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(1)【AERA】教育勅語、銃剣道、『わが闘争』 閣議決定がなんだか変
【AERA】教育勅語、銃剣道、『わが闘争』 閣議決定がなんだか変l グーグルプラス. by 作田裕史 (更新 2017/5/10 07:00)【1】 最近よく耳にする「閣議決定」という言葉。本来は政府の基本方針を定める重要な決定なのだが、安倍政権ではその閣議決定さえ乱暴になっている。
【2】 ここ1年の間に国会議員からの質問主意書に対して、安倍内閣が行った政府答弁書の「閣議決定」だ。どこか違和感を抱かないだろうか。
【3】 一連の森友学園問題の真相解明は急務だが、「安倍昭恵夫人は私人である」という政府の“屁理屈”をわざわざ閣議決定する意味は何か。戦前の軍国主義教育に用いられた「教育勅語(ちょくご)」の教材使用について、いち内閣が容認方針を軽々に閣議決定してしまっていいのだろうか。さまざまな意味で、安倍内閣の閣議決定には首をかしげざるを得ないのだ。
【4】 そもそも閣議決定とは、行政権を担う内閣の基本方針、統一見解のことで、内閣の意思決定機関である閣議で決められる。意思決定は、閣僚の全員一致が原則。定例閣議は毎週2回行われ、法案、条約、政府答弁書、人事など多岐にわたる事案が閣議決定されている。内閣法第6条には「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」とあり、各行政機関は閣議決定された政府方針に拘束される。
●憲法も国会も軽視
【5】 安倍内閣で、閣議決定が大きな注目を集めたのは、2014年7月1日。従来の憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、安保関連法の法整備に突き進んでいった。だが、戦後一貫して歴代内閣が堅持してきた「憲法9条」の解釈を安倍内閣の判断で変更したこの閣議決定は、「立憲主義」の否定につながるなどと批判を浴びた(*1)。
【6】 上智大学国際教養学部の中野晃一教授(政治学)は、この閣議決定を「非立憲的な国会軽視の典型的事例」と指摘する(*2)。
【7】 「憲法は『内閣は国会に連帯して責任を負う』と定めている。当時は、まずは正攻法で憲法改正をしてから法整備を進めるべきだという国会議論があったり、自民党内からも石破茂氏のように安全保障基本法のような法律を立法することが先決だという意見が出たりしていた。それにもかかわらず、安倍政権は国会や党内議論を深めないまま、閣議決定で解釈改憲を行うという最も安易な方法を選択した。これ以降、閣議決定での憲法軽視、国会軽視に歯止めがかからないようになった」
【8】 今年3月31日に閣議決定された教育勅語の教材使用についても、国会決議との矛盾が指摘されている。安倍政権は「憲法や教育基本法に反しない形」という条件付きで、教材の使用を認める閣議決定をした。だが、天皇への忠誠を強調するなど軍国主義教育の象徴だった教育勅語は、1948年6月に衆参両院で「排除」「失効」の確認が決議されている。衆院の排除決議は、教育勅語が「神話的国体観」に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、国際的にも疑念を残すとして、謄本を回収し、排除を完了するとした(*3)。
●安倍内閣から変化
【9】 ところが、第2次安倍政権の閣僚からは肯定的な評価が相次ぎ、すんなりと閣議決定。4月7日の衆院内閣委員会では、義家弘介文部科学副大臣が幼稚園児に教育勅語を朗読させることについて「教育基本法に反しない限り問題ない」と答弁した。政治評論家の森田実氏は「閣議決定を議会より上位に置くのは憲法違反」と語る。
【10】 「議会は国権の最高機関であると憲法41条が規定しており、内閣は議会に従属します。48年の国会決議であっても、当然、現内閣に対して政治的拘束があると考えるべきです。それを無視して、いち内閣の閣議決定で上書きしようとする姿勢は、完全な国会軽視、行政独裁であり、憲法違反です」
【11】 教育勅語に関する閣議決定は、民進党の初鹿明博衆院議員の質問主意書に対して出された答弁書だ。質問主意書とは、国会議員が内閣に対し文書を通じて質問をすることができる制度。主意書を両院議長を通して内閣に送ると、内閣は政府の統一見解として閣議決定した政府答弁書を出す。
【12】 主意書は、主に野党議員が内閣の説明責任を追及したり、言質を取ったりする目的で出されることが多いため、政府答弁書には慎重さが求められてきた。それが「安倍内閣では変化が生じてきた」と中野教授が言う。
●霞が関は政権を忖度
【13】 「教育勅語で言えば、当然、野党側は過去の国会決議との矛盾を意識して質問主意書を出す。内閣はそこを突かれないように意識して答弁書をまとめるのかと思いきや、憲法違反とも取れる政府答弁書を平気で閣議決定するようになった。それはなぜか。たとえ憲法や国会決議と矛盾しても、罰則もなく裁定もされないからです。その場をしのいでやり過ごせばいい、言った者勝ちだ、というおごりがみえます。憲法も国会も軽視した閣議決定が乱発され、それが権威をともなって『既成事実化』される現状は非常に危険だと思います(*4)」
【14】 閣議決定は行政権を担う内閣の統一見解なので、その方針は各官庁の官僚に拘束力を持つ。たとえば、「教育勅語は教材として使用可能」という閣議決定が出されれば、文部科学省の官僚は、それに従った行政運営が求められる。とはいえ、政府答弁書自体を関係省庁の官僚が書いているので、役人の「思惑」が答弁書に入ることもある。官僚が文章表現を微妙に書き換え、別の意味に解釈できる余地を残す独特の公文書作成は、「霞が関文学」とも呼ばれている。
【15】 元経産官僚の古賀茂明さんは「政府答弁書のタイプは三つに分類できる」と語る。
【16】 一つ目は「政権忖度型」。官僚としては乗り気ではないが、政権の方針には逆らえないので忖度して書く。「昭恵夫人は私人」などがこれに当たり、官僚も無理筋だとは思いながらも、政権ににらまれたくないので、その意向に従って作成する。二つ目は「世論対策型」。政権も率先して出したくはないが、世論の反発も考えて書かなければいけないケース。役人の不祥事に対する再発防止策などは、本音では政権も官僚もどちらもやりたくない。しかし、世論を意識して渋々ながら書くという。三つ目は「便乗型」。質問主意書に便乗して、自分たちに利益誘導できる文言を入れて答弁書を作成する。政権は無関心だが、官僚にとっては重要となる。たとえば、宇宙開発に関する質問主意書が出たときに、「必要な予算措置も含めて積極的に推進する」という一言を入れ、事後に「閣議決定でも予算措置に触れていた」と予算交渉などに使うという。
【17】 「閣議決定は官僚を拘束しますが、逆に官僚が利用することもある。世論対策だけで、実務では放置するケースもある。国民が考える以上にしたたかに立ち回っています」(古賀さん)
●答弁書が「事実」を作る
【18】 奇妙な閣議決定が乱発される背景には、現内閣による憲法や国会の軽視、一強のおごり、官僚の過度な忖度などが見え隠れする。安倍政権の問題点が凝縮されているといっても過言ではない。私たち有権者は、事実や論理との整合性をきちんと見極め、閣議決定という「権威付け」に惑わされない目を養う必要がある。中野教授はこう警鐘を鳴らす。
【19】 「新聞記事には『○○を閣議決定した』とだけ書かれることが多い。しかし、閣議決定はあくまで内閣の統一見解であり、正義や真実とは限らない。内容にきちんとした批評、検証が加えられなければ、政府にどんどんオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)を作られる危険性もあります。国民が『政府の方針は正しいはずだ』と思考停止に陥らないように、メディアのチェックが不可欠です」
【20】 閣議決定への「違和感」は、決して侮ってはいけないのだ。(編集部・作田裕史)※AERA 2017年5月15日号
<注記>
(*1) 法案を法律として立法したのは、国会だ。「内閣による解釈改憲法案」を以って「立憲主義否定」と称するならば、国会の責任てのは、どうなるんだよ。(*2) 内閣に法案を出す権限があるのに、かね?実に奇妙な話ではないか。(*3) それは、当該閣議決定にもある通り「国の唯一の教育方針としての教育勅語の否定」であろう。左様に解釈すれば、先行する国会決議と、当該閣議決定は、何ら矛盾しない。「矛盾しない解釈が成り立つ」以上、少なくとも「逃げ道はある」訳だ。(*4) それは、安倍内閣に始まった訳が無かろう。制度としては、日本国憲法発布にまで遡れそうなぐらい昔から、そうなのだろう。それを今般安倍内閣が「利用し始めた」としても、それは「安倍内閣の狡猾さ」を示すかも知れないが「野党の遠吠え」以外の何かね?それを言うならば、左様な「欠陥体制」を放置した、政治学者の泣き言、でもあるかな。
「何が変か」すら指摘せずに、何の評論、何の記事か
ま、「週刊誌の記事なんざぁ、この程度」と言ってしまえば、それまでなのかも知れないが、曲がりなりにも署名記事だよ、ねぇ。AERAよ。作田裕史記者よ。
第一、見出し・タイトルに「教育勅語、銃剣道、『わが闘争』」と3つも列挙しながら、本文では「教育勅語」にしか触れないのは…ああ、先行する国会決議で否定されているのが、教育勅語だけ、だからか。「国会軽視」だの「立憲主義の否定」だのの「批難」は、銃剣道にも『我が闘争』にも当てはまらない。
であるならば、見出し・タイトルに列挙した「教育勅語、銃剣道、『わが闘争』」に共通するのは、同じ見出し・タイトルにある「安倍政権の閣議決定に対する”違和感”=”なんだか変”」でしかない。ならば、記事の方で「”違和感”=”なんだか変”」の「何が変か」を分析解説しそうなものだが、「銃剣道」や「我が闘争」はどこへやら。「教育勅語擁護の閣議決定に対する立憲主義違反の疑い」しか書いていない。
そのくせ、
1〉 閣議決定への「違和感」は、決して侮ってはいけないのだ。
と、実にもっともらしく上掲記事を〆る。
上掲記事を要約するならば、「安倍政権の閣議決定には違和感を感じるモノが数多あるが、その違和感には教育勅語の例の様に立憲主義に反する疑いのモノもあるから、違和感は大事にしよう。」となろうが、「違和感の、何がいけないのか」は「教育勅語の例では立憲主義に反する疑いがある」と縷々述べるばかり。銃剣道と「我が闘争」については、「違和感」としか、それも見出しでしか触れていない。
アジびらならば、これで十分かもしれないが、これが、週刊誌とは言え、署名記事だぞ。恥ずかしくないのか、AERAも、作田裕史記者も。
少なくとも、斯様に見出しをとった以上、「銃剣道や『我が闘争』についての閣議決定に対する(少なくとも記者自身が感じた)”違和感”を、”何故侮ってはいけない”のか」は、説明する義務はないのかね。
「説明する義務なし」とするならば、上掲AERA署名記事は、「安倍内閣に対するイメージダウンを図った記事」以外の、何かね?
上掲記事に登場する上智大学国際教養学部の中野晃一教授(政治学)ってのも、相当怪しいね。
2〉「新聞記事には『○○を閣議決定した』とだけ書かれることが多い。
3〉しかし、閣議決定はあくまで内閣の統一見解であり、正義や真実とは限らない
。
なんて極ごく当たり前のことを何尤もらしく言っているんだか。
大凡、神ならぬ身の人が為すこと。閣議決定だろうが、国会決議だろうが、AERA記事だろうが、当の中野教授自身の言説だろうが、「正義や真実とは限らない。」なんて、当たり前過ぎて欠伸も出ないぞ。