端的に言って、訳がわからん。ー【東京社説】<戦後75年>教育勅語からの脱却 「子供のための国」に
アカ新聞ばかりでは無く、「経済誌だから中立だろう」と考えられる事も多い日経(*1)や「右寄り」とされる読売までも、「日本新聞業界の大半」が非難の対象としたのが、教育勅語である。「一旦緩急あれば、義勇公に報じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」との一節が、「天皇ののために死ね。」の意味だとされ、「他の解釈は認めない/許容しない」ってのが、その非難の根幹であるらしい。素直に文言を読めば「一朝有事の際にはお国のために働き、我が国運を高めよ。」でしか無いし、その前に連なる文言はかの有名な「父母に考に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」までつながっていると解釈すれば(*2)、「皇運を扶翼すべし」を「天皇のため死ね」所か「天皇のため」と解釈する事さえ不可能だろう、とは以前のブログ記事で指摘したところ。「天皇のために親孝行しろ。」では、意味が通るまい。修身斉家治国平天下なら、古代中国にも見られる思想だ。
「他の解釈は認めない/許容しない」とは、流石に断定断言しかねたモノか、各紙はあれこれ屁理屈こねて教育勅語批判社説としていたのだが、イチャモンとしか思えないような愚論暴論づくし。お陰で弊ブログの格好のネタとなったモノだ。
私の知る限りでは、辛うじて産経だけが、斯様な「教育勅語批判」を「不毛な議論」とし、教育勅語を(一応)擁護していたが、「極右」とされることもある産経ですら、この始末であった。
そんな事を思い出したのは、「戦後75年」と銘打った東京新聞の連載社説の一つとして、久々に教育勅語批判社説が掲載され・・・まぁたろくでもないシロモノになっているから、である。
- <注記>
- (*1) 「殆ど生まれながらの右翼」である私(ZERO)からすれば、日経なんざぁ立派なアカ新聞である。
- (*2) 「汝臣民、」の呼びかけから始まり、「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」までを一つのフレーズと考える事は十分可能であり、意味も通る。
【東京社説】教育勅語からの脱却 「子どものための国」に
2020年8月13日 07時09分
【1】 今年の夏休みは多くの子どもたちにとって、記憶に刻まれるものになるでしょう。多くの学校で、いつもより短い。新型コロナウイルスの感染拡大防止で春に休校した穴埋めに夏休みを短縮して授業をする自治体が多いためです。
【2】 猛暑の中、奮闘する子どもや先生たちにエールを送りつつ、戦後七十五年とは別の「節目」から教育を考えてみたいと思います。今年は、明治政府が一八九〇年に教育勅語を発布してから百三十年となります。
【3】 教育勅語は、天皇が臣民に道徳を諭す体裁をとっています。一九四五年の敗戦まで教育の基本方針として強い影響力を持ち続けました。
【4】 一八六八年の明治維新以降、西洋をモデルに学校制度が整えられていきました。西洋思想も流入し、自由民権運動も広がります。政府の中では警戒感も強まり、従来の儒教への揺り戻しの動きも生まれました。
【5】 そういう時代背景の中で、教育勅語には親孝行など儒教的な徳目とともに、順法精神など西洋的な考え方も盛り込まれました。「一旦(いったん)緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と、国の一大事には身をささげて皇室国家に尽くすことを求めており、軍国主義教育の精神的な支柱となりました。
【6】 戦後の民主主義体制の中で教育制度を再出発させるにあたり、衆参両院は一九四八年に勅語の失効・無効を確認する決議を採択しました。
【7】 しかし、掲げられた徳目については普遍的とする再評価の動きは戦後、繰り返されてきました。政府は二〇一七年に「学校で、憲法や教育基本法等に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を決定しています。
◆繰り返される容認論
【8】 翌一八年には、柴山昌彦文部科学相が就任会見で「現代風にアレンジした形で、今の道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている部分がある」と発言し、物議を醸しました。
【9】 成り立ちを見れば分かるように、古今東西の徳目を集めているわけですから、部分的に普遍性を持つのは事実でしょう。しかし国のために身をささげる、つまりは「国のための子ども」をつくり上げていくことが究極の目的となっている以上、民主主義とは相いれません。
【10】 しかも、自分の頭で考える余地なく教育勅語を教え込まれた時代があったのです。子どもたちは教育勅語の暗唱を繰り返し、うまくできなければ体罰も受けたといいます。
【11】 作家の故井上ひさしさん(一九三四?二〇一〇年)も戦時下の軍国主義教育を受けた世代です。愛国心教育の色合いが強まった国民学校に通った人たちが護憲を訴えた「国民学校一年生の会」では、世話人代表も務めました。
【12】 二〇〇六年に出版した著作「子どもにつたえる日本国憲法」の後書きでは、繰り返される容認論、肯定論に対し、皮肉を込めてこう記しています。
【13】 <…このごろ「この憲法は古い」と言う人がふえてきました。そう主張する人は他方で、「明治の教育勅語はすばらしい」と言ったりしますから、なにがなんだかわからない。古いというなら、日本国憲法より、教育勅語のほうがよっぽど古いではありませんか>
【14】 教育の内容を定める学習指導要領で今、重きをおかれているのは、目的を自ら考え、問題を解決できる力です。子どもたちが今後人工知能(AI)の進化など変化の激しい社会で生きていくことが背景にありますが、コロナ禍で社会が混沌(こんとん)とする中、自ら未来を切り開く力はますます求められるようになるでしょう。
【15】 短い夏休みに象徴されるように学校は大変な状況です。新型コロナウイルスの感染拡大は収まらず学びの保障が危ぶまれます。しかし光が見えていないわけではありません。
【16】 今春の全国一斉休校でオンライン授業が注目され、パソコンなどの一人一台配備は前倒しで進められる予定です。オンライン授業を取り入れた学校では、不登校だった子も参加したとの事例も生まれているようです。
◆学びの危機だからこそ
【17】 新型コロナウイルスに伴う「三密」対策で分散登校も導入されましたが、今後、学級規模を小さくしていくことも選択肢として現実味を帯びてきました。財源の確保など課題もありますが、パソコンの活用とあわせ、一人一人ともっと向き合う新たな教育の姿を描いていくことも夢ではないように思います。
【18】 子どものため国に何ができるかが、問われていると感じる戦後七十五年の夏です。
タイトルからして、気に入らない。
ま、タイトルからして、気に入らないがね。「「子供のための国」に」ってやぁガル。国の施策の一つに教育政策があるのは事実だが、「国が子供のためにある」訳が無かろうに。
気を取り直して、上掲東京社説が教育勅語を非難する理由を抽出してみよう。例によって【】で示したのは、上掲東京社説のパラグラフ番号だ。
① 軍国主義教育の精神的支柱となった。【5】
② 衆参両院が1948年に勅語の失効・無効を確認する決議を採択した。【6】
但し、日本政府が2017年に「学校で、憲法や教育基本法等に反しない形で教材として用いる事までは否定されない。」と答弁した事は、上掲東京社説にもある。
③ 「国のための子ども」をつくり上げていくことが究極の目的となっている以上、民主主義とは相いれない。【9】
④ 自分の頭で考える余地なく教育勅語を教え込まれた時代があった。【10】
⑤ 日本国憲法より古い。【13】
で、【パラグラフ14】以降は「教育勅語批判」はどっかへ吹っ飛んで、「武漢肺炎禍以降の新しい教育」をやたらに強調している。多分、【パラグラフ13】あたりで引用した井上ひさしの上記⑤「教育勅語は古い」という批判の尻馬に乗っかったのだろう。そりゃ武漢肺炎対策のリモート授業その他が「登校拒否児童への救済策となる」かも知れないのは事実としても、道徳を扱う教育勅語と、武漢肺炎対策転じての登校拒否自動救済策が、同列って、変とは思わないのかな。
大体、登校拒否児童なんてのは、その候補・予備軍を含めたッて多寡が知れている。その救済策なんざぁ、喩え「救済策として完全な効果を発揮した」としても、「教育政策としての効果は限定的」であろうが。
まあ良い。上掲東京社説から抽出した「東京新聞が教育勅語を非難する理由」上記①~⑤について、論じていくとしよう。
① 軍国主義教育の精神的支柱となった。【5】
これは、良く聞く「教育勅語非難反理由」である。だからこそ、上掲東京新聞社説も真っ先に上げたのであろうが・・・
「お国のために死ね!」というのが仮に悪い事で、仮に「軍国主義」だとして(*1)、更に百歩譲って教育勅語が左様な「軍国主義教育の精神的支柱となった(*2)」と仮にして、だ。
だ・か・ら・な・に?
それは、「かつて(それも75年以上昔に)、教育勅語が"悪用"された。」と言う史実・過去でしか無い。教育勅語には左様な「前科」があったとしても、それが教育勅語の現在や将来を掣肘するモノではあるまい。
現在及び将来において、教育勅語を如何に活用するかは、現在以降の我々と、教育勅語自身に依るべきである。
なればこそ、「軍国主義教育の精神的支柱」などと言う「前科」に関わらず、虚心坦懐に教育勅語を読んで見ろ、と私(ZERO)は繰り返しているのである。
尤も、「心、此処にあらざれば、見るとも見えず。」で、教育勅語全文を読んでも「軍国主義教育の精神的支柱にしか見えない」人ってのはあるようだ。それはそれで仕方が無いが、「軍国主義教育の精神的支柱」としか「教育勅語」を知らず、全文を読まないなんてのは、論外だ。
上記④「自分の頭で考える余地なく教育勅語を教え込まれた時代があった。【10】」ってのにも、同じことが言えるがな。「そんな時代があった」からって、何なんだ?
今度は自分の頭で考えて、読めば良いだけの話だ。
- <注記>
- (*1) 「軍国主義」ってのも良く聞く悪口で、私(ZERO)自身が左様に言われた事も何度もあるが、それだけに「案外なくらいに曖昧な、恣意的な定義である」事も知っている。
- 更には、「お国のために死ね!」という思想・主張は「軍国主義に限らない」とも知っている。共産主義や民主主義が、「お国のために死ね!」と主張し、命じる事がある事実・史実も知っている。
- 映画「300」に描かれたスパルタ兵は、「お国のために死ね!」と教育され、命じられ、実践実行するが、非常に肯定的に描かれている。それも道理で、スパルタはじめとする古代ギリシャ都市国家は、民主主義の源流なのである。
- 更に言えば、「お国のために死ね!」ってのは、少なくとも「無条件に悪い事」では無く、条件によっては賞賛され、尊敬され、肯定されるべき事である、事も知っている。
- だが、まあ、ここでは、仮に「悪い事」として、だ。
- (*2) 戦前戦中を通じて教育勅語が日本人の精神的支柱であった事は、私(ZERO)も同意する。それは、教育勅語が道徳を説いており、道徳が日本人の精神的支柱であったのだから、当然である。
- 而して、「道徳が精神的支柱である」という状態を、私(ZERO)は肯定する。私(ZERO)自身が、そうありたいと願うね。
- まあ、私(ZERO)は人間がすれているから、必要とあれば道徳の一つや二つ放擲するだろうことは、充分想像できるが。
② 衆参両院が1948年に勅語の失効・無効を確認する決議を採択した。【6】
今回改めて、「教育勅語の失効・無効を確認する決議」全文を探してみた。ネット時代のありがたさで、苦も無く見つかったし、戦後の決議だから口語文であり、読むのに何の苦労も無い。(ま、私(ZERO)ぐらい古い人間は、文語文だろうが活字で書かれていれば何の問題も無いのだが。)
教育勅語の失効・無効を確認する決議(全文) http://historyjapanpwblog.net/kyoiku-chokugo-haijyo-ketsugi
で、これを読むと、先ず衆院は教育勅語と軍人勅諭を並列において、
衆1> これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めない事を宣言する。
衆2> 政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
としている。一方参院は、戊申詔書など複数を更に追加した上で、
参1> われらはとくに、それらが既に効力を失っている事実を明確にするとともに(*1)、
参2> 政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
と、決議している。
即ち、これらの決議で否定されたのは、教育勅語等の「指導原理的性格」であり、政府に要求しているのは「謄本の回収」である。
かかる決議に基づき「謄本は回収」されたのであろうから、そいつは既に済んで居り、残ったのは「指導原理的性格の否定」のみである。教育勅語にせよ、軍人勅諭にせよ、諸詔勅は「謄本回収」はされたが「禁書指定(*2)」された訳でも「発禁処分」にされた訳でも無い。此処で決議され、無効と宣されているのは、「日本国政府が、教育勅語をOne and Only唯一絶対の指導原理としたこと」であり、なればこそ、上掲東京社説にもある通り「教育勅語を教材として用いる事」が国会答弁で肯定されているのである。つまり、「One of Themとしての、教育勅語」なら、何ら問題ない、という事だ。
であるというのに、かかる「教育勅語の失効・無効を確認する決議」を以て、教育勅語を全否定するというのは、ある種の「国会軽視」であろうが。
- <注記>
- (*1) 不必要なぐらいに平仮名ばかりなのは、何故なんだろうね。
- (*2) なぁんて制度が、そもそも今は、無い。
③ 「国のための子ども」をつくり上げていくことが究極の目的となっている以上、民主主義とは相いれない。【9】
道徳教育がある種「子供を作り上げる」という側面があるのは、事実であろう。教育勅語が道徳教育の材料となり得るのも当たり前だな。
上記③は、実は幾重にも「おかしなこと」になっていて、論点、問題点を整理すると、以下のように「分解」出来よう。
【Q1】「国のための子供」となるよう道徳教育することは、否定すべきか?
言い換えれば、
【Q1A】「国のため」と子供に教える事は、してはいけないのか?
【Q2】道徳は、民主主義に基づくのか?
何故斯様な設問になったかというと、教育勅語は道徳を説いた道徳教材であり、これを「民主主義に反する」と否定する以上、「道徳は、民主主義に基づくべきだ、従うべきだ。」と、東京新聞は考えて居る、としか思えないから、である。
で、上記③で東京社説が教育勅語を否定する形で主張しているのは・・・
③A「”国のため”とは教えない道徳教育を、民主主義に基づいて実施すべきだ!」
と言う、一見尤もらしいかも知れないが、実に恐るべき思想統制なのである。
順番に行こうか。先ず【Q1A】について言えば、「道徳教育の一環一部が愛国教育の一面があるのは、理の当然だ。」と主張しよう。また、教育勅語自身が「一旦緩急あらば、万機公に報じ」等として「国のため」とする愛国教育を担っている。なればこそ、教育勅語は、肯定されるべきであって、否定されるべきでは無い。
”国のため”とは教えない道徳教育ってのは、相当な欠陥教育であろう。左様な教育を各ご家庭の教育方針とするのはそれぞれの勝手ではあるが、国の教育方針として強制される謂われは無い。
国の道徳教育は、少なくともOne of Themとして「”国のため”と教える道徳」を挙げるべきであり、この点でも教育勅語の教材としての提供は肯定される。
で、【Q2】について言えば、「道徳は、民主主義に基づくべきだ、従うべきだ。」という事は、「道徳が、数によって決せられ、少数派に強制される。」と言う事である(他に解釈のしようがあろうか?あるならば、是非御教示願いたい)。
それは、思想信条宗教良心の自由を蹂躙した、凄まじく非民主的な状態である。思想信条宗教良心の自由と、言論の自由があるからこそ、民主主義は成り立つのであり、思想信条宗教良心の自由が無ければ、幾ら言論の自由があったところで、民主主義は成立しない。
つまり、上記③、③Aの主張は、一見「民主的」に見えるかも知れないが、凄まじいまでに非民主的なのである。
⑤ 日本国憲法より古い。【13】
道徳ってのは、古い、保守的なモノだ。「新しい道徳」なんてのは、ろくなもんじゃぁない。ポリコレ(政治的に正しい)とか、ジェンダーフリーとか、胡散臭さばかりで中身が無いったらない。
ああ、日本国憲法について言えば、「古い」のが問題なのじゃぁない。非現実的で虚構妄想空想上の存在である「平和を愛する諸国民」なんぞに依拠した欠陥品が、発布以来ただの一語も修正されていないのが「悪い」んだ。
逆に教育勅語は、扱うの「古くて当然」である道徳で在る事もあって、21世紀の今日でも特に加筆修正の必要が無いぐらいだ。勅語という形式も、文語体も、旧仮名遣いも、形式としては「古い」が、大した問題では無い。
ああ、濁点と句読点だけは、付けた方が良い、とは思うな。修正すべきは、その程度だ。正に、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、である。
教育ニ關スル勅語
朕惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民、克ク忠ニ、克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。
是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所。之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
現代口語訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家に非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるだけでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。