佐高信、御前は既に死んでいる。言論人として。ー【ハーバービジネスオンライン】管義偉政権で言論統制はより陰湿化する危険性<評論家・佐高信>


  「佐高信?何処かで見たような名前だな。」とは思った。「佐高信」で検索をかけると、ネットの霊験あらたかで、「佐高信(さたかまこと、1945年1月19日)は、日本の評論家、東北公益文科大学客員教授。元週刊金曜日編集委員。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表。」等と、ウイキペディアで知れる。まあ、ウィキペディア情報でしか無いから、丸呑みは危険・・・と言うより、「この世に”丸呑みにして良い情報”なんて、無い。」のだけどな。「自らの確かな記憶」とて、記憶違い、勘違い、度忘れ等の可能性は「ある」のだから、な。

 その意味では、下掲「月刊日本」転じて「ハーバードビジネスオンラインの佐高信インタビュー記事」とて、「本当に佐高信がこの通り発言したモノか。」には、疑義の余地を残すべきである。

 また、左様な「疑義の余地を残すべき」な程に、支離滅裂というか荒唐無稽というか、「正気を疑えるレベル」の発言なのである。まあ、篤と御覧あれ。
 

【ハーバービジネスオンライン】管義偉政権で言論統制はより陰湿化する危険性<評論家・佐高信>

 

菅義偉政権で言論統制はより陰湿化する危険性<評論家・佐高信氏>

 

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2020.09.22

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菅義偉政権

菅義偉政権(時事通信社)

 

「安倍政権モドキ」になる菅新政権

 

 

【Q1】―― 菅政権が誕生する見込みですが、新政権の下で改めて権力とメディアの関係が問われます。

 

【A1】佐高信氏(以下、佐高): 菅が「安倍路線を継承する」と言っている以上、菅政権の本質は「擬似安倍政権」です。もっと言えば、「エセ安倍政権」「安倍政権モドキ」ですね。しかし「エセ」や「モドキ」は本家に劣ると相場が決まっているから、安倍政権は終わらないどころか、より陰湿な形で継続することになるということです。

 

 菅はもともと陰湿な人物です。安倍や麻生にはまだ阿呆の明るさがあったが、菅にはそれもない。昔、「田中角栄は結婚式の花、三木武夫は葬式の花」という風刺があったが、菅はまさに「葬式の花」という感じではないか。

 

 菅の陰湿さがよく表れているのが、安倍政権によるメディアコントロールです。7年8か月、菅を中心とする官邸がどれだけメディアに嫌がらせをしてきたか。菅は東京新聞の望月衣塑子記者を目の敵にして、官房長官会見では質問妨害や木で鼻を括ったような回答を繰り返してきました。2015年にテレビ朝日の「報道ステーション」で、コメンテーターの古賀茂明が「I am not Abe」というプラカードを掲げた際、番組プロデューサーに直ちにクレームを入れたのも菅の秘書官でした。

 

 

菅義偉は岸井成格の仇だ

 

 

 その最たるものが、私の友人であった毎日新聞の岸井成格に対する個人攻撃です。岸井が安倍批判を強めていた2015年の春先、菅はいきなり岸井の私的な勉強会に顔を出して、「良い勉強になりました」と言い残して帰っていったそうです。これほど菅の陰湿さや陰険さ、嫌らしさを象徴するエピソードはない。

 

 同年秋に、岸井がTBSの「NEWS23」で安保法制を批判すると、ケント・ギルバートや小川榮太郎ら安倍応援団が呼びかけ人として名前を連ねた「放送法遵守を求める視聴者の会」が読売新聞と産経新聞に一面広告を出して、岸井の発言は放送法の規定に対する「重大な違反行為だ」などと名指しで個人攻撃を加えました。これは実質的に安倍政権による「岸井降ろし」であり、官邸が無関係だったとは思えない。

 

 結局、岸井は2016年に「NEWS23」のキャスターを降板して、2018年に亡くなりました。岸井攻撃の黒幕は菅だったのではないか、岸井は菅に殺されたのではないか。昨年出版した『官房長官 菅義偉の陰謀: 新・佐高信の政経外科』(河出書房新社)は、私が岸井の仇討ちとして書いた本です。

 

 メディアを統制しようとする菅の体質は今に始まったことではない。菅は第一次安倍政権で総務大臣に就任した時から、放送法を改正して放送事業者に対する罰則規定を盛り込もうとしたり、総務省の下にテレビ番組の内容を監視する第三者委員会を作ろうとしたり、NHKの番組編集に介入したりしていたのです。

 

 菅は以前からナチスの宣伝大臣だったゲッベルスになぞらえられてきましたが、安倍政権から菅政権に変わるというのは、ヒトラー政権からゲッベルス政権に変わるようなものです。菅政権によるメディアコントロールは、これまで以上に陰湿かつ陰険なものになるに違いない。

 

【Q2】―― メディアは菅政権の下でさらなる試練に直面する可能性がある。

 

【A2】佐高:最近、私は東京新聞の望月記者とともに『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』(講談社+α新書)という共著を出版しました。この本の売れ行きは非常にいいのですが、それは、それだけ国民の間に「安倍政権の下で日本のジャーナリズムは崩壊した」という認識が広がっているからだということです。

 

 しかし一度崩壊してしまえば、そこから再生の可能性も出てくる。安倍政権の下で崩壊した日本のジャーナリズムが、菅政権の下で再生する可能性もないわけではない。菅の総裁選出馬会見では質問が打ち切られようとした時、記者たちは「逃げないでください!」などと怒号を上げたが、これはその兆候ではないか。

 

 そもそも菅政権は森友・加計・桜など一連の〝爆弾〟も継承することになります。安倍政権が終わったからと言って、安倍の疑惑まで終わったわけではない。これらの問題は菅政権の下でも尾を引くでしょう。菅は出馬会見で森友問題について「すでに結論が出ている」と答えていたが、近畿財務局に勤めていた赤木俊夫さんの未亡人は真相解明を訴えています。赤木さんは自ら命を絶ったというが、実際には安倍政権に殺されたに等しい。このまま安倍政権の悪事を闇に葬ることはできない。

 

 

「菅自身」のスキャンダル可能性も

 

 

 それに加えて、菅自身のスキャンダルも出てくる可能性もある。IRをめぐる汚職疑惑はいまだに燻っており、捜査線上では菅の名前も浮上していると言います。

 

 土地買収をめぐる新たな疑惑も膨らんでいる。政府は米軍の訓練移転候補地として馬毛島(鹿児島県西之表市)の買収計画を進め、昨年には官邸主導で地権者との間で合意に達していました。だが、当初45億円と見積もられていた買収金額は、実際の合意では160億円まで3倍以上も跳ね上がっていた。この点について政府は十分な説明をせず、新たな疑惑が生まれている。

 

 メディアはこうした安倍の疑惑、菅の疑惑を徹底追及すべきです。それができない限り、日本のジャーナリズムが再生することはない。

 

【Q3】―― 今後、佐高さんは菅政権をどう批判するのですか。

 

【A3】佐高:私が特に問題視しているのが、菅と竹中平蔵の関係です。竹中と菅は小泉政権時にそれぞれ総務大臣と総務副大臣を務めた経緯から、現在に至るまで頻繁に会う間柄です。人材派遣会社パソナの会長である竹中は安倍政権でも重用されたが、菅政権ではそれ以上に重用される可能性が高い。

 

 そうなれば、安倍政権の下で拡大した格差がより深刻化するでしょう。アベノミクスの本質は会社が富んで社員が貧しくなる「社富員貧」、国家が富んで国民が貧しくなる「国富民貧」にすぎなかった。菅がそのアベノミクスを継承して、そこに「若者には貧しくなる権利がある」などと放言している竹中がくっつけば、アベノミクスより有害な「スガノミクス」が生まれかねない。この点は徹底的に追及すべきです。

 

【Q4】―― 安倍政権が終わっても、安倍政権的な政治は終わらない。

 

【A4】佐高:最大の問題は、安倍の手によって岸信介の亡霊が復活してしまったことです。もともと自由民主党は、吉田茂の自由党と岸信介の民主党が合体した政党です。しかし戦時中に終戦工作をした廉で投獄された吉田茂の自由党と、開戦詔書に署名してA級戦犯に指定された岸信介の民主党の合流には最初から無理があった。自由民主党は結党の瞬間から矛盾を抱え込んでいたのです。

 

 戦後、作家の吉村昭は城山三郎との対談の中で「あの戦争、負けてよかったですね」と発言しました。問題は、あの戦争で日本の何が負けたのかということです。それは戦前の全体主義であり、官僚統制であり、軍人万歳であり、国民同士の監視密告社会でしょう。あの戦争で戦前の自由なき体制が負けて、戦後の自由な社会がもたらされた。だから、「負けてよかった」のです。

 

 この言葉を借りれば、吉田茂の系統は戦後の自由な社会を是として「あの戦争に負けてよかった」と考える政治勢力であり、岸信介の系統は戦前の自由なき社会を是として「負けてよかった」とは考えない政治勢力だということです。

 

 自民党の主導権は長らく吉田茂の系統を引く宏池会が「保守本流」として握ってきましたが、2000年代からは岸信介の系統を引く清和会が握るようになってしまった。そして岸直系の第二次安倍政権に至って、自民党は完全に清和会に乗っ取られ、宏池会は事実上滅んでしまった。その象徴が、今回の総裁選における岸田文雄の哀れな姿でしょう。戦後の自民党は長らく「あの戦争に負けてよかった」と考える政治勢力が主導してきたが、現在の自民党はそうとは考えない政治勢力に支配されてしまったということです。

 

 その結果、社会全体の雰囲気も変わってしまった。戦後の日本は戦争に対する深い反省の上に立ち、いわば「あの戦争に負けてよかった」と考える健全な思想が主流でした。しかし、安倍が長年総理の座に居座り続けたことで岸の亡霊が復活してしまい、それまで影に隠れていた「あの戦争に負けてよかった」とは考えない危険な思想が大手を振るい、戦前に対する憧憬と戦後に対する侮蔑が公然と語られるようになった。安倍政権の下で燃え上がったヘイトスピーチや反中嫌韓ブームなどもその表れでしょう。

 

 一方、菅はもともと宏池会に所属していましたが、今では清和会の安倍路線を継承しようとしている。菅は政治の師として梶山静六を尊敬しているというが、梶山の反戦平和主義は全く受け継いでいない。結局、菅も「あの戦争に負けてよくなかった」という岸的・安倍的な流れに乗って政権を運営していくはずです。

 

 しかし見方によっては岸の亡霊に取りつかれた安倍よりも、こういう「思想なきカメレオン」のような菅のほうが危険だとも言えます。菅政権は安倍政権以上にグロテスクな政権になり、日本の政治や社会をさらに悪化させかねない。今後は安倍批判以上に厳しい菅批判を徹底的にやらなければならないと思います。

(9月3日、聞き手・構成 杉原悠人)

 

<提供元/月刊日本2020年10月号>

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げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。


抽出「管(すが)政権に予想される言論統制」

 そもそも、安倍前首相も管(すが)新首相も、「呼び捨て」って所からして、「常識ある社会人らしからぬ所業」なのだが、それは先ず置いといて、章題にした通り、上掲記事から「管(すが)政権に予想される言論統制」を抽出していくと、以下のようになろうか。

① 東京新聞望月衣塑子記者に対する質問妨害と「木で鼻を括った様な」回答

② テレ朝「報道ステーション」の「I am not Abe」    プラカードに対する抗議

③ 毎日新聞の岸井成格の私的な勉強会に参加し、「良い勉強になりました」と「捨て台詞を残した」

④ 岸井成格の安保法反対論を非難する「放送法遵守求める視聴者の会」広告には、政府及び管(すが)新首相の関与があったに違いない(推測)

⑤ 放送法を改正して罰則規定を設けようとした

⑥ 総務省の下にテレビ番組の内容を監視する第三者委員会を作ろうとした

⑦ NHKの番組編集に介入した


 上記①から⑦の七点は、全て【A1】の中に入っており、逆に言うと上掲見出しにある「管義偉政権で言論統制はより陰湿化する危険性」に直接関わるのは此処までで、以降の【Q2】から【A4】までは「付帯情報」に過ぎない。まあ、その付帯情報にも、相応に興味深い点はあるのだが。

 言い換えれば、上記①から⑦の七点こそは、管義偉政権の言論統制」の事例であり本質、の筈なのだが・・・「抽出するそばからアホらしくなる」などと言う、稀有な体験をさせてもらったぞ。

 ま、気を取り直して、一つずつ見ていくとしよう。


① 東京新聞望月衣塑子記者に対する質問妨害と「木で鼻を括った様な」回答

・・・率直に言おう。「何処が、言論統制なんだ?」

 東京新聞・望月衣塑子記者を、暴力や警察力などで黙らせるような「質問妨害」ならば、此は言論統制の一種だろう。だが、そんなことを管官房長官(当時)なり日本政府なりが実施実行した事例なんてのは、全く記憶に無い。

 況んや、木で鼻を括ったような回答」で「言論統制」って、どう言うロジックなんだ?「木で鼻を括ったような回答」だと、政府なり、管官房長官(当時)なりを非難することは出来るだろう。だが、「言論統制だ!」と非難するのは、牽強付会が過ぎる、と言うよりは、狂気に近いロジックが必要だろう。

 大体、政府なり、管官房長官なりに対し「木で鼻を括ったような回答を許さない!」って事自体が、相当な言論統制ではないか。政府であれ、管官房長官であれ、誰であれ、「木で鼻を括ったような回答をする権利」ってのは、無いのかね?

 さらには、「木で鼻を括ったような回答」に対して、切り込んでこそジャーナリズムであり、ジャーナリストであろう。評論家・佐高信氏に左様なジャーナリズムは期待しかねるのかも知れないが、望月衣塑子記者はじめとする各紙記者は、正にその為に記者という職業にある筈ではないか。


② テレ朝「報道ステーション」の「I am not Abe」    プラカードに対する抗議


・・・政府や管官房長官(当時)というのは、「I am not Abe」プラカードという、取りようによっては「全人格を否定するヘイトスピーチ」に対し、抗議してもいけないのかね?況んやその抗議を、「言論統制」と非難されねばならないのかね?

 政府や管官房長官(当時)の「抗議」は、一個人の抗議よりは重みも凄みもあろうさ。だがその重みや凄みは、「言論統制とか「言論統制につながる」とか非難され、抗議を禁じられねばならない様なモノなのかね?

 政府や管官房長官(当時)は、そんな抗議はするな!」って主張自体は、立派な言論統制では無いのかね?それが「言論統制では無い」とするならば、その理由・根拠は何かね??

 「政府の言論統制を非難する佐高信という一個人は、政府などに言論統制を求める主張が許容される。」との主張であるならば、此も一種のキチガイだろう。


③ 毎日新聞の岸井成格の私的な勉強会に参加し、「良い勉強になりました」と「捨て台詞を残した」

・・・此を「捨て台詞」と感じるのは、佐高信なり岸井成格の勝手ではある。此を「捨て台詞」と感じるからこそ「管官房長官の、岸井主催勉強会への参加」を非難できるのだろうが、客観的事実に基づけば、勉強会への参加も、「良い勉強になりました」のセリフも、特段非難するには当たるまい。常識的な人間ならばそれぐらいの挨拶はするだろう。

 更に言えば、佐高信なり岸井なりが「捨て台詞」と確信していたとしても、それを「言論統制」だとか、「言論統制につながる」とか、非難する根拠になるのかね?

 佐高信が「管官房長官(当時)のことは大嫌いだ。」というのは、良く判るエピソードではある。だが、判るのはそれだけで、何が言論統制ナンダか、どんな言論統制につながるんだか、このエピソードからは全く判らない。


④ 岸井成格の安保法反対論を非難する「放送法遵守求める視聴者の会」広告には、政府及び管(すが)新首相の関与があったに違いない(推測)


・・・根拠も無く勝手に憶測して、非難している。この一面広告が岸井が死去した遠因かの如き記述も見られるが、もし仮にこの一面広告が遠因で岸井が死んだのだとしたら、そりゃ自業自得の自爆では無いのかね。

 何にせよ、此処で漸く現れた管(すが)政権に予想される言論統制」は「反論・非難の一面広告」でしかない。

 言論人が、その言論に反論され、非難されるのは、当たり前。それは言論人の宿命であり、義務ですらある。それがイヤなら、言論人なんて職業は辞めてしまうしか無い。その反論・非難の背後に、政府が居ようが居まいが、ブラックゴーストやショッカーやプロジェクト4が居ようが居まいが、関係ない。

 で、だ。「名指しで個人攻撃」って当たり前だろう。言論人としての発言に対する反論・非難なのだから「名指し」になる。「放送法に反している」って非難が「個人攻撃」ってのは理解しかねるが、「放送法を遵守している」ならば、左様に反論するだけの話。個人攻撃」なんて言っているあたりを見ると、「放送法を遵守している」とは「反論できなかった」モノと見える。

 いずれにせよ、言論人としての言論に反論・非難する一面広告を以て「言論統制だ」とか「言論統制につながる」とか非難している輩は、「最早、言論人としての資格は無い」のでは無かろうか。岸井氏は既に故人であるから、その「言論人としての資格」は今更どうと言うことは無いが、佐高信は存命なのだから、その「言論人としての資格」には、大いに疑義がある、ことになるな。

 ああ、勘違いするなよ。「言論人として失格」であっても我が国では言論の自由はある。タダ、「言論人として失格であるから、言論人としての発言は、信用信頼されないだろう。」と言うだけだ。此は「言論統制」では無いぞ。「言論の評価」であり、評論というヤツだ。



⑤ 放送法を改正して罰則規定を設けようとした
⑥ 総務省の下にテレビ番組の内容を監視する第三者委員会を 作ろうとした
⑦ NHKの番組編集に介入した


 上記⑤~⑦で、漸く「言論統制らしい項目」が出て来た。但し、⑤と⑥は「未遂」で実施されず、⑦は実施されたが「一体何のことか判らない」レベル。

 想起されるのは2005年に朝日が「2001にNHKが放送したETV特集「戦争をどう裁くか」に、安倍晋三副官房長官(当時)と中川昭一経産相(当時)が介入し、番組を放送前に改編させた。」と報じた「NHK番組改編問題」だが、本件はNHK自身が事実関係を否定している上、この件に管(すた)新首相が関与したなんて、聞いたことも読んだことも無い。「佐高信の記憶が、安倍晋三つながりで混線している」のでは無かろうかと、思えてしまう。

 更に言うならば、NHKには些かなりとも「日本の国営放送」って側面がある筈だ。その側面を強調強化するならば、「NHKの全ての放送が政府の完全統制下になった」としても、それは「言論の統制」には当たるまい。国営放送の一つの姿が具現化しただけであり、左様な状況下でも「言論の自由を守る」立場と義務が、民間放送には在るのでは無いか。

 民間ジャーナリストの端くれである筈の佐高信が、如何なる事実関係を指すのかは不明だが、「管(すが)新首相がNHKの番組編集に介入した」事を非難し、言論統制だとする理由は、サッパリわからない。NHKの番組編集に介入したぐらいだから、民放の番組編集にも介入するに違いない」ってロジック、かも知れないが、少なくとも「相当なロジックの飛躍」であり、正気を疑えるレベルである。

 上記⑤「放送法の罰則規定」と上記⑥「番組内容監視第三者委員会」を、「管(すが)新首相が実施しようとしたが、未遂に終わった。」とする断定断言が佐高信以外から出て来るかさえ定かでは無いが、それらが「言論統制となる可能性がある」点では、他の全ての非難より大分マシではあろう。

 だが、上記⑤も上記⑥も、実施するには法改正が必要で、当たり前だが法改正には国会での法案審議が必要だ。その法改正が「言論統制につながる」ならば、少なくともその責任の一端は国会にある。管(すが)新首相や管(すが)内閣だけを「言論統制のための法改正を実施した」と非難することは、出来ない筈だ。仮に左様な「悪意」に管(すが)新首相が充ち満ちていたとしても、法案を審議し、法律として成立させる責任は、国会にある。

結論。管(すが)新首相が実施する可能性がある、と辛うじて言える言論統制は、⑤と⑥のみであり、どちらも法改正を必要とする。従って、左様な「言論統制」の責の少なくとも一端は、国会にあるし、国会議員にある。

 大体、「放送法の罰則規定」や「第三者委員会による番組内容監視」程度で「言論統制」されてしまうようなジャーナリズムで、我が国では無い外国の言論統制、例えば中国共産党や朝鮮労働党の言論統制と、戦えるのかね?

 それともそれらとは、「ハナっから戦わない」心算かね?左様であるならば、矢張りジャーナリスト失格であろう。ジャーナリズムの欠片もない。

 ああ評論家と言われる佐高信にジャーナリズムがあろうが無かろうが、ジャーナリストとして合格だろうが失格だろうが、こちとら知ったことでは無い。中国共産党や朝鮮労働党の言論統制には嬉々として従いつつ、「日本政府の”言論統制”には反対する」としても、別に大した問題では無い。

 問題は、「中国共産党や朝鮮労働党の言論統制には嬉々として従いつつ、日本政府の”言論統制”には、さしたる根拠も示すこと無く反対し非難する」、その評論の価値であり、評論家としての佐高信の値打ち、信憑性だ。

 無論、上掲インタビュー記事は、管(すが)新首相の新政権関連であるから、「中国共産党や朝鮮労働党による言論統制」は登場しない。だから当然、佐高信自身も、隻言半句といえど触れては居ない。

 だが、「日本政府の”言論統制”には、さしたる根拠も示すこと無く反対し非難する」点は、佐高信の評論家としての価値を疑わせ、ジャーナリズムの存在さえ疑わせるに、十分である。

 尤も・・・

「モリカケ桜をもっと続けろ」って時点で、終わっているけどな。


 もう3年程も「マスコミと野党の総力をあげて、何一つ実証立証出来ない、出来損ないスキャンダル」「手を変え、品を変え冴えしているが、未だどれ一つ何一つ証明できていないネタ」を、更には「安倍政権時代に官房長官を務めていたとは言え、"疑惑の当事者"ですらない管(すが)新首相に対して追求する!」って宣言ないし要求している時点で、ジャーナリストとしても、ジャーナリズムも、評論家としても、「完全に終わっている」としか、私(ZERO)には思えんぞ。

 「御前は既に、死んでいる。」

 漫画「北斗の拳」の主人公・ケンシロウの決め科白が、これほど鮮やかに決まる相手も、随分久々では無いかな。対抗できそうなのは、立民党主・枝野と、韓国大統領・インスマスではない文、ぐらいだろう。