• 実に奇妙な「経済学的視点」-【AERA】浜矩子「権力者と対峙できない者は、政治家という職業名を剥奪されるべきだ」


 朝日系週刊誌であるAERA誌に掲載されている浜矩子女史の巻頭エッセイは、時事問題に経済学的視点から切り込みます。と毎回喧伝されている。確かに多くの場合「時事問題を扱っている」のだが、「切り込む」も何も一体、どこが経済学的視点なのか、判らないってシロモノであることが多い。それ故に、弊ブログのネタにも何度かなっている処であるが、今回のエッセイはまた一段と凄まじいモノがあるな・・・
 

【AERA】浜矩子「権力者と対峙できない者は、政治家という職業名を剥奪されるべきだ」

連載「eyes 浜矩子」

   

浜矩子2021.1.7 16:00AERA#浜矩子

 

浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授

 

 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

 

 

*  *  *

 筆者はカトリック信者だ。カトリックの信仰の中に、職種別の守護の聖人の存在がある。「聖人」は、カトリック教会が与える称号だ。殉教者や、世のため人のために命がけで尽くした高潔なる人々が「列聖」される。

 

 およそ、ありとあらゆる職業を守護の聖人が受け持ってくれている。医師・看護師・アスリート・芸術家。エコノミストにも、守護の聖人がおいで下さる。そして政治家にも。

 

 政治家の守護の聖人は聖トマス・モアである。かの空想国家小説「ユートピア」の作者だ。15世紀のイギリスに在って、ルネサンスの旗手となった。そして、権力に対して敢然と立ち向かった。ヘンリー八世がカトリック教会から離脱し、国王を頂点とする英国国教会を創設しようとした時、それに断固反対した。王宮の重鎮でありながら、真っ向から国王陛下を諭し、批判して憚(はばか)らなかった。微塵の忖度も働かせなかった。その結果、反逆者として処刑された。

 

 この人に守護されているのが政治家たちである。つまり、政治家たるもの、反権力・反強権でなければいけないということだ。異を唱える者を排除する。そのような権力者とひるむことなく対峙する。その覚悟ある者の上に、聖トマスの加護がある。

 

 これでよく分かった。今の日本において政府・与党を構成している人物たちは、政治家ではないのである。カトリック教会が定めた守護の聖人の人となりと、整合するところがまるでない。聖トマス・モアの守護に値するために、従うべき「業務記述書」に全く従っていない。

 

 反権力どころか、菅首相は絶対権力を掌握することにきゅうきゅうとしている。忖度なき者は、その「王宮」から立ち退かせる。異論ある者は、強権的に公職から遠ざける。今の日本の政府・与党は、本来の政治家の集団ではない。本来の政治家が対決すべき陣営に身を置いている。彼らからは、政治家という職業名が剥奪されるべきだ。彼らは、聖トマスの守護対象リストには、端から含まれていなかったのである。そう確信する。

 

 聖トマスが、喜んで守ってくれる本当の政治家。その出現が切迫感をもって熱望される。それが、今の日本だ。

 

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

 

※AERA 2021年1月11日号


 

 「このコラムの、一体何処が”経済学的視点”なのか?!」って突っ込みはさておいて、理系人間たる私(ZERO)は、経済学的視点以外の視点から、上掲コラムを見ていこう。

  • 宗教的視点から

 日本のキリスト教人口は約1%だそうで、これが更にカソリック=旧教とプロテスタント=新教に分かれるから、浜矩子女史と同じカソリック=旧教徒は1%未満だろう。日本の国会議員に於けるキリスト教徒の割合は、もっと高いかも知れないが、それでも国会議員や自民党議員の圧倒的多数は非カトリック教徒であり、「異教徒」だ。

 一神教徒にとっての「異教徒」は、単に「宗教が異なる人」では済まない(、事がままある)。何しろ十戒の一つは「私(神)以外の者を神と崇めてはならない。であり、キリスト教のように神様が唯一絶対神である一神教徒にとっての「異教徒」は、良くて「邪教徒」。平たく言って「悪魔崇拝者」に他ならない。

 であるならば、キリスト教徒でもカソリック教徒でもない国会議員のセンセイ方の大半に、与野党を問わず、「カソリック教の聖者たる聖トマスの加護」なんぞは、「無くて当然」で在り、「あったら(奇蹟、とは言わぬまでも)、相当な幸運」であろう。

 故に、自民党のみならず、与野党を問わず国会議員の方々に対し、「聖トマスの加護がない(加護を受ける資格がない)」と非難されたところで、(私(Zero)と同じく非カソリック教徒であり)「異教徒」である大半の自民党含む国会議員は、困惑するだけ、だろう。

 でまあ、序でに書くならば、「権力者に対峙する政治家」である今の日本国会野党共に対し、聖トマスとやらが「御加護を与えている」とは、(異教徒たる私(Zero)としては)全く信じられないし、もし仮に「聖トマスの加護を野盗、もとい、野党共が受けている」としたら、聖トマスの御加護を受けて、この体たらくかね?と、言ってしまうぞ。無論これは、野党共への非難ばかりではなく、それに加護を与えている(らしい/筈の)「聖トマス」に対する批判でもある。

 何しろこちとら、異教徒何でね。

 

  • 論理的視点から

 上掲記事によって異教徒たる私(Zero)は初めて知ったのだが、聖トマスという人は生前(と言うか、聖者とされる前、と言うべきか)に時の権力者(*1)である王様に楯突いて処刑され、故に聖者とされて、権力者と対峙する政治家の守護者となった、そうである。(ああ、「権力者と対峙する」政治家限定というのは、浜矩子女史の独断である可能性が、相当にありそうだがな。)なるほどその処刑理由が「権力者に楯突いたこと」であるならば、「如何にもありそうなこと」ではあろう。

 だが、それは、聖トマスが「権力者に従う政治家」を非難し、否定し、神罰・・・とは言わないかも知れないが「聖罰」を下すべき存在であると、断定出来る/すべきモノ、であろうか?

 Aと言う状態(この場合は、「権力者に対峙する政治家」)を肯定し、推奨し、加護を与える存在(この場合は、「聖者トマス」)は、非Aと言う状態(その一例は、「権力者に追随する政治家」)を否定し、非難し、罰を与える存在である、と言う場合もあり得るだろうが、断定断言するのは思考的短絡であり、論理的飛躍であろう。聖トマスは「権力者に対峙する政治家」に対し「加護を与える」としても、「権力者に対峙しない政治家」に対しては、「加護を与えない」とは言い得ても、少なくとも直接的には、「聖罰を与える」事はせず、傍観/中立的立場を取る、事は、あり得ることだ。

 言い換えれば、聖トマスは、「権力者と対峙する政治家を加護する」としても、「権力者に対峙しない政治家」を否定しているとは限らない即ち、聖トマスなる聖者の存在を、「政治家は、権力者と対峙すべきだ。」とする主張の根拠とするのは、短絡思考/論理的飛躍である。

 と言うか・・・聖トマスが「カソリック教の中で唯一の政治家の守護聖者」であり、なおかつ「権力者と対峙する政治家限定の守護聖者」であるならば、異教徒たる私(ZERO)は(いくら伝統があり、信者が世界的には多かろうとも)カソリック=旧教キリスト教そのものに、疑義を呈さざるを得ないぞ。宗教が必ずしも「政治的に中立」とは限らないし、別に宗教に「政治的中立」なんぞ求めないが、「解放の神学」ばりの政治色濃厚な宗教は、要警戒だ。

  • <注記>
  • (*1) にして、「政治家ではない」ってところが味噌の(後述)。 

 

  • 更に、論理的視点から

 大体、政治家は、権力者とは対峙すべきというロジックは、政治家と権力者は、別人である。と言うのが前提になっている上、根底に、権力者=悪と言う、「権力者差別」とも言うべき思想ないし思想的背景(*1)が無ければ成立しない。聖トマスを処刑した権力者は王様だから、「政治家ではない」と言え、「政治家と権力者は、別人である。」と言う前提をちゃんと満足していた。

 だが、頭冷やして考えると良い。21世紀の今日、世界各国に一人は居る「権力者」で、「政治家ではない権力者」ってのは、どれぐらい居るだろうか?軍人が権力を握ってしまった独裁国家とか、「血筋」だけで国家の最高権力者に居座っている北朝鮮とか、「政治家ではない権力者」の事例は、そりゃぁ在るだろうが、王侯貴族の権力者は随分と減って、王制国家も数えるほどになってしまった21世紀の今日では、相当部分(少なくとも先進国では大半)の権力者は「権力者にして政治家」である。即ち、「政治家と権力者は、別人である。」と言う前提が成立しない。故に、政治家は、権力者とは対峙すべき」ってロジックは、前提からして成立しない。聖トマスが(浜矩子女史の断ずる通りに)「権力者に対峙する政治家を加護する聖者」とするならば、21世紀の今日の状況を一体どうご覧になっているだろうか。一寸お尋ねしたい気もするが、案外「喜んでいる」かも知れないな。

 さらに我が国は、立憲君主制で天皇陛下てぇ他に類を見ないような君主こそ頂くモノの、天皇陛下は(*2)権力者ではなく、権力者たる首相は議院内閣制によって少なくとも国会議員であり、通常は政権最大与党の党首である。現首相たる管首相もまた最大与党たる自民党の党首であり、押しも押されもしそうにない政治家だ。

 その「政治家にして権力者」たる管首相に対し、「聖トマス」なる聖者を担ぎ出し、「政治家は、権力者とは対峙すべき」というロジックで非難しているのが上掲AERAコラムである。流石に「政治家にして権力者」たる管首相を、「政治家は、権力者とは対峙すべき」というロジックでは非難比は出来ず、矛先を自民党議員に向けてはいるのだが、前述の通り管首相自身が「政治家にして権力者」であるという時点で「政治家は、権力者とは対峙すべき」というロジックの前提条件は成立していない。

 その事に、浜矩子女史も、AERA編集デスクも、かかるコラムを平気で読んでいられる(らしい)読者諸兄も、気づいていない、らしいのだが・・・多分、聖トマスならば、とっくの昔にお気づきだと思うぞ。

  • <注記>
  • (*1) 「思想」と「思想的背景」の違いは、前者が意識・認識されているのに対し、後者が無意識の、認識されていないモノである、って事だろう。 
  •  
  • (*2) 比類なき権威を有するものの、 

 

  • 体制批判的視点から

 上掲AERA記事にて浜矩子女史は、詰まるところ政権与党、分けても自民党の反権力=反管首相化を求めており、一種の「体制批判」である・・・その「体制」が、最大政権与党である「自民党」と、その最大政権与党党首にして日本国首相である「菅義偉氏」とを分離分断し、前者を「政治家」後者を「権力者」と「定義」して、後者=「権力者」=菅義偉首相のみを「体制」として「批判する」という、実にアクロバチックというか、奇っ怪というか、拗くれたというか、奇妙奇天烈な「体制批判」になっているのは、前述の通りである。

 で、だ。「聖トマス」とやらを「権力者に対峙する政治家の守護者」とするならば、我が国で(その大半は異教徒ながら)「聖トマスの守護対象」となるべきなのは、あ・の・野党の筈である。

 だが、上掲コラムで浜矩子女史は、野党については全く触れず、政権与党で自民党が「権力者と対峙しないから、政治家と呼ぶに値しない」と断定断言して、非難しているのである。前述の通り(また衆知の通り)我が国は議院内閣制で、日本国首相は通常最大与党党首であり、管首相もその通りであることは全く無視して、だ。

 いくら野党が不甲斐ないからって、自民党と自民党党首たる首相との間を離反させようってんだから、朝日の「現政権批判」も「来るべき処まで来た」と評するべきかなそりゃ、本来は現政権批判=与党批判の中核中心であるべき野党が、「最大野党が、あの立憲民主党で、支持率実に数%且つ低下傾向」なのであるから、「与党である自民党の首相離反にしか期待し得ない」のであろうが、そんな「野党の惨状」を惹起した一因は、朝日始めとするアカ新聞どもの盲目的野党擁護があるのではないかね。

 挙げ句の果てに現政権・現体制・現・管首相批判の矛先を、最大政権与党たる自民党に向け、なおかつその「論理的根拠」を「聖トマス」なんて実に尤もらしい「看板」こそあるものの、「政治家は権力者と対峙するべき」などと言う、議院内閣制の我が国では根源的な矛盾を擁するロジックに求め、なおかつその「根源的矛盾」には「気づいてないらしい(*1)」ところは・・・AERA誌も、浜矩子女史も、それらの「現体制批判」も、「終わってるな」としか、思えんぞ。
 

  • <注記>
  • (*1) 「不都合なので、無視している」って可能性は、まだ残っているが・・・と言うか、本当に「気づいていない」ならば、正気を疑えるレベルだろう。