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 葉梨愛様ブログより先行転載記事にした通り、葉梨愛様は教育勅語の以下2箇所を明示して、「ココが決定的にダメと断じ、これを教育勅語擁護論者に「たたきつけろ」と主張されている。

① 我が臣民克く忠に克く考に億兆心を一にして世々厥の美を濟せるは此れ我が國體の精華にして教育の淵源亦實に此に存す

② 一旦緩急あらば義勇公に報じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし

 先行転載記事及び転載元記事https://blogs.yahoo.co.jp/hanashi_ai/22272066.html#22272066を見れば明らかだが、教育勅語原文の一部をハイライトするって、中々凝った手法だ。

 で、だ。「教育勅語は我が国の宝であるシリーズ(仮称)」なんて擁するブログのブログ主たる私(ZERO)は、斯様な記事を「たたきつけられる」べき立場であるらしい。

 喜んで、「たたきつけられ」ようではないか。

 I love the JOB!
 なぁんて楽しい仕事だ!
ードッジ艦長@映画「イン・ザ・ネイビー」ー

「一旦緩急あらば義勇公に報じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の、何が悪い??

 コイツは「教育勅語批判の定番」であり、朝日社説なんか教育勅語の本質は”一旦緩急あらば義勇公に報じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし”にある!!」と「批判」しているんだから、呆れるよなぁ。

 ”一朝有事には天皇のために死ね”と書いてある!!天皇主権で国民主権に反する!!軍国主義だ!!!国家主義だぁぁぁぁ!!!!!ってのが、上記②を非難する理由、なのだろう。

 「なのだろう」って曖昧な表記しかしないのは、上記②原文を一朝有事には天皇のために死ね」とする解釈しか成り立たない、なんて私(ZERO)は思わないし、それ故に上記②を天皇主権とも軍国主義とも国家主義とも考えないから、だ。
 
 先行記事「教育勅語は我が国の宝である」に縷々述べた通り、上記②の前の長いフレーズ、「教育勅語で普遍的道徳を説いている部分」でもある「父母に考に、兄弟に友に・・・」「上記②にかかっている」と言う解釈も十分成り立つ。の・だ・が、ココでは上記②の部分だけ取り出して(敢えて)論じるとしよう。先行転載記事(のコメント欄)にした通り、「一部分だけ切り取っての非難」は「一部分だけ切り取っての称賛」と同じぐらい「信用できない」のだが、敢えて向こうの土俵に乗ろうじゃぁないか。

 さて、上記②の解釈は万機公に報じ」と「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の解釈にかかっていよう。前者を「死ね」と、後者を「天皇のために」と解釈し、「他に解釈は許さない」って教条主義だか復古主義だか懐古主義だか似非平和主義だかの立場に立たないと上記②は決定的にダメだ」なんて断言は出来ないだろう。

 無論、私(ZERO)は、そんな解釈はしない。「かつてそのように解釈され、教育された」のが事実史実としても(*1)21世紀の日本人としては上記②は「皇運」=「国運」と解釈し、「一旦緩急あらば万機公に報じ」を「一朝有事の際にはお国のために尽くせと解釈する。左様な解釈が絶対とも主張しない。「左様な解釈が成り立つ」で十分だ。

 一朝有事の際にはお国のために尽くせってのは、少なくとも「あって良い」主張であり「無ければ困る」主張である。これは、軍国主義も国家主義も、少なくとも直結していない。民主主義だろうが共産主義だろうが大凡国家全てに相通じる主張だ。それこそ「之を中外に施して悖らず」だ。

 「お国のために尽くせ」に「死ね」という含意が「無い」とは言わないが、「”死ね”と言う含意」も含めて、「一朝有事の際にはお国のために尽くせ」は「大凡国家全てに相通じる主張」であろう。

 「”一朝有事の際にはお国のために尽くせ”を国民に強制する」には、21世紀日本では問題もあろうさ。だが、政府答弁にしても多くの教育勅語擁護論にしても、私(ZERO)自身にしても、教育勅語を(かつてのような(*2))One and Onlyとして教育しろ」なんて主張していない(*3)One of Themとして「一朝有事の際にはお国のために尽くせ」と言う考え方を教えるのに、何の問題があろか。

 従って、上記②「一旦緩急あらば義勇公に報じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」は、「決定的にダメ」なんて事は全くない。QED
 
 「決定的にダメ」と断じるには、上述の通り、教条主義だか復古主義だか懐古主義だか似非平和主義だかが必要だろう。

<注記>

(*1) それも私はかなり疑問視しているのだがね。 

(*2) 再び繰り返すが、怪しい 

(*3) 第一、教育勅語自身にしたって「勅語」であって「勅命」では無い。原文最後に天皇陛下自身が「お願い」しているじゃぁないか。
 おおっと、これは「教育勅語全文」を対象にしていたな。「土俵から外れる」 

「我が臣民克く忠に克く考に億兆心を一にして世々厥の美を濟せるは此れ我が國體の精華にして教育の淵源亦實に此に存す」は、お国自慢の先祖自慢ですが、何か??


 コイツは「新しい切り口」だ。私のような教育勅語擁護論者としては「何だって、教育勅語のこの部分が、”決定的にダメ”なのだぁ?」と思うほど。それ即ち、少なくとも私(ZERO)に関する限りは「ちっとも”決定的にダメ”ではない」と言うことだが。

 上記①を私(ZERO)が解釈・要約するならば、御先祖様は偉かった。御先祖様を見習うのが道徳教育の原点だ。となる。章題に触れた通り「お国自慢の先祖自慢」であり、私(ZERO)に言わせれば「人間の原初的感情の発露」だ。なぁんの問題も無い。

 「心を一にし」とか「我が臣民」ってのが「全体主義的だ」とか「国民主権に反する」とか言う解釈は成り立ちそうだ。が、そりゃぁ解釈一つだろう。「心を一にし」は「全体主義と断じるには根拠薄弱」と反論するし、「国民主権に反する」と言う主張には「臣民=国民と解釈して、何か問題でも?」となる。大体、教育勅語が扱っているのは基本的に道徳で、国民主権だの日本国憲法だのは、「お門違い」=有効射程範囲外だろう。

 日本国憲法や国民主権に基づく道徳をお持ちの方も世の中にはいる(*1)らしいから、「上記①は国民主権に反するから決定的にダメ」と主張されるのは、(そのような道徳をお持ちの限り)問題ないが、「道徳と国民主権は(少なくとも)直結しない」と私(ZERO)は主張し、国民主権に反するから決定的にダメ」と断じるのは、「国民主権の横暴ないし暴走であろう。」と主張する。

 で、左様な反論が成立する以上、上記①も「ダメ」と言うのは「決定的では無い」と言えよう。

 まあ、根源は、「国民主権が道徳を規制するか?」って処に行き着きそうだがな。「国民主権が道徳を規制する」とすると、道徳ってのは「国民投票で変更される」モノなのかな。想像するだに笑止だな。

<注記>

(*1) どんな「道徳」かは、一寸私(ZERO)の想像を絶するが。 

教育勅語原文を読んでも、ダメな奴はダメ、らしい。


 以上縷々、葉梨愛様よりの先行転載記事「教育勅語から12の徳目なるものだけ切り抜いた挙句思いっきり砂糖をまぶして、ほとんど別物に仕立てた怪文書画像をばらまいて「教育勅語のどこが悪い?」と吹いてるのを2種類見たので、応急措置ですが「ここが悪い 」の「教育勅語の決定的にダメ」な部分を検証して来たが・・・それ以前に、先行転載記事からすると、葉梨愛様は教育勅語原文、少なくとも写真にハイライトされた部分上記①、②は「読まれた」筈である。これは私にとって一寸した驚きである。

 「教育勅語は我が国の宝であるシリーズ(仮称)」において、トンチンカンな教育勅語批判を為す各紙社説に対し、私(ZERO)は何度も「教育勅語原文を読んだことがあるのか?」と揶揄し、嘲笑してきた。

 が、先行転載記事及び転載元記事に明白明確である通り、葉梨愛様は「教育勅語原文を読みながら、斯様な教育勅語批判を(それもかなり強烈な)為している」事が示されている

 つまりは、「心、此処にあらざれば、見るとも見えず」の見本ということだ。偏見・先入観ってのは、怖いねぇ。以て他山の石としよう。

 それはそれとして、北朝鮮は滅ぼすべきだな。


教育ニ關スル勅語


 
 朕惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。
 
 我カ臣民、克ク忠ニ、克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
 
 爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。
 
 是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
 
 斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所。之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
 
明治二十三年十月三十日
御名御璽

現代口語訳

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

 そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や秩序を守ることは勿論のこと、国家に非常事態発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

 そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるだけでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。