会の反発は大きかった。
組織委や東京都には抗議が殺到し、大会ボランティアの辞退が相次いだ。インターネット上では森氏の「処遇の検討」を求める署名運動が広がった。
発言に対する怒りや失望、黙ったままでは賛同するのと同じだという思いが、多くの人たちを行動に駆り立てた。
その結果、大会を資金面で支える国内外の協賛企業も「価値観が異なる」などと批判した。当初は不問に付した国際オリンピック委員会(IOC)も一転して「完全に不適切」との声明を発表したのだ。
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森氏の辞任で問題は終わりではない。会議で発言をとがめる声はなかった。傍観者だった参加者全員が重く受け止めなければならない。
7月に予定される五輪開幕まで半年を切り、重要な段階に入っている。組織委は失墜した信頼を取り戻すためあらゆる差別を許さぬ姿勢を目に見える形で示す必要がある。
新会長の選定は、手続きにのっとり透明性を確保することが欠かせない。世界が見ていることを意識してもらいたい。
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森・元首相の「差別とされる発言」は、本当に差別か?本当に「差別として糾弾されるべき発言」か?
最初に断っておくべきだろうな。「差別の無い社会にしましょう」とか良く耳にするのだが、私(ZERO)は「人間に自由意志がある限り、差別感情が無くなる訳が無い。」と達観し、断言している。人間から自由意志を奪い、国家がマインドコントロールを強制するようなことをすれば、「差別感情を無くす」事は可能かも知れないが、左様な社会世界は御免被る。そんな社会世界は「差別が、差別感情も含めて、無い」と言う点では現在・現状の社会世界よりも「優れている」と言えるかも知れないが、その対価が人間の自由意志で在り、思想信条信仰思考の自由とあっては、「割に合わない」処では無い。
言い換えるならば、私(ZERO)は、「差別行動は規制されるべきではあろうが、差別感情は規制されるべきでは無い。」と考えて居るのであり、「差別感情規制よりも、思想信条信仰思考の自由は、優先される。」と考えているのである。
もっと単純に言うならば、「差別感情を抱き、保有し、保持する権利と自由」を私(ZERO)は主張する者である。差別感情は、内面の自由、思想信条の自由に属するモノであり、国家であれ、民間団体であれ、他者に規制されるいわれの無いものである。
であるならば、上掲各紙社説が「女性差別」とか「女性蔑視」とか攻撃し、非難している森・元首相/元東京五輪組織委員会会長の発言を、「発言自体の問題では無く、その背景の思想・発想が問題だ。」などとしたり顔で非難する事に、私(ZERO)は大いに反対し、異議を唱えるものである。
で、それとは別に、此処では敢えて「発言自体」を取り上げ、これを「差別行動」と断じ非難すべきか否かを、論じよう。
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差別とは、何か?或いは少なくとも「差別として糾弾されるべき差別」の条件は、何か?
ある事象、言動、行動が「差別として糾弾、非難されるべき」であるためには、幾つかの条件がある様に思われる。列挙するならば以下の通りだ。
非難すべき差別である条件① 何らかの意味で否定的な評価・表現であること。
非難すべき差別である条件② その否定的な評価・表現が、事実や常識、良識、少なくとも個人的判断に反すること。
非難すべき差別である条件③ その否定的な評価・表現を「差別」とするのは、対象に依らないこと。
さて、個々に見ていくしようか。
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非難すべき差別である条件① 何らかの意味で否定的な評価・表現であること。
先ず上記①は「衆目の一致するところ」であろうし、特に異論は出ないように思う…と言うか、「上記①に反する差別」というのは「肯定的ないし中立的評価による差別」であり、一寸私(ZERO)の想像を絶する。まあ、先行記事にもした通り「会議が長い」と言う評価自身を「差別と糾弾するような否定的評価」とするには、疑義の余地が大いにあるが、「差別として糾弾されるべき必要条件」が上記①「否定的な評価・表現」であることには、一寸疑義の余地が無い。
で、問題は、上記①「否定的な評価・表現」であれば「自動的に差別」と判定している、らしい方々が相応に居る、ことであろう。とある処では「差別されて実害があれば、差別だ。」って見解も見かけたが、これとて「実害」の考え方次第で「否定的な評価・表現であれば自動的に差別」と、大差は無い。
学校の成績にしろ、会社の勤務評定にしろ、評価というモノには潜在的に「否定的な評価・表現」が含まれるモノである。悪い成績・勤務標定は進学や就職、昇進などに悪影響を及ぼす公算大であるから(*1)、「実害あり」と言い得よう。
つまり、「否定的な評価・表現であれば自動的に差別」も、「実害があれば差別」も、「評価の否定」である。「悪平等=不当不正な平等」以外の何物であろうか。
大体、神ならぬ身の人の子が、不完全なのは当たり前で、寧ろ欠点だらけの短所だらけなのが普通。そこを指摘すれば「否定的評価・表現」になるのも当たり前。婉曲表現にはしようがあろうが、欠点・短所の指摘が「否定的評価・表現」でなかったら、そもそも「欠点・短所の指摘にならない」可能性が相当にあろう。
「評価の否定」は「欠点・短所の指摘の否定」でもある。どこまで図々しいのだろうね。「神をも恐れぬ所業」というヤツだ。
評価というモノは、必要な場合もあり、評価は否定すべくも無いものだ。故に、「否定的な評価・表現であれば自動的に差別」な、訳が無い。
左様考えればこそ、非難すべき差別である条件として上記②、③を私(ZERO)は付加している訳であるが・・・
- <注記>
- (*1) と言うか、進学や就職や昇進の基準目安としての評価が、学校の成績であり、会社の勤務評定なのだが。
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非難すべき差別である条件② その否定的な評価・表現が、事実や常識、良識、少なくとも個人的判断に反すること。
この条件②が、先行記事の四つの質問の2番目【Q2】と対応している事は、説明するまでも無かろう。条件①「否定的評価・表現」とて事実に即していれば「事実の指摘にしか過ぎない。」と言うことが出来る。
仮に事実に反していたとしても(事実に反する)常識・良識に即していれば、これも非難には当たるまい。「事実に反する常識・良識」自体は問題視できるが、その場合非難すべきは「事実に反する常識・良識」の方であって「事実に反する常識・良識に即した否定的評価・表現」の非難批判なぞ、些事であり、「お門違い」に近い。
事実・常識・良識に即していても、個人的判断には反する否定的評価・表現ならば「差別として非難」することは出来よう。推測するに「森・元首相の当該発言を女性差別発言と非難批判する」方々の多くは「個人的判断には反する否定的評価・表現」であるが故に「女性差別発言と非難批判する」様に思われる…と言うか、事実・常識・良識による「森・元首相の当該発言を差別とするか否かの判定」をすっ飛ばして「男女は平等であるべきであり、会議時間の長短は性差に依るべきでは無い。」との思想だか理想だか発想だかに凝り固まっている、ないし凝り固まったフリをしている様に思われる。
だが、森・元首相には森・元首相の「個人的判断」があっても、良いはずだ。事実、当該「女性の多い会議は時間がかかる」発言は、「森・元首相の個人的判断ないし個人的体験」に基づいている。その根拠自身を「男女は平等であるべきであり、会議時間の長短は性差に依るべきでは無い。」との思想で否定するというのは、「男女は平等であるべきであり、会議時間の長短は性差に依るべきでは無い。」と言う思想の強制では無いか?一種のマインドコントロール(の試み)であり、凄まじい思想統制(の試み)である。
「個人的判断に反する否定的評価・表現であるから、差別と非難する」事自体は、私(ZERO)は否定しない。だからこそ、上記②には「個人的判断」も入れている。
だが、左様な「差別批判」に、私(ZERO)は同意同調はしない。個人的判断も、「男女は平等であるべきであり、会議時間の長短は性差に依るべきでは無い。」との思想も、他者に強制するべきモノではない。当然、私(ZERO)になんぞ、強制されない。されてたまるか。
一つ、補足しておくべきだろうな。上記①「否定的評価・表現」がNot上記②「事実に即していた」としても、その事象自体が「差別の結果である」可能性はある。例えば女性の高等教育体制が未だ無かった時代に「女性は学歴が低い」という上記①「否定的評価・表現」はNot上記②「事実に即していた」だろう。
だがその場合、「女性は学歴が低い」と言う発言を「女性差別として非難する」事には意味が無いし、寧ろ有害だ。その場合、「男女は平等であるべきであり、学歴は性差に依るべきでは無い。」と言う思想に現実事実を無視して凝り固まっても、それは狂信主義と言うべきであろう。左様な狂信主義に陥ること無く、「女性は学歴が低い」と言う事実を否定すること無く受け止め、「女性の高等教育体制実現」につなげるのが、王道であり、正道であろう。
であるならば…世のフェミニストとか、女権運動家とか、フェミニスト気取りのお歴々は、森・元首相の当該発言を「女性差別として圧殺」するのでは無く、「男女比と会議時間の相関関係」を統計調査するなり何なりして現状を把握することからはじめて「会議時間に性差の無い男女平等社会を目指す」べきであろう。
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非難すべき差別である条件③ その否定的な評価・表現を「差別」とするのは、対象に依らないこと。
さて、この条件③が先行記事の4つの質問の最初のヤツ【Q1】に対応していることも、ほぼ自明であろう。ある上記②「事実等に反する」上記①「否定的評価・表現」を「差別と判定し非難」するのならば、その同じ上記②「事実等に反する」上記①「否定的評価・表現」は、対象が別のモノであっても「差別と判定し非難する」べきである。
言い換えれば「差別との判定基準を、恣意的に用いるべきでは無い。」であり、「差別との判定基準を恣意的に用いる事自体が、差別である。」と言うことである。
これは「一寸異論の出そうに無いような正論」だと、私(ZERO)なんぞは考えるんだが…往々にして居るんだよねぇ。「恣意的な基準で差別と断定し非難している、実質差別主義者」ってのが。で、大抵こう言う「実質差別主義者」は、自分が差別主義者とも、自分の言動が恣意的基準に従っているとも認めずに、実に珍妙な議論を展開したり、強引に論旨をすり替えたりしてくれて、見ていて結構楽しめるのだが。
「差別主義者は、自分の差別には気付かない。」って事かも知れない。
それに「気付く機会を与える」かも知れないのが、「その、非難されている”差別”は、別の対象に対しても”差別”と判定し、非難されるか?」を問う、先行記事の【Q1】なのである。
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改めて問う。森・元首相の発言は「差別として非難されるべき」であるか?
・・・・まあ、此処まで論じてきたのならば、ほぼ自明であろうな。森・元首相の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。」発言は、上記①「否定的評価・表現」であるかどうかも怪しいし、Not上記②「森・元首相の経験と個人的判断に基づいている」。「差別として非難すべき」条件は満たしていない。
であるというのに、森・元首相は五輪組織委会長を辞任させられ、上掲の通りアカ新聞どもは大喜び、って訳だ。
私(ZERO)は、忘れまいぞ。