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 かつて、「一世を風靡した」と言って良さそうな人気を誇った漫画「北斗の拳」。原作・武論尊/画・原哲夫の「北斗の拳」は「世紀末救世主伝説」とサブタイトルがあり、「核戦争によって文明が崩壊した世界で、一子相伝と言う伝説の北斗神拳を身に着けた主人公・ケンシロウによる勧善懲悪物語」と要約できよう【敢えて断言】。何しろ「文明が崩壊した世界」が背景だから、「勧善懲悪物語」ったって「大岡越前」や「遠山金四郎」や「水戸黄門」の様には行かず、「悪を懲らしめる」のは「悪人を殺す」と言う、三審制どころか裁判すら無しの私刑執行。時代劇で言うと「必殺仕事人」って処だろう。

 「一世を風靡した」だけに、いくつもの名科白を生み出し、「スロー過ぎて欠伸が出るぜ。」「手前ぇの血は何色だぁ!」等は、今でもたまに引用したりする(*1)。

 タイトルにした「お前は既に死んでいる」も、ケンシロウの吐いた名科白の一つ。で、一番引用頻度が高そうだな。今回タイトルに引用し、私(zero)が死を宣告した相手は、「日本国憲法9条」だ。
 

<注記>

(*1) 「たわば」や「ちにゃ」や「ひでぶ」は、滅多に引用しない。 


【東京社説】日本の平和主義 不戦が死文化しないか
Tweet 2017年5月16日 

【1】 自衛のための戦争なら何でも許される-、そう考えるのは誤りである。振り返れば、日本に限らず「自衛」の名を借りて、侵略戦争を引き起こしてきたからだ。

【2】 一九四六年六月(*1)。新憲法制定の帝国議会における吉田茂首相の答弁を振り返ってみよう。<近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり、大東亜(太平洋)戦争しかりであります。今日わが国に対する疑惑は、日本は好戦国である。いつ再軍備をなして復讐(ふくしゅう)戦をして世界の平和を脅かさないともわからないということが、日本に対する大なる疑惑であり、また誤解であります>

【3】 だから、九条を定め、この誤解を正さねばならないという吉田の主張である(*2)。導き出されるのは、九条は自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄したという、憲法の読み方である。

【4】 もっとも主権国家である以上、自衛権をも否定するものではないと解されてきた(*3)。そして、政府は自衛のため必要最小限度の実力を保持することは憲法上認められるとしてきた(*4)。その実力組織こそが自衛隊だった。

【5】 学問の上では違憲・合憲のやりとりは今も続くが、国民の生命や自由を守るための実力組織としての存在は、国民から支持を得ているのは間違いない(*5)。

【6】 ところが、安倍晋三政権下で他国を守る集団的自衛権の行使の問題が起きた。歴代の内閣法制局長官が「憲法改正をしないと無理だ」と述べたのに、一内閣の閣議決定だけで押し通した。「憲法の破壊だ」と声が上がったほどだ。安全保障法制とともに「違憲」の疑いが持たれている。

【7】 今までの個別的自衛権は自国を守るためであったし(*6)、自衛隊は「専守防衛」が任務であった。それなのに任務が“突然変異”してしまった(*7)。他国や同盟国の艦隊などを守る任務は明らかに九条の枠内から逸脱している(*8)。歴代の法制局長官もそう指摘してきた。

8】 安倍首相は九条一項、二項はそのまま残し、三項以降に自衛隊を書き込む改憲案を提唱している。もともと不意の侵入者に対する自衛権だったのではなかったか(*9)。もし米軍とともに他国まで出掛けていく自衛隊に変質していくのなら、九条の精神は死文化すると言わざるを得ない。【9】 平和憲法を粗末にすれば、「自衛」の名を借りた、自衛戦争をまた引き起こす恐れが出てくる(*10)。

<注記>

(*1) 自衛隊の前身たる警察予備隊の発足が1950年8月。この1946年6月と言うと、我が国は帝国陸海軍を失い、我が国の防衛を全面的に米軍に依存していた頃、の話だ。 

(*2) この時、即ち警察予備隊すら発足以前の、バリバリGHQ占領下で、帝国陸海軍は解体された状態での、ね。 

(*3) 「自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄した」のに「自衛権はある」って、その「自衛権」には意味がないだろうに。 

(*4) オイ、何詭弁を弄しているんだ。「自衛のため必要最小限度の実力を保持する」時点で、「自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄した」なんて前提は、崩れていようが。 

(*5) 国民から支持を得ているから、違憲でも構わない」なんて屁理屈、よくもまあ恥ずかしげもなく吐けるな。かつて社民党(当時社会党)が唱えた「自衛隊は違憲だが合法だ」って屁理屈と、良い勝負だ。 

(*6) オイ、待てよ。日本国憲法が「自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄した」のならば、個別的自衛権だって「違憲」だろうが
 
(*7) これも詭弁だな。以前の政府見解は「我が国は、集団的自衛権を当然有するが、集団的自衛権の行使は日本国憲法違反であるから、行使出来ない」だった。此の奇々怪々な状況を些かなりとも改善したのが「日本国憲法下でも、集団的自衛権を行使し得る」と言う「解釈改憲」であり、根本的に解決するには憲法9条そのモノ改正が必要である。 

(*8) 一方で、国と言うモノは”基本的国権”として集団的自衛権を有している。
 なればこそ「改正しなければならないのは、日本国憲法9条」なのである。QED 

(*9) 「もともと」と言うならば、本東京新聞社説が認める通り「自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄した」だろう。
 占領軍GHQが、被占領国大日本帝国の牙も骨も抜いてしまおうと強制した憲法だ。「もともと」「自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄した」のは、理の当然だろう。
 問題は、そんな「占領軍GHQが、被占領国大日本帝国の牙も骨も抜いてしまおうと強制した憲法」を、「憲法違反の」自衛隊を保持しながら、一字一句すら変える事なく70年間も放置してきた、日本国および日本国民だ。 

(*10) 平和憲法とやらを墨守して、自衛戦争すら出来ずに滅びてしまうよりは、随分マシだがね。 

死文化しているならば、変えようが廃そうが影響あるまい


1> 九条は自衛戦争も含めた一切の戦争と戦力を放棄したという、憲法の読み方である。

と言う「前提」は、少なくとも警察予備隊発足時に崩れて居ろうが。「死文化」と言うならば、警察予備隊発足時点で「少なくとも死文化は始まって居た」と考えるべきだ。

 日本国憲法9条を、上記1〉の通り解釈し、それ以外の解釈、例えば歴代日本政府が重ねてきた「解釈改憲」を認めないならば、警察予備隊発足と言うある種「戦力の保持・容認」を以って「日本国憲法9条の(*1)死文化」した事は、免れようがない「冷厳たる史実」であろう

 ま、警察予備隊発足の頃はその頃で(何しろ、大東亜戦争後まもなく、朝鮮戦争の頃で、昔の話だ)、東京新聞は「日本国憲法9条の死文化」を警告し、訴えた、のであろうが、その後警察予備隊が自衛隊となり、相応に装備も充実させ、国連のPKOとして”海外派兵”され(*2)、漸く集団的自衛権の発露が認められたのがつい先ごろ。この間、少なくとも「上記1〉の通りしか解釈できない憲法9条」は、「どんどん死文化が進んでいった」筈である。

 何、占領下も占領下。警察予備隊すら発足せず、帝国陸海軍が解体されていた頃の吉田茂演説引っ張り出して憲法9条の死文化は許さないだ。寝言は、寝て言いやがれ。

<注記>

(*1) ひょっとすると「一部」かも知れないし、「限定的」かも知れないが、 

(*2) その頃アカ新聞どもが大騒ぎした事は、流石に私(ZERO)でも記憶にある。