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【朝日社説】9条俳句裁判 公共の場の表現を守る
【朝日社説】9条俳句裁判 公共の場の表現を守る2018年5月20日05時00分【】 梅雨空に「九条守れ」の女性デモ――。さいたま市の女性が詠んだ俳句を、公民館だよりに載せることを市当局が認めなかった問題で、表現活動への安易な規制を戒める判決が、東京高裁で言い渡された。
【】 この公民館では、地元の俳句サークルで秀作に選ばれたものを、たよりに掲載するのを慣例としてきた。ところが女性の句は拒まれた。「公民館は政治的に公平中立であるべきだ」というのが、市側の説明だった。
【】 高裁は、住民が学び、生活や文化を豊かにする場である公民館の役割に注目した。
【】 学びの成果の発表を思想や信条を理由に不公正に取り扱うことは、思想・表現の自由の重みに照らして許されない。意見が対立するテーマだから排除するというのは理由にならない。
【】 そう指摘して、一審に続いて女性に慰謝料を支払うよう、市に命じた。
【】 市民が意見表明しようとすると、自治体がその前にたちはだかる例が、近年各地に広がる。
【】 たとえば金沢市は、市庁舎前の広場を護憲集会に使うことは「特定の政策や意見に賛成する目的の示威行為」だとして、昨年から許可しなくなった。神奈川県海老名市は、駅の自由通路で政治的メッセージを含む活動をするのを禁じる命令を出した。これは裁判所によって取り消されたが、こうした規制の一つ一つが、市民の正当な権利を確実にむしばんでいる。
【】 表現しようとする者だけではない。その機会を提供する者への圧力や批判も目につく。
【】 前川喜平・前文部科学次官が名古屋市の中学でした講演について、文部科学省は自民党議員の意向をくみながら、市教委に対し、教育現場への介入と言うほかない異例の調査をした。北九州市では、前次官の講演会で司会を務めた市議に、中傷や脅迫が相次いだ。ネット上には、気に入らない言論や集会を攻撃する過激なことばがあふれる。
【】 面倒に巻きこまれたくない。自治体の担当者らがそう考えるのもわからなくはない。しかし事なかれ主義に流れれば、社会はやせ細るばかりだ。
【】 人々が学び、意見を交わし、考えを深めることが民主主義の基本である。そして、その根底を支えるのが表現の自由だ。
【】 もちろん、他者の人権を侵すヘイト行為などは、厳しく批判されなければならない。
【】 だが、そうでない活動は最大限保障するのが、憲法の説くところだ。自治体は市民と対立するのでなく、自由を守る道を一緒に歩んでもらいたい。
【東京社説】9条俳句訴訟 表現の自由を侵すのに
2018年5月19日【】 「九条守れ」の言葉が入った俳句を掲載拒否。さいたま市の公民館で起きた問題は表現の自由を奪うに等しい行為だ。だが東京高裁は違憲とはせず、わずかな賠償を市に命じたのみだ。疑問に思う。
【】 「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」-。二〇一四年、俳句サークルの女性が詠んだ句は、会員の投票で「秀句」に選ばれた。慣例により公民館の月報に掲載されるはずだった。ところが、公民館側は「不掲載」と判断した。
【】 ちょうど集団的自衛権の問題が大きな政治課題となっていた時期にあたる。公民館側はサークル側に「公平・中立の立場から掲載は好ましくない」と説明した。
【】 だが、この判断はおかしい。なぜなら、俳句を詠んだのは女性なのであり、表現の自由が憲法で保障されている。公民館側が「九条守れ」の言葉に対し一方的に「公平・中立」というものさしを持ち出し排除することは、その自由を踏みにじることになるからだ。
【】 東京高裁も「世論が大きく分かれていたという背景事情があっても、掲載しなかったことは正当な理由にならない」と述べている。思想・信条を理由にした不公正な取り扱いで、女性の利益を侵害したと認めたわけだ。
【】 ただし、判決は表現の自由を狭く解釈していないだろうか。「特定の媒体による表現行為を制限されたにすぎない」「表現者が表現手段の利用権を有することが必要」などと説明する。
【】 しかし、月報への掲載は慣例だったからサークル側に「利用権」があると解せないのか。何より「九条守れ」に過剰反応する対応は、まるで戦前の検閲による掲載拒否を思わせる。
【】 俳人の故・金子兜太さんは、この問題に危機感を持ち、「表現や作品を政治的判断で葬ろうとする姿勢は戦争のころと変わっていない」と語っていた。本紙も一五年から一七年にかけ読者から募った「平和の俳句」を載せた。金子さんには、選者をつとめてもらった。
【】 さらに深刻に思うのは、九条俳句問題にとどまらず、公共施設などで中立性や公平性を盾にして、さまざまな集会などが制限されてはいないかという疑いだ。大学でも集会は全く自由ではない。表現や言論の自由が息苦しい。
【】 片や自民党総裁たる首相は公然と「改憲」を訴え、「九条を変える」と言う。「九条守れ」の市民の意見が自由でなくては、公正な社会とは到底言えない。
両紙に尋ねよう。俳句に読まれたのが「9条変えろのデモ」で、当該誌がこれを掲載したら、両紙は「表現の自由が守られた」と同意ないし許容しただろうか
或いは、俳句が「9条変えろのデモ」を詠み、同誌がその掲載を拒んだら、やはり「表現の自由の侵害」として今回のような社説を掲げたろうか。
「表現の自由」は、基本的に「表現する内容には依らない」筈だ。公序良俗に反するものでもない限り。従って「9条守れ」でも「9条変えろ」でも同様に「表現の自由」が認められて然るべきだ・・・・ああ、朝日東京両紙が「憲法9条改憲論は、公序良俗に反する」とするなら話は別だが、左様であれば左様と主張されるべきであろう。
左様な「憲法9条改憲論は、公序良俗に反する」両紙の主張は寡聞にして知らないし,上記に設問した両紙への質問の答えが「Yes」とは想像しがたい。
即ち私(ZERO)の想像・予想では、
(1) 当該誌が「9条変えろのデモ」を詠んだ俳句を掲載したら、両紙はこれを大いに非難し、「表現の自由が守られた」などとはおくびにも出さなかったろう。
(2) 当該誌が「9条変えろのデモ」を詠んだ俳句を掲載拒否したら、両紙はこれを「表現の自由を守れ」と非難するどころか、おそらくは称賛ないし許容しただろう。
つまりは、両紙の言う「表現の自由」なるものが「表現の内容に依存する恣意的なもの」ではないかと疑っているのだ、私(ZERO)は。
恣意的・選択的な「表現の自由」は、単なるプロパガンダだ。
それこそ正に、両紙が日ごろ実践実行している処ではあるがな。
それはさておき、北朝鮮は滅ぼされるべきである。