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【東京詩文社説】政治と世論を考える<6> 新聞の責任をかみしめる?ref=rank 2017年8月26日【1】 世論研究の先駆的著作「世論」が米国で刊行されたのは一九二二年。著者であるリップマンが三十三歳のときだった。
【2】 彼の疑問は、この複雑で巨大な現代社会で一般の人々が問題を正しく理解できるか、民主主義が可能か、ということだった。確かに民主主義は主権者である国民が正しくさまざまな問題を理解し、正しい投票をする前提で動いていく仕組みである。
【3】 だが、どう考えても彼には人々が正しい理解をしているとは思えなかった。従って公衆が賢明な意見を持つことを前提とする民主主義は成り立たない。だから、情報の分析や判断は、専門家集団に委ねざるを得ないと考えた。専門家とはジャーナリストなどだ。
【4】 第一次世界大戦に情報担当大尉として加わり、世論がいかに政府によって操作されやすいものであるかも体験していた。それが「世論」を書く動機でもあった。
【5】 <新聞は一日二十四時間のうちたった三十分間だけ読者に働きかけるだけで、公的機関の弛緩(しかん)を正すべき『世論』と呼ばれる神秘の力を生み出すように要求される>(「世論」岩波文庫)
【6】 リップマン自身がワールド紙の論説委員であったし、新聞コラムを書くジャーナリストであった。晩年にはベトナム戦争の糾弾で知られる。正しいと信じる意見を述べ続けていたのである。
【7】 現在の日本の新聞界はどうか。
【8】 日本新聞協会が昨年発表した全国メディア接触・評価調査では、新聞を読んでいる人は77・7%。「社会に対する影響力がある」との評価は44・3%で、二〇〇九年調査の52・8%より低下。「情報源として欠かせない」との評価は32・5%と、〇九年調査の50・2%より大きく落ち込んだ。
【9】 影響力はあるとしても、情報源として不可欠であると思う人は減っている。つまりインターネットなどとの接触が増えているのだろう。だが、ネット社会は虚偽の情報も乱れ飛ぶ密林のようなものでもある。
【10】 リップマンに従えば専門家を介さないと、国民は問題を理解できなくなり、世論は政府に操作を受けやすくなる。逆に、熱した世論に迎合する政治だってありうる。
【11】 そうならないよう、情報を集め分析し国民に知らせるのが私たちメディアの仕事である。ネットも同様だ。世論の重みをあらためてかみしめたい。=おわり(桐山桂一、豊田洋一、青木睦、飯尾歩)
「情報を分析し、国民に知らせる」と称して、プロパガンダばかりやっているから、信用されなくなったんだよ。
左様な自覚すら無いようならば、失われ、失墜した「新聞に対する信用・信頼」なんざぁ、回復しようも無かろうさ。
ま、それはそれで、「殆ど生まれながらの右翼」たる私(ZERO)としては「喜ばしい」ことではあるが。
知らんのかね?日本共産党機関誌「赤旗」のキャッチコピー(の一つ)は、「真実を伝え、希望を運ぶ」だぞ。そりゃプロパガンダには「真実」印がないことには、都合が悪かろうからな。
1> 情報の分析や判断は、専門家集団に委ねざるを得ないと考えた。
2> 専門家とはジャーナリストなどだ。
2> 専門家とはジャーナリストなどだ。
その「専門家としてのジャーナリスト」が不偏不党中立ならば、「情報の分析判断を委ねる」のも一法であり、一興かも知れない。
だが、東京新聞自身を含めた「実在のジャーナリスト」は「不偏不党中立」どころか「脱原発原理主義」とか「平和教」とか断ぜざるを得ないほどの偏向ぶりを見せている。第一、東京新聞は大分前の社説に「新聞社として主張せねばならないこと」として①脱原発 ②オスプレイ反対 ③消費税値上げ反対 を列挙して見せたではないか。それでいて「新聞の責任をかみしめる」と社説に銘打ち、「民主主義社会における情報の分析・判断を独占する専門家集団」たろうとは、片腹痛いにも程があろう。
たとえジャーナリストが不偏不党中立を目指し、誠心誠意尽力したとしても、神ならぬ身の人が為すこと故、遂に「完全なる不偏不党中立」とはなり得まい。
ならば、「情報の分析や判断」を「特定・単独の専門家集団に委ねる」なんてのは極めて危険で、「複数、広範な専門家集団」に、それも「委ねる」のではなく「参考にする」に留めるべきである。何れにせよ最終的判断は国民自身に依るから、「アホな国民には、アホな民主主義しか実現・実施できない(*1)」。理の当然だな。
なればこそ、「情報の分析や判断を行う専門家集団」は(少なくとも)複数必要であり、対立的対比的であれば尚良い。「商売としてのジャーナリズム(*2)」の意味・意義も、そこにある。「資本主義の勝利万歳!」って訳だ。
理想は、「各専門家集団(ジャーナリスト)が、それぞれ独自に不偏不当中立を目指しつつ、結果として複数の論調となり、対立的・対比的になることだろう。
ちょっと、実現しそうにないが。
現実的な解は、「国民が、情報の分析や判断において複数の専門家集団(ジャーナリスト)を、参考にするに留める」事である。この場合、上掲東京新聞社説にある「”世論”著者リップマンの理想」はある程度実現しようが、東京新聞が求めた「新聞の権威復活」は「実現してはならない」ことになろう。
人民日報や、タス通信、あるいは共産党機関誌「赤旗」に「情報の分析や判断を委ねる」様では「民主主義の実質的自殺」であろう。
で、東京新聞自身は、人民日報やタス通信、「赤旗」と、どれほど差違がある心算なんだね??
<注記>
(*1) たとえ「現代社会の巨大さ、複雑さが国民の理解を超えて」いようとも。巨大・複雑な現代社会で民主主義を実戦するには、それだけ「賢い国民」が必要なのである。(*2) 商業的に成立しない私企業は、永続しない。一時ならばまだしも。