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「朝日社説」「ヘイト規制 差別許さぬ意識深化を」
【朝日社説】「ヘイト規制 差別許さぬ意識深化を」

【】 人種、民族、宗教などをめぐる憎悪の言動を防ぐには、どうすべきか。地域ごとの試みで、社会の意識を深めたい。

【】 このほど川崎市が公表した新たな取りきめが注目されている。いわゆるヘイトスピーチを規制するためにつくったガイドライン(指針)である。

【】 ヘイトスピーチの恐れがある場合、公園など公的施設の使用を認めない。使用許可を出した後でも、恐れがあるとわかれば取り消すとしている。

【】 申請者の活動歴やネットでの情報発信などをもとに判断するという。実際に不許可などにする時は、弁護士らでつくる第三者機関に諮り、結論を出す。

【】 これまでも大阪市などで先駆的な動きはあったが、公的施設の利用を事前に規制する基準を盛った指針は初めてという。

【】 ヘイトスピーチをめぐっては昨年夏に対策法が施行された。だが、罰則のない理念法であるため、実効性のある対策をどうとるかは模索が続いている。

【】 大阪市は法成立に先んじて条例をつくり、問題行為をした者の名称を公表することにした。その後、ネット上の動画をヘイトスピーチと認定したが、投稿者名などの情報は得られず公表には至っていない。

【】 川崎市も昨年、特定団体の公園使用を、市の判断で許可しなかったことがある。これまでは市長と職員が個別に判断してきたが、今回の指針により一定の基準が確保される。

【】 ただ一方で、こうした対策の悩みどころは、表現の自由との兼ねあいだ。

【】 差別的言動を防ぐ目的でできた規制が正当な表現の制約につながったり、時の権力への批判を封じる道具に使われたりすることは断じて認められない。

【】 その意味でも、第三者機関に人権問題の専門家を含めるといった配慮が必要だろう。また、結論にいたる過程の透明性も確保されねばなるまい。

【】 最近のヘイトスピーチは、民間の施設で少人数で集まり、それをネットで中継するなど巧妙化している。街頭での行動だけでなく、ネットの投稿や書き込みに、今後どう対応するかといった課題も少なくない。

【】 差別をなくすための方策は常に、正解があるわけではない。人間の多様さを認め、尊重するという基本的な人権の感覚を社会でどう養い、強めるかという恒久的な問いかけが必要だ。

【】 言葉の暴力に対しては、社会全体で拒絶する姿勢が欠かせない。自治体や組織、企業など、それぞれの立場で問題意識をもち、対策を考えるほかない。

「差別はいけない」は一見正論だが、「”差別はいけない”という差別」は、無いのかよ。


 「無い!」と断言できる奴ぁ、よっぽどおめでたい奴か、心底差別主義者なんだろうさ。
 
 ああ、上掲朝日社説には、

1> ただ一方で、こうした対策の悩みどころは、表現の自由との兼ねあいだ。

とあり、「アリバイづくりにぬかりはない」様だが、続けて、

2> 差別的言動を防ぐ目的でできた規制が正当な表現の制約につながったり、
3> 時の権力への批判を封じる道具に使われたりすることは断じて認められない(*1)

とあるから、上記2>は兎も角、上記3>を裏返せば、「政権批判のヘイトスピーチは許容する」ないし「政権批判はヘイトスピーチに当たらない」であろう。朝日が先頭に立って「追求」した/している「森友&加計学園”問題”」何ざぁ、推定有罪通り越して「ヘイトスピーチ」のレベルに迫っているし、「安倍政治を許さない」だの「アベハァヤメロォ」なんてお題目も相当に「ヘイトスピーチ的」である。

 再三繰り返しているが、私(ZERO)はヘイトスピーチを憎み、蔑視し、嫌悪することで人後に落ちる気はしない。ヘイトスピーチは、実施している者の知性の低さと品のなさの現れであるし、それを公言する者は「自分の差別意識を公言している」ばかりでなく「知性の低さと品のなさを自白している」様なものであるから、軽蔑・嘲笑・嫌悪、以外しようがない。

 また、私(ZERO)は「差別はいけない」なんて建前論(と言って悪ければ、書生論)ではなく、「差別は、差別によって思考停止に陥り、誤判断を増やすから、差別する当人にとっても損である。」という功利主義から、私自身が「差別に陥らないように」心がけている。「差別する」ことは「差別対象を侮る」ことにつながるから、誤判断を増やすばかりで減らしようがない。

 大東亜戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃が奇襲となり、劇的な効果と影響(*2)を与えたのは、「日本人や有色人種に対する差別・偏見があったから」と考えると合点がいく。

 「黄色い猿には、まともに飛行機も作れなければ、操縦も下手だ。」と思っていれば、そりゃ奇襲も喰らうわなぁ。

 その一方で、差別というモノは「ついには無くならないだろう」と思っているし、意識しているとは言え神ならぬ身の人が為すこと故、私(ZERO)自身にも差別は「あって当然。なければ、奇蹟」と思っている。

 人が、自由な人である限り。

 上掲朝日社説が絶賛ずる「川崎市のヘイトスピーチ規制指針」も、それを絶賛する上掲朝日社説も、「人の自由を奪うことで、差別をなくそう」とする活動になる公算大である。

 たとえ「ヘイトスピーチの判定を第三者機関に委ねる」とか「その第三者機関に人権問題の専門家を含めた」としても、その第三者機関が公正中立である保証は無い・・・・どころか、「人権問題の専門家を含めた」時点で、「公正中立な訳がない」と、断じうる。

 実は上掲朝日社説の終盤、「差別解消意識には、不断の努力が必要」って点に、私(ZERO)も同意する。だが、その「不断の努力」は「差別許さぬ意識深化」だの「言論統制」だのにすべきではない。

 バカが、バカを自ら曝すのは、「見て楽しむ」のが正しい。

 バカを曝すことを助長すべきではないだろうが、禁じるべきではない。

<注記>

(*1) 「モリカケガァ!」と喚くだけの「権力を批判する道具としては大いに奨励する」ってのも、どうかと思うぞ。
 ヘイトスピーチである条件は、ヘイトする対象には依るまいに。 

(*2) その裏返しとしてのRemember Parl Harbor と言うキャッチコピー