憲法が、そんなに偉い、訳が無い。ー【毎日社説】きょうから大嘗祭 議論を避けた前例踏襲だ & 【東京社説】大嘗祭の日に 伝統と憲法の調和は

  応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/ranking.html
 

【毎日社説】きょうから大嘗祭 議論を避けた前例踏襲だ 
きょうから大嘗祭 議論を避けた前例踏襲だ
毎日新聞2019年11月14日 東京朝刊


 大嘗祭(だいじょうさい)がきょうから行われる。
 
 宗教色が濃い皇室の儀式に多額の国費が使われることに、憲法の政教分離原則との整合性を問う声は根強い。しかし政府は本格的な議論を避け、前例を踏襲した。

 大嘗祭は天皇の即位に関連する儀式の一つで、新天皇が神々に新穀を供え、五穀豊穣(ほうじょう)や国民の安寧を祈る。儀式は秘事とされ、非公開だ。

 政府は平成の代替わりで政教分離原則に一定の配慮をし、即位の礼などのように国事行為とせず、皇室行事とした。だが、皇位継承に伴う公的な性格があるとして皇室の公的活動費「宮廷費」からの支出を決めた。今回も祭場である「大嘗宮」の建設費などに約24億円を充てた。

 29年前の平成の大嘗祭をめぐっては、県知事らが公費を使って参列したのは政教分離原則に反するかどうかを問う裁判が相次いだ。最高裁は「参列は儀礼の範囲内」と合憲としたが、大嘗祭そのものへの国費支出について合憲性は判断していない。

 一方、大阪高裁は大嘗祭などへの国費支出を「違憲の疑義は一概に否定できない」と指摘した。今も法的な決着がついたとは言えない。

 前の天皇陛下の退位により、新天皇即位まで時間の余裕もあったが、政府は議論に踏み込まなかった。安倍政権の支持基盤で、戦前からの即位関連儀式の継続を重視する保守派の反発を懸念したためとみられる。

 こうした中、昨年11月に秋篠宮さまが「宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか」と発言され、波紋を広げた。

 秋篠宮さまは多額の費用を充てるのではなく「身の丈に合った儀式」にすることが本来の姿との考えを示した。その上で、天皇家の私的生活費にあたる「内廷費」を使うべきだと述べた。

 政教分離に関する重い問題提起だったが、政府はその後、一部を簡素化したものの、儀式のあり方自体を見直そうとはしていない。

 平成の時のように、国民の間で激しい意見対立は起きていない。だからといって、国民が納得しているとするのは早計だろう。

 伝統を守るのは大事だが、憲法問題をあいまいにしたまま前例を踏襲するばかりでは、皇室と国民の距離は広がりかねない。
 
 

【東京社説】大嘗祭の日に 伝統と憲法の調和は

大嘗祭の日に 伝統と憲法の調和は
 
2019年11月14日
 
 天皇即位に伴う大嘗祭(だいじょうさい)が十四日、十五日と行われる。伝統儀式で宗教色が濃い。明治の大規模化の踏襲でいいのか。憲法との調和も深く考えるべきだ。

 日本民俗学の草分けである柳田国男に「大嘗祭と国民」という小文がある。大正天皇の代に貴族院書記官長で、京都での大嘗祭に仕えた。こう記している。

 <如何(いか)なる山の隅にも離れ小島にも(中略)遠くその夜の神々しい御祭の光景を、胸にえがかざる者は一人もない>

柳田国男の苦言とは

 <夜の御祭には本来説いてはならぬ部分があるのかも知れぬ。(中略)今考えると唯(ただ)きらきらと光るものが、眼(め)の前を過ぎたという感じである>

 国民の感激と体験した神秘性を伝えている。一方で、儀式の壮麗さを批判する文面が「大嘗祭ニ関スル所感」の一文に表れる。

 <今回ノ大嘗祭ノ如(ごと)ク莫大(ばくだい)ノ経費ト労力ヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞>

 心ある者が「眉ヲ顰(ひそ)メシムル如キ結果ヲ生シタル」と。経費や労力だけでなく、「徹底的ニ古式ヲ保存シ一切ノ装飾ヲ去」らねばならないのに、問題点を挙げ苦言を述べている。

 柳田の一文は昨年の秋篠宮さまの発言を思い出させる。「大嘗祭は身の丈に合った儀式で行うのが本来の姿」とし、「宗教色が強いものを国費で賄うことは適当かどうか」とも疑問を述べられた。

 天皇家の私的費用である「内廷費」で対応する。儀式会場の大嘗宮を新築せず、宮中にある新嘗祭(にいなめさい)の神殿を利用して経費を抑える、そんな提案だった。

 新嘗祭は毎年行われるが、大嘗祭は皇位継承時のみである。皇祖および天つ神・国つ神に安寧を、そして国家・国民の安寧と五穀豊穣(ほうじょう)を祈る。だが、秋篠宮さまの持論を宮内庁側は「聞く耳を持たなかった」という。

簡素化案は検討せよ

 これは見過ごせない問題を投げ掛けている。まず「身の丈」-。大嘗祭の公費支出は総額二十四億円余り。皇居・東御苑に大嘗宮が建てられ、約九十メートル四方に大小三十もの建造物群が並ぶ。参列者は約七百人にのぼる。壮大な国家的行事の様相を示す。
 これほどの巨大な儀式が必要なのか。伝統といいつつ、祭祀(さいし)一般が巨大化したのは明治期からである。むろん天皇を神格化する国家づくりのためである。十七世紀の「鈴鹿家文書」にある大嘗祭図は高床式の素朴なものである。奈良・平安時代は床さえなかったという。もともとは天皇が身を清める「廻立(かいりゅう)殿」、東西の祭場「悠紀(ゆき)殿」「主基(すき)殿」、調理場「膳屋(かしわや)」が基本なのだ。さらに室町時代から江戸時代の約二百二十年間は中断していた歴史もある。

 議論を尽くさず「前例踏襲」と言い、かつ仮に明治賛美をあおると、天皇神格化の復活の意図があるか、政権による天皇の政治利用の意図さえ疑われるであろう。何しろ「文化の日」を「明治の日」とする案が浮かぶ今日である。

 簡素化案は今後、十分に検討すべきであろう。「内廷費」で賄うべきだとの考えは憲法の政教分離原則に沿っている。政府は大嘗祭の宗教性を認めているから、国事行為にはできない。だが、「皇位継承に伴う重要な皇室行事」とし、公費支出する。つまりは重要というだけで論理が希薄である。

 平成の式典で一九九五年の大阪高裁判決が原告敗訴ながら、「政教分離規定に違反するという疑義は一概に否定できない」と述べたことに留意すべきである。今回もキリスト教関係団体などが「国家神道の復活を意味し、違憲だ」と主張しているし、別の市民や弁護士らが提訴する動きもある。

 象徴天皇制は戦前の君主制の否定であるし、政教分離は神権的天皇制の封印のためである。公費支出にこだわらなくとも、秋篠宮さまの提案にも十分に理があるはずである。
 即位に際しても「即位灌頂(かんじょう)」という仏教色の儀式があったが明治になり廃された。江戸期の天皇は京都・泉涌(せんにゅう)寺で埋葬されてきた。明治政府の神仏分離で変わった。そんな歴史をたどれば、現行方式は明治以降の伝統にすぎないとの考えもある。

新皇室典範から削除

 そもそも大嘗祭は新皇室典範から削除されている。戦後の国会で「信仰の点を含むため不適当」とされたためだ。それでも「前例踏襲」で戦前と同じ形式を続けるのは、思考停止と同じである。このままでは戦前回帰の宗教的なナショナリズムを抱く人らに、皇室祭祀が利用される恐れがある。

 多様な信念を持つ人々が暮らす日本で、憲法にふさわしい様式を真面目に考えてはどうか。有り体に言って、我が国の天皇陛下は、日本国憲法よりも遙かに「日本」だ。
 

有り体に言って、我が国の天皇陛下は、日本国憲法よりも遙かに「日本」だ。

 
 さらに言えば、天皇陛下と日本国憲法が相対立するならば、優先すべきは天皇陛下の方であって、日本国憲法では無い。
 
 これは、一般論では無い。我が国固有の事情・事態だ。
 
 これは、法理・法論では無い。恐らくは「法理・法論からすると、憲法こそ至尊にして至高」なのだろうさ。
 
 だが、我が国には天皇陛下がおわすから「至尊にして至高」なる地位は、たかだか戦後ポッと出の占領軍憲法如きに、与えられる訳が無い。
 
 これは多分に常識論であり、情緒論であり、ある意味「人情論」でもあろう。だが、常識論であり、情緒論であり、「人情論」であるだけに、強力で強烈だ。
 
 故に、「前歴踏襲」や「伝統」は、「憲法」よりも優先される。
 
 「前歴踏襲」や「伝統」が、「憲法違反」であるならば、変えるべきは「憲法」の方だ。
 
 明確な史実で勘定しても、大化の改新以来で1300年以上。建前上皇紀に従えば27世紀を数える「天ちゃん」の伝統だ。戦後70年ほどの歴史しか無く、占領軍が占領下に押しつけた日本国憲法如きで、掣肘されてたまるかよ。